不器用な恋に絆創膏
「あれ」
ガタン、と古びた教室の扉が軋む音と共に発せられた声に顔を上げると、そこにいたのはつい先ほどまで掴み合いの喧嘩をしていた相手――渚だった。
「カルマ、まだ残ってたんだ」
「うん。……何となくまだ、帰る気分にならなくて」
短いツインテールを揺らしながらぴょこぴょこと近づいてくる姿は無害そのもので、まさか誰もこの人が俺に喧嘩で勝ったなんて思わないだろうな、と思うとなんだかおかしくなってカルマは小さく笑った。
「? 何かおかしい? あっ殺せんせーもしかして何か変なものとかつけたり!?」
カルマの笑いに変に深読みをしたのか、渚は急に慌てだす。その様子にカルマはまた笑った。
「はは、いや別に変なものはついてないよ。こっちの話。……今日、お互い張り切っちゃったなあって」
「あぁ~……」
渚は苦笑して、自身の手の甲に貼られた大きな絆創膏を見遣る。絆創膏の真ん中には、ご丁寧にニッコリと笑った殺せんせーのイラスト付きだ。
殺せんせーを助けるか助けないかでクラスが二分し、最終的に渚とカルマがタイマン勝負をすることになった今日。これまで抱えてきた小さなわだかまりのようなものも全てぶつけあうようにして、お互いに柄にもない泥臭い喧嘩をしてしまった。全て決着がついた後、全身に打撲や擦り傷を作ってしまったカルマと渚を殺せんせーがそれぞれ手当てをしてくれたのがついさっきのことだ。その間に他の生徒はすっかり帰宅してしまって、今教室にいるのは渚とカルマの二人だけ。太陽もいつの間にか随分傾いて、教室の木の机がオレンジ色に染まっている。
「流石に消毒液が染みたよ。喧嘩とか全然したことないし、こんなに擦り傷作ったのは小学生の時に思いっきり転んで以来だなぁ」
そうポリポリと頭を掻く渚の髪の毛も夕焼けに照らされてきらきらとオレンジ色を反射する。ほんの少し前までは泥に塗れてぐちゃぐちゃだったというのに、殺せんせーのお手入れスキルは流石と言うほかない。
「俺も普段は喧嘩で怪我とかしないからなぁ」
「流石だね、カルマ……」
渚の言葉に、カルマはふふんと得意げに笑う。
「っていうか、怪我大丈夫?」
「怪我させた本人に言われるって、なんか面白いね」
「う~、だってあの時は必死だったし……。それにカルマく、……っと、じゃなかった、カルマ」
「……慣れない?」
どもった渚にカルマが指摘すると、渚は少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「うーん、今までずっと『カルマくん』だったから、急に変えるってなるとなんか変な感じだね」
「別に嫌なら変えなくてもいいんだよ、呼び方」
カルマがそう言うと、渚はハッとしたようにふるふると首を振った。
「嫌じゃないよ! むしろ呼びたいから、カルマ、って」
そうまっすぐに、きれいな青色の目でカルマの目を射抜くように見据える渚に、今度は気圧されるのはカルマの方だった。
(……渚ってほんと、そういうとこさぁ)
握っていたはずの主導権が音もなく背後から奪われる。しかも本人は無自覚だからタチが悪い。中学一年で友達になった時から、そしてその後――どちらからともなく付き合うようになってからも、だ。
「カルマ、カルマ……うん、よし」
カルマの心中に全く気付かない渚は、真面目にもカルマを呼び捨てにする練習なんてしている。こっちは渚の一言でこんなに振り回されているのに、と思うと何だか急に悔しくなって、渚のことを慌てさせてやりたくなって、「渚」と彼の名を呼ぶ。
「ん、なに、カルマ――」
完全に自分の世界に入りかけていた渚が顔を上げたところに、ちゅ、と唇を落としてやる。触れるだけで離れたキスに、渚は驚いたように肩を震わせた。
「っ、き、急にどうしたの」
「いやぁ、何となく?」
ぽっと顔を赤く染めて慌てた様子でそう言う渚を見て、してやったり、とカルマは笑みを零す。それは悪戯が成功した嬉しさと同時に、渚の意識が完全にカルマの方に向いていることに対する優越感があることも自覚して、どこまでも潮田渚という人物に溺れている自分に少し呆れた。
「……なんかさ、今まであんまりしてこなかったよね、こういうこと」
ぽつりと零された渚の言葉に、カルマは一つ瞬きをする。
(……そういえば、そうだったな)
渚とカルマが付き合い始めたのは、正確にいつだったかは分からないけれど、それなりに前のことだった。お互いがお互いを好き合っているのを気付いていた、だから付き合った、という単純な話。人目に隠れて時折手を繋いだり、唇を重ねたり――そういうことは何度もしてきたけれど、数えるくらいの回数だ。その先のことは、まだないし、そういう雰囲気になったことすらない。恋人らしいことをしたくなかったわけじゃない。むしろしたかった。けれど何となく、お互いがお互いに抱えた、正体すらよく分からないモヤッとした感情が変に絡まって解けなくて、どこか他人行儀なまま一歩を踏み出せなかった。
「……さっきの喧嘩で色々、ふっきれたのかな」
モヤッとした霧みたいな感情が晴れて、その正体を生身でぶつけあって、いつの間にか知恵の輪みたいに複雑に絡まった感情は解けてしまったみたいだった。その証拠にさっきは何も深いことを考えずに渚の唇を奪えた。
「うん、……僕も、カルマも」
その後に残ったのは、君が好き、という気持ちだけで。
目の前にある問題を全部解き終わってみれば、世界はこんなにも晴れやかで単純だ。
それが何だかおかしくって、カルマが笑うと、渚もつられたように笑う。
「――って、あ、そうだ宿題出てたんだった! 帰ってやらないと……!」
それまでのムードもへったくれもなく、渚がハッとしたように叫ぶ。そういえば出てた気がする。あの喧嘩の一件が起きる前に渡された、もう受験シーズンも本番ですよ!なんてふざけたタコのイラストが描かれた大量のプリントだ。
「……じゃ、俺んち来る?」
「え?」
カルマの提案に、驚いたように渚が顔を上げる。
「俺んち今両親いないし。一人でやるより二人で教え合いながらやった方が効率いいでしょ」
「う、うん、……じゃあ」
カルマ自身は特に深く考えずに言った発言だったけれど、どこか落ち着かない様子の渚を見て、カルマの心の中でまたいたずら心がむくむくと膨れ上がる。
「あっ今渚エッチなこと考えたでしょ~、エッチ~」
カルマがそう言うと、渚の顔がカアアとさっきよりもずっと赤く染まる。
「っか、考えてないよ!!」
やっぱり図星だったか、と慌てる渚を見てカルマはニヤニヤと笑う。それと同時に、カルマとそういうことをするということを渚が少しは考えてくれているということが嬉しくもあって。
「……俺は、渚とだったらいいけどね」
「え」
カルマの言葉に、先程までわたわたと落ち着きのない様子だった渚が一瞬固まる。その隙にカルマはスクールバッグを手に持ってすたすたと教室の出口まで歩いていく。
「早くしないと置いてくよ、渚~」
「ちょっ、待、ってよカルマっ!」
後ろからばたばたと追いかけてくる渚の足音が聞こえる。歩く度にミシミシと軋む廊下、夕焼けが二つの影を照らした。