dear my white reminiscence

 昨晩遅くから降り始めた雪は、朝になっても止むどころか勢いは増すばかりのようだった。ニュースでは、この国にとっては数年に一度レベルの大雪だと報じられているそうだ。確かにこのレベルの吹雪というのは、故郷――ヴィンウェイでは見慣れていても、あの地を離れてからはチェズレイも目にする機会はほとんどなかったように思う。窓の外をちらりと見やれば朝だというのに空はどんよりと暗く、降り積もる雪が眼下に広がる街のなにもかもを暴力的なまでの白色に塗りつぶしていく。
 ――そんな景色に対して、どこか新鮮味のような感情を覚えた自分のことをチェズレイは俯瞰で考える。こんな感情を抱くということに、あの地を離れてからの月日の長さを思わされた。
 いや、物理的な月日だけではないのかもしれない。精神的な部分が、過去と己の距離を実際よりも随分と大きなもののように感じさせるということも間々ある。それこそ、あの地を出た時の自分と、今の自分では歩む道程こそ似通っていても目に映る景色がまるで違う人生を歩み始めたものだから。
 ふと、寝室の方から物音がした。廊下をぺたぺた歩く足音は、このキッチンではなくまず洗面所の方に向かっていく。顔を洗っているのだろう水音を聞きながら、チェズレイは出来たばかりのクロックムッシュを真っ白な皿に盛り付けた。彼も、もうじき起きる頃だろうと思っていた。
 二人分の朝食のプレートが出来上がったところで、足音が洗面所からこちらの方に向かってくるのが聞こえる。そしてチェズレイが振り返ったのとほとんど同時に、すぐそばのドアが開いた。
「チェズレイ、おはようさん」
「おはようございます、モクマさん。朝食ができていますよ」
 チェズレイの言葉に、モクマは「ん、ありがと。いい匂いだ」とその目元を緩めながらチェズレイの方へ歩いてくる。そしてキッチンカウンターに並べられた二人分の朝食プレートを覗き込んで再び口を開いた。
「今日も流石だねぇ、高級ホテルの朝食みたい」
「お褒めにあずかりまして」
「コーヒーはこれから?」
「ええ」
「じゃーそれはおじさんがやるよ。チェズレイは座ってて」
「ありがとうございます。ではお皿の方は私が持って行きますね」
「りょーかい、ありがとね。チェズレイは今日はブラック? それともカフェオレ?」
「そうですねェ……」
 機嫌良さそうなモクマにそう問われて、チェズレイは少しだけ考える。モクマが淹れるカフェオレは好きだが、今日の朝食に合わせるなら。
「では、今日はブラックで。カフェオレはまた、午後にでも頂きましょうか」
 チェズレイが言うと、モクマは「お」とチェズレイを見る。
「今週は街に出て情報収集――って話だったけど、今日は家でのんびりに変更かい? ま、この大雪じゃあね」
 そう言ってモクマは、キッチンの脇にある小さな窓を見やる。窓の外は相変わらずの曇天と降りしきる雪ですっかりモノトーンの景色だ。
「ええ。この吹雪の中わざわざ出るほど急ぎの用事はありませんし。街に人がいなければ収集できる情報もないでしょう」
 言いながらチェズレイは、二人分の朝食プレートをすぐそこのダイニングテーブルへと運ぶ。
 今の拠点としているこの部屋はカウンターキッチンとリビングダイニングが隣接している、二人暮らし以上としては比較的一般的な構造の住居だ――それでも十分ゆとりのある広さの部屋ではあるが。チェズレイの金と力があればもっといくらでも豪勢な部屋に住むこともできたのだが、ここに暮らすのはチェズレイとモクマの二人だけだから、互いがどこで何をしているかも分からなくなるようなただっ広い部屋に住むほどの理由もないと思った。それだけのことだ。数週間前から始めたこの部屋の暮らしを、モクマもチェズレイもそれなりに気に入っていた。
 チェズレイの言葉にモクマは「それもそうだ」と納得したように頷く。ドリッパーにセットされたコーヒー粉へケトルからこぽこぽとお湯が注がれる音と共に、芳しいコーヒーの香りが二人の部屋の中に穏やかに漂う。コーヒーを蒸らしているほんの数十秒、なんとなく途切れた会話に、モクマの視線は再び窓の外へ向いた。
 その横顔――窓の外というよりもっと遠くを見るようなその琥珀色の視線と、普段の本音を掴ませないような善人然とした表情が僅かに剥がれたようなその顔。そんなごくわずかなモクマの表情の色の変化を見逃すチェズレイではなかった。そして、その理由も。
 朝食プレートをダイニングテーブルに運ぶという仕事を終えたチェズレイは、静かなキッチンの方へと戻りモクマのすぐそばへと立った。抽出途中のコーヒーの香りが強くチェズレイの鼻孔をくすぐる。
「これほどの雪は、確かにヴィンウェイ以外ではなかなか目にしたことがありませんね」
「――……やっぱ、流石だよねえ」
「詐欺師ですので」
 あの窓の外を見た一瞬で彼が何を思ったのか、どんな景色を思い出したのか、チェズレイは気付いている。
 あの時以来だなと、チェズレイも思ったのだ。互いに雪を見るのは、一年前のあの時以来。あの時の雪は、今日の窓の外よりももっとずっと深いものであったけれど。
 大理石の天板の上に置かれたモクマの左手に、自分の手をそっと重ねる。手袋もしていないから、モクマの体温も肌の感触もすべてこの手で直に感じ取ることが出来る。
「――私はもう、相棒を置いて勝手にいなくなったりなどしませんよ。二度と」
 チェズレイの言葉が、部屋の中にゆっくりと落ちる。ふ、とモクマは口元で笑ってから、右手に持ったケトルで再びコーヒーへ湯を注ぎながら口を開いた。
「俺がさせんよ、そんなこと」
 その言葉が、彼の本気だと分かる。それがチェズレイを心底から嬉しくさせ、昂らせてたまらない。
 雪を見て彼が思い出す景色に自分がいる。それが彼の心を今もちくりと苦しくさせるものであると分かっていて、そんな感情をすべてきれいに取り除いてあげたい気持ちと、彼の心をもう少し縛っていたいようなどろりとした独占欲がチェズレイの中に入り交じる。
「チェズレイ。そっちの棚からマグカップ取ってくれんか」
 重ねた手を離すのはほんの少しだけ惜しい気分であったが、相棒のお望みとあらば。「はい。……どうぞ、モクマさん」とチェズレイはすぐ後ろにあった棚から、二人がいつも使っているマグカップを取り出す。モクマは「ありがとさん」と歌うように言ってチェズレイの手からそれを受け取った。
 モクマの手によって、サーバーからマグカップにコーヒーが注がれる。白いマグカップの内側が、限りなく黒に近いしんと静かな茶色に塗り替えられていく。湯気の立つ温かなコーヒーの水面を見ながら、チェズレイは口を開いた。
「私も、今朝起きてこの雪を見て確かに故郷を思い出しました。でも、私が何より思い出すのはもう血塗られた思い出じゃない。情念の果ての憎しみでもない」
 チェズレイはそこまで言ってから、コーヒーを注ぎ終わった自分の分のマグカップを手に取った。陶器のマグカップの表面にも伝わる温かさと、強くなったコーヒーの香り。以前チェズレイが好きだと言った豆の匂いだ。
 それを覚えていて、選んでくれること。――それは、愛以外の何であるというのか。
「母と過ごしたあたたかな思い出と、……あなたが迎えに来てくれた喜びです」
 チェズレイの言葉に、モクマはその目をぱちくりと瞬かせる。そして彼は一度柔らかく目元に微笑みを湛えてから、「それはよかった。……おじさん、あの時は正直相当肝は冷えたけどねぇ」だなんてわざとらしいほど軽口めいた口調で苦笑してみせた。



(2024年3月2日初出)





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