やわらかな朝にカフェオレを

 ふ、と緩やかに意識が浮上してチェズレイは目を開けた。部屋の中はカーテンの隙間から漏れる柔らかくも薄明るい色に包まれていて、ああ、朝かと思う。時計はまだ見ていないが、この明るさからすればそこまで早すぎる時間ではないだろう。
 普段であればこのまま起きてまずキッチンに水を飲みに行くところなのだが、今日はなんだかすぐに起き上がる気になれずチェズレイは白い天井を見上げた。昨夜は特段の夜更かしをしたわけでもないから睡眠時間が不足しているわけでもない。この理由については、自分でも珍しくて少し驚きはあるが、だからこそ当たりはついていた。
 チェズレイは横になったまま、少しだけ瞼を緩めてまだ眠りとの境界付近を歩く自分の意識の中を揺蕩う。先ほどまで頭の中にあったはずのものを掴もうとしてみたのだ。しかし、なかなかどうして目が覚めていくうちそれは手のひらをするりと零れ落ちていく。輪郭がぼやけてもう思い出せもしなくなっていくことが、自分の深層心理だというのにどこか理不尽なように思った。
 まあ、いいか。元より幻想を追いかける趣味はない。そう思ってそんな戯れをやめようとしたところで、耳が遠くから聞こえる小さな音を拾った。ダイニングの方からの物音だ。どうやら相棒は、既にすっかり起きて朝の支度をしているらしい。カップがぶつかるような音がしているところから考えるに、おそらくは――。

「おはようございます、モクマさん」
 寝室を出て掃除の行き届いた綺麗な廊下を進み、ダイニングのドアを開ける。チェズレイがそう声をかけるとモクマは目を細めて「お、おはようさん」とチェズレイに返した。その声を聞きながら、ふっとチェズレイの鼻孔をくすぐったのはやはりコーヒーのにおいだった。
「ちょうどよかった。今カフェオレ淹れてたとこだったんだけど、チェズレイもいる?」
「はい、お願いします」
「ブラック? カフェオレ?」
「そうですね。では、カフェオレで」
 チェズレイが答えるとモクマはふっと機嫌良さそうに、あるいはどこか悪戯っぽく笑ってから「了解」と返す。モクマが食器棚からチェズレイの分のマグカップを手に取るのを横目に、チェズレイは常備しているミネラルウォーターを手に取ってグラスに注いだ。起き抜けに水を飲むのは昔からのチェズレイの習慣だ。グラス一杯分の水をいつものようにごくりと体の中に流し込むと、喉の奥を通っていく水が体も目覚めさせていくような感じがする。
 と、そんな時だった。もう一人分のコーヒー豆の袋を取り出していたモクマが口を開いたのは。
「――あんま眠れんかった?」
 唐突な問いが投げかけられ、チェズレイは思わず目を瞬かせる。
「どうしてです?」
「んー? なんとなく、いつもよりちょびっとだけぼんやりしてるような気がしたから」
「成程」
 相変わらず、ぼーっとのらりくらりとしているようでしっかりと鋭い。戦いの場で舞う彼の姿を思わせるその鋭さに、高揚と、そして彼が自分のわずかな違いを気付き伝えてくることへの嬉しさを覚えながらもチェズレイはモクマの指摘について考えた。
 それは、自分でも思い当たる節はあるのだ。
「よく眠れましたよ。ただ、珍しく夢をみたもので」
「夢?」
「ええ。私、昔から眠っているときに夢はほとんど見ない体質だったのですが、今日は珍しく見ましてね」
「へえ、なるほどね。……悪夢でもみたかい?」
 モクマの眉根がわずかに気遣わしげにしかめられるのを見ながら、チェズレイはすぐに「いえ」とかぶりを振る。
「幸せな夢だった、と思いますよ。残念ながら内容はもう覚えていないのですが」
「そうか。そいつはよかった」
 片手に持ったケトルから、モクマがコーヒーサーバーにお湯を注ぐ。もうひとり分のコーヒーの香りが、朝の淡い光に照らされた二人の部屋を包んだ。上質な豆の香りだ。先日チェズレイ自身が街で見繕った、チェズレイの好きな銘柄のコーヒー豆をモクマが選んだことはすぐに分かった。
 抽出されたコーヒーが、チェズレイのマグカップに半分ほど注がれる。それから、コーヒーを抽出している間に電子レンジで温めていた牛乳を取り出したモクマは今度はそれをチェズレイのマグカップに注いだ。濃いめのブラックコーヒーが牛乳と混ざって、澄んだ黒が不透明で柔らかな茶色へと変わっていく。モクマ特製――といっても特別な工程はなにひとつ入ってはいないのだが――カフェオレの完成だ。
「ほい、どーぞ」
「ありがとうございます」
 モクマから差し出されたマグカップをチェズレイは受け取る。あたたかな温度とカフェオレの香りを感じながら、チェズレイはマグカップになみなみと注がれた色を見つめた。
 カフェオレを昔はチェズレイは好まなかった。味が嫌いというわけでもなく、コーヒーと牛乳が混ざり合ったこれはチェズレイにとっては濁っているものだと分類されたからだ。濁っている、という思いは今も抱くが、今の自分はそれに対しての忌避感は不思議と感じなかった。そればかりか、彼が淹れたのだと思えば何の変哲もないカフェオレ一杯でさえチェズレイにとっては大切なものであった。
 二人でカップを持って、ダイニングテーブルに移動する。湯気を立てるカフェオレを一口飲めば、コーヒーの苦さを牛乳の柔らかな甘みが包むような優しい味わいがチェズレイの口の中を満たす。それをごくりとゆっくり嚥下してから、チェズレイは話の続きをしようと思って再び口を開いた。
「夢の、内容は覚えていないのですが」
 目の前で同じようにカフェオレを飲んでいたモクマが、チェズレイの言葉に顔を上げる。そして言葉の続きを待つようにチェズレイの顔を見つめた。二人の部屋の中で自分が彼に対して紡ぐ声はとても穏やかな色をしていた。それは今朝の、内容を覚えてはいない夢の余韻も手伝ってのことかもしれなかった。
「――貴方が出てきたような気がします」
 チェズレイの言葉にモクマはわずかに驚いたような顔をする。そうしてその目は再び細められて、相棒は「そっか」と小さく、嬉しそうな、あるいは奥底に優越感を湛えたような、そんな表情で笑った。



(2024年2月22日初出)





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