ふたり寝の夜に

「モクマさん、一緒に寝てもいいですか」
 相棒がそう言ってモクマの部屋を尋ねてきたのは、モクマもちょうど寝る前の軽いストレッチを終えてベッドに寝転がろうとした時のことだった。
「もちろん。どーぞ」
 モクマは笑って、ベッドをぽんと叩いてチェズレイを歓迎する。チェズレイはそれに柔らかな、どこかほっとしたような笑みを湛えて「ありがとうございます」と返した。
 廊下の電気が消されて、チェズレイが部屋の中に入ってくる。チェズレイは日頃その鋭い目元を鮮やかに彩っているメイクも落として、いつもの肌触りのよさそうな寝間着を纏っていた。あとはもう寝るだけ、というスタイルだ。いつもの寝間着――といってもモクマがそれを着ているチェズレイを見るのは、随分と久しぶりのことのように思えた。ここしばらくは、入院着を着ているチェズレイばかりを見ていたから。

 少し前にヴィンウェイで負った大傷を治療するため、この穏やかな南の国の病院でチェズレイはしばらく入院生活を送っていた。そして、退院したのが今日だ。
 といってもまだ体は本調子というわけではなく、医者からはもうしばらくの入院生活を薦められていたがチェズレイ自身の強い要望によって半ば無理やり退院したといった様相である。まだしばらく無理はしないようにと退院にあたって医者には強く言われたし、勿論そのあたりはモクマがしっかりチェズレイを見張っておくつもりだ。
 今日だって退院後の片付けおよび諸々の家事はほとんどモクマがやって、チェズレイにはソファでのんびり休んでいてもらった。勿論タブレットも取り上げておいて、だ。チェズレイは『そのくらいの雑事は私もできますよ。暇です』と少し不満そうだったが、そんな文句は右から左へ聞き流してやった。
 それでも、そんな文句すらも嬉しかった。チェズレイがそこにいる、この一年九ヶ月当たり前だったそんなことが、また当たり前になった日々が、モクマにとってはじわりと沁み入るように嬉しく思ったのだ。
 だから夜くらいは、そんな可愛い年下の男のお願いを聞かないなんて選択肢は今日のモクマにはなにひとつなかった。それに、二人で同じベッドで寝るのは初めてのことではない。これまでにもたまに、戯れのようにそんな夜はあった。
 長いことかけて調査した敵のアジトを見事に突き崩した夜や、晩酌でチェズレイを少し飲ませすぎてしまったほろ酔いの夜。チェズレイと同じベッドで眠ることに対する忌避感なんてものはモクマは最初からなかったし、意外なことにあの潔癖のチェズレイも無かったようだった。元々いつも、拠点とするセーフハウスやホテルなんかの寝室はやたらに豪華な部屋ばかりだったから、大の男が二人で寝ても物理的に余裕があるベッドだったというのもあったかもしれない。
 今一時的に暮らしているこのコテージもそうだ。今回このコテージを手配したのはモクマだったが、ここに滞在するのは療養が大きな目的のひとつだったということもあって、セキュリティがしっかりしているのは大前提の上、見つけた中で一番広くてきれいでのんびりできそうなところを選んだ。ベッドも当然、ひとりでは持て余すくらいに大きい。
 ――だから昨日までは、自分は少しこの広さを持て余していたように、今になって振り返れば思うのだ。

 ベッドに二人並んで寝転がって、照明を落とす。暗く、しんと静かになった部屋の中で、すぐそばからわずかにチェズレイの息遣いが聞こえた。
 生きている。そこにいる。それだけのことにモクマはこんなに安堵し、嬉しい気持ちになる。
 そんな思いを抱きながら目を閉じようとしたところに、密やかな声で名前を呼ばれた。
「モクマさん」
「なんだい、チェズレイ」
「こんなふうに二人で眠るのも、なんだか久しぶりですね」
「そうだねえ。前は、いつだったかな」
 言われて、モクマはゆっくりと記憶を辿る。前は多分、ヴィンウェイに行く少し前のことだったか――そんなに何ヶ月も前の話ではないはずなのに、随分と昔のことのように思える。その後があんまり怒濤だったから、あのありふれたはずの夜のことをうまく思い出せないほどだった。
 モクマが考えているところに、「……私ね」とチェズレイが言った。二人きりの部屋に響く静かで少しだけ甘い声は、まるで内緒話でもするみたいだった。
「今日はいつものように、自分の寝室で寝ようと思ったんです。でも、あの広いベッドにひとりで眠るのを、いやに寂しく思ってしまって。今日はすぐそばに、あなたがいるのだと思ってしまったら」
 チェズレイが、わずかに顔をこちらへと向けた。さらりとその銀糸のような長い髪が重力に従って一束落ちる。
 照明をすべて落とした暗い部屋の中でも、この部屋にさす明かりが何もないわけじゃない。閉じたカーテンの隙間から漏れるほんの微量の月明かりでも、暗闇での任務に慣れているモクマの目は、そう呟くように言うチェズレイの表情をはっきりと捉えることができた。
「……うん、そうだね」
 そんなチェズレイを見つめながら、寂しい、とその言葉を声に出さずにモクマは口の中で転がしてみる。
 帰宅したらチェズレイがいなかったあの日から、チェズレイの標的と目的地を突き止めてシンジケートの内部に潜入し、助け出し、そして片がついてこの国に来てチェズレイを入院させてさらに数週間。ひとりで眠ったあの夜たちの中で自分の内側に初めて空いた、あの空洞のような感情に名前をひとつだけつけるとするなら、きっと俺のそれだってそんな名前をしていたのだろう。
 ひとり寝の夜なんて当たり前だった。里を逃げ出すようにして離れてからの二十年間、終わりを迎えられるその時までずっとひとりのつもりだったし、そうでなければならないと思っていた。それはきっと、隣にいるこの男だって細部は違えどまあ似たような日々を過ごしてきたのだろう。
 当たり前だった。そのはずなのに。
「……おかえり、チェズレイ」
 そう口にすると、チェズレイはその目を小さく見開いてこちらを見つめて、そしてその整った顔をわずかにくしゃりと子どもみたいに歪ませた。仮面の下に本音を隠し、人の感情を操るのに長けた男の、繕わない素直な表情だ。それはどういう感情なのか聞こうか少しだけ迷って、やめた。さすがに今、それは野暮というやつだろう。
「はい。モクマさん」と返したチェズレイの声が、部屋の中にしんと染み込むみたいに落ちていく。
 何十年と越えたひとり寝の夜を、ほんの一年九ヶ月で塗り替えられてしまった。この強くて律儀で真面目でいじらしい年下の相棒に対する、もう気付かないふりなどできない、手放せない――手放したくないこの愛おしい情を、俺はこれからも抱えて生きていく。
 会話が途切れて、モクマは一度目を閉じる。静かに息を吸ってから、もう一度目を開けた。暗い天井を見上げながらモクマが「なあ、チェズレイ。……お前さんが嫌じゃなければって話で、ひとつ提案なんだが」と口にすると、チェズレイがすぐに「なんでしょう」と返事をする。
「お前さん、新しい拠点に行くといつも寝室がふたつある広い家を用意してくれるだろう」
「ええ」
「次の拠点に移るとき、――寝室は広めのひとつだけ、の家にするのはどうだい」
 そう言って、モクマは顔を動かしてチェズレイの方を見た。チェズレイもじっと、こちらを見つめている。
「きれい好きのお前が嫌じゃなけりゃあ、ね」とモクマが笑ってみせると、チェズレイも「……なるほど、それは素敵な提案だ」と言ってふっとその目を細めた。
「確かに寝室がふたつもあっても、持て余してしまうかもしれませんねェ」
「でしょお?」
 ひとりをさみしいと、そう思うようになってしまった今を、弱さだとは思わない。
 ふたりを愛おしいと、そう思える今のすべてを手放してやらないと決めた。
 ――喜んで、とそう口にしたチェズレイの声はモクマしかきっと知らないような、きっと今後一生モクマしか知れないような、そんな色をしていた。


(2024年3月3日初出)





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