きみの知らない夜の話

「あなたが私に涙をみせてくださるのは、情事の時だけですね」
 きれいに取り替えられた白いシーツの上、シャワーから戻ってきてベッドに腰掛けたチェズレイは寝転がったモクマを見下ろして不意にそう口にした。
 チェズレイの白くて細長い指が、モクマのうっすらと赤くなった目元をひどく優しい手つきでなぞる。その言葉と仕草に、つい数十分前まで散々泣かされた情事のことを思い出させられ、モクマは少し落ち着かない気分にさせられてしまった。泣かされたといっても、嫌なことをされたわけではない。むしろ、もっと好き勝手にしてもいいのにと思うくらいにベッドの上のチェズレイはいつだって丁寧で優しかった。
 そういうときの涙というのは、あまりにも気持ちがよすぎて限界を超えたゆえに生理的に勝手にこみ上げてきてしまうものだった。今夜もそうで、このところ別行動をすることも多く時間的なすれ違いが重なり、こうして肌に触れるのが久しぶりになってしまったこともあってか随分と盛り上がってしまったのだ。
 思い出せば少しばかりの羞恥を感じてしまうが、しかしそれ以上に急にチェズレイがそんなことを言い出したのをなんだか意外に思ってモクマは「なに、どしたの? 急に」とチェズレイに問いかける。モクマも体を起こしてチェズレイと視線の高さを合わせてやろうかと思ったが体にはまだ事後の倦怠感が残っていて、モクマはとりあえず寝転がったままチェズレイを見上げてやることにした。
「いえ、なんとなく思っただけですよ」
 チェズレイの指は、まるでモクマの体を構成する細胞のひとつひとつすらを慈しむようにモクマの肌をゆっくりと撫でた。粗くかさついたモクマの肌とは違って、チェズレイの肌は繊細な絹糸みたいに滑らかだ。肌ひとつとっても人によってこんなに違うのかと、チェズレイと触れ合うと驚くことがある。悪い意味ではなくその言葉の通りに、違う人間なのだ、と改めて実感する瞬間でもあった。
「私は、あなたの涙をこういうときにしか見たことがないな、と。共に過ごした年月を、それなりに重ねてきたつもりですが」
 チェズレイが少しだけ体を寄せた拍子に、チェズレイの耳に掛かっていた長い髪が一房さらりと垂れ落ちた。メイクを落とした目元がわずかに細められる。ベッドサイドの淡い明かりに照らされた宝石みたいにきれいな紫色の目の奧をモクマは見つめた。その奧にある色は、幾重にも重なった緻密な計算を怠らない詐欺師のそれではない。そうだあなあ、例えるなら、とモクマは思う。例えるならば――少しだけ拗ねてみせる、小さな子どものような。
 チェズレイのこんな顔を見るのは、今のモクマにとってさほど珍しいことではなかった。一度詐欺師の仮面を被れば寸分の隙もみせることはないこの男は、ふたりきりの時、とりわけ情事の後なんかには少しだけ気が緩むのかこういう素の表情や裏も計算もない言葉をモクマにだけみせることがあった。
「いやあ、そりゃ泣く必要がないから泣いてないだけだよ。お前さんと居て、毎日幸せだしね」
「フ、またそうやって煙に巻く」
「本音だよ」
 その長い睫毛を伏せて小さく笑うチェズレイに、モクマはそう言ってやる。「それより、ほら」とモクマはずっとベッドの淵に座ったままでいるチェズレイの腕を掴んで軽く引いてやった。引っ張り込むほどの力は込めていない。しかしその意図を正しく理解したチェズレイは、「ご随意に」と今度は柔らかな笑みを口元に湛えモクマの隣に寝転がった。チェズレイの分のスペースを確保するためにモクマは少しだけ壁際に下がったが、それでもこのベッドは十分すぎるくらいに広い。この果てのない長い旅路をふたりで始めたばかりの頃には別々に用意されていた寝室は、年月が経ち拠点を何度か移動するうちにいつしか用意されるのは大きなひとつの寝室に変わっていった。
「……マイカの忍びは、いかなる時でも涙をみせないのが美徳とされていたと聞きます。あなたもきっと幼い頃からそういった教育を受けてこられたのでしょう」
 先ほどよりもずっと近くなった距離、同じ目線の高さからチェズレイがモクマに向けてそう口にする。ピロートークには少しばかり無粋な話題はまだ続くらしい。しかしモクマはそれを嫌だと思いはしなかった。追求されたとて、こちらが出せるものがないだけだ。
「まあ、それは合ってるよ」
「私とて幼少期から闇の世界に身を投じていた人間です。涙をみせる――すなわち弱みをみせることは己の陥落と死に直結するような人生でしたから、理由は違えど少し分かりますよ。それを私自身ずっと、我慢の類とは思ってはきませんでしたが」
 そこまで喋ってからチェズレイは一呼吸おいて、そして「でも、あなたは」と続けた。
「あなたはいつから他人にも――自分にも涙を隠し続けてきたのかと、少し思ってしまっただけです」
 チェズレイの瞳がモクマを見つめる。駆け引きも計算もない、かといって同情も哀れみもない、ただ静かで真っ直ぐな瞳だった。逸らせない至近距離からの眼差し。モクマも逸らす気は沸かなかった。しかしその言葉にどう返したものかと、モクマは自分の心の内側に答えを探す。
 モクマがそうして答えあぐねているうちに、チェズレイはくっと口元で笑ってごろりと体を仰向けに返した。その紫色の瞳はモクマではなく、今度は真っ白な天井を見る。いや、正確には天井ではなく、少し前の過去を懐かしむようにその目は遠くを見つめわずかに細められた。
「……私はあなたに、あんな無様な泣き顔を晒してしまったというのに」
 不本意だった、とでも言いたげにわざとらしく少しだけ低くなった声。しかしその実、チェズレイの声色に後悔や不快感は滲んではいなかった。無様な泣き顔――と言われて思い出される景色は、数ヶ月前のヴィンウェイの山小屋でのことだ。
 モクマに黙って姿をくらまし単独行動をした果てに水面下で酷い怪我を負ったチェズレイが、己の感覚を紛らわせていた自己催眠を解いたときの痛みに悶えながら零したあの涙。モクマも忘れるはずがない。――決して、一生、忘れることはないだろうと思う。
「俺はあれを無様とは思っとらんよ」
「下衆ですねェ」
 チェズレイは喉を鳴らして小さく笑った。チェズレイの静かな笑い声を聞きながら、モクマはあの時のことを思い出して目を伏せる。過去の出来事を後悔し続けるばかりのはずだったモクマの人生は、二年前に隣の男が奪い去ってくれた。しかしあの極寒の山小屋でのことを脳裏に描けば、モクマはまだあの日の胸が詰まるような感情を鮮明に思い出すのだった――こんな思いだって時が経てば自分の人生の一部になるだろうと思っているから、これを苦しみだとは今のモクマは思ってはいないのだけれど。もしこれを苦しみだなんて言って背負おうとしてしまえば、きっと相棒からまた荒療治を受けてしまうことだろう。
(――涙、ね)
 モクマはあの日のことを思い出しながら考える。
「……俺も、一度もみせなかったわけじゃないよ」
 そう、自分だけ聞こえるほどの小さな声でモクマは呟いた。吐息に混じるように吐き出されたその言葉は、流石の相棒も捕捉ができなかったらしい。「今、なにか仰いました?」とチェズレイが再びモクマの方に顔を向ける。そんなチェズレイに、モクマは「いんや」と軽い調子で返してやった。
 あの時に、聡い相棒のことだから言わずとも伝わっているだろうと横着していた節のあった己を呪った。言葉にして伝える大切さを痛感した。だから大切なことはできうる限り言葉にしようと今のモクマは思っている。
 だけど、あの日のこと――チェズレイが気を失っていた数時間のひとりきりの時間のことだけは、モクマはあえて相棒に伝えるつもりはないのだった。
「さっき言ったろう。今の俺は幸せだから、泣く必要がないってだけだよ」
 そう言って笑って、モクマはチェズレイの方に体を寄せた。何も纏わない腕同士が触れ合う距離に近付いても、チェズレイは拒まない。それに気を良くしたモクマは、すぐそこにあった手のひらに自分の手を重ねてみせた。モクマより少し低く感じるその体温は、しかしあの日の氷のような温度とはまったく違ったから、――それが今のモクマにとって紛うことのない幸福であった。




(2024年2月25日初出)





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