魔法も使えぬてのひらで

 チェズレイは眠りが浅い。それは元々の体質ということもあるのかもしれないが、自身の生い立ちがそうさせたといった部分も大きいだろう。幼少期、段々と濁り苦しんでいく母を気にかけて小さな物音でも目が覚めるようになったことから始まり、父のマフィアを潰し一人で闇社会を生きていくようになってからは暗い謀略や死はいつもすぐそばでチェズレイを狙っていた。
 眠っている時というのは、人間が一番無防備な状態だ。誰かを狙うにはその瞬間が一番容易いと猿でも分かる。
 勿論細心の注意を払って睡眠中の身の安全は確保するようにはしてきたが、しかしそれにも限界はある。だからチェズレイはいつしかわずかな物音や気配の変化でも眠りから容易く覚めるようになった。その性質が、実際にチェズレイの命を救ったこともこの人生の中で何度かあった。日頃浅い眠りであっても人体に必要な睡眠は意識的に確保するようにしているので、この性質でこれまでさしたる問題が起きたこともない。夢を見る・見ないを選択できるようになったことも然りで、チェズレイにとっては睡眠も自身のコントロール下に置くことができるものだった。

 小さく呻くような声が聞こえて目が覚める。それは自分の声ではない。この寝室の中で自分以外に音を立てるものは、不躾な侵入者などがいない限り――そんな輩が簡単に入り込めるような部屋に暮らしてはいないが――、隣で眠るもう一人の男だけだった。
 部屋の中はまだ暗く、夜明けも遠い時刻であることを知る。視線を動かして隣を見れば、モクマはチェズレイに背を向けて眠っていた。
 先程の小さな呻き声の主は、この相棒だろう。チェズレイは音を立てず上体を起こして、暗い部屋の中そっとモクマの横顔を覗き込んだ。チェズレイはモクマほど夜目は利かず、かつて負った傷の影響で片目の視力はかなり落ちているが、淡い月明かりすらカーテンから漏れてはこない夜の中でもこの距離であればモクマの表情は見て取ることができる。
 モクマは眉根を寄せ、苦しそうな表情をしていた。わずかに乱れた呼吸。時折何か、ほとんど呻きのような言葉の断片を薄く開いた唇から小さく零す。
 悪い夢を見ているのだろう。すぐにそう推察できた。
 ――……放浪し始めてすぐの頃は、悪夢ばっか見てたねえ。
 彼がそうぽつりと零したのは、この果ての見えない二人での旅路が始まって幾度目の晩酌の時のことだったか。
 同道の約束を交わしたときにモクマからお願いされたことのひとつ、二人での晩酌は週に数度、二人で暮らす部屋の中でひっそりと開催された。最初の頃は酒に慣れないチェズレイをさりげなさを装いながら気遣ってモクマは自身が酔い過ぎないようにセーブしていたようだったが、回数を重ねるうち段々とモクマも自分のペースで酒を楽しみ、したたかに酔う姿もチェズレイに見せてくれるようになった。
 その言葉がモクマの口から出てきたのはそんな頃だったと思う。
 その日の調査が期待通りにいったと機嫌が良かったモクマは普段より少し速めのペースで酒を飲んでいて、少し頬が赤らんできたなと思ったくらいのタイミングで、どんな話の流れだったかそんなことを口にした。だいぶ酔いが回っていたのだろう。モクマが自分からそういった話をするのは珍しいことだった。
 その時のモクマは、すぐにぱっと明るい顔に戻って「ま、最近はもうほとんど見ることもなくなったけどね。相棒の荒療治のおかげで」と笑った。「その煙に巻くような口調、また何か誤魔化そうとしていらっしゃる? 久しぶりですねェ」とチェズレイが冗談半分本気半分で言ってやれば、モクマは「違う違う、ほんとにそんなんじゃないって」と焦ったように苦笑していたけれど。
 チェズレイとてあの時のモクマがまだ罪の意識に深く囚われているとも、チェズレイにそんな本音を隠しているとも心から思ったわけじゃなかった。だからあの時の会話はそれで終わった。出会ったあの頃のいつも死に場所を探していたような男だったモクマが大きく変わったことを、チェズレイこそが一番よく知っている。
 だけど同時に、何十年も積み重ねた生き方や絡みついた意識を、まるで生まれ変わったみたいにすぐに変えることは難しいということもチェズレイはよく知っている。
(〝ほとんど〟見ることはない――というのも、嘘ではないんでしょう)
 もう、悪夢を見ることはほとんどない。つまり裏を返せば、全く見なくなったというわけでもない。
 悪夢の内容など、聞かずとも分かる。
 自分を責めたてることがなくなったとて、すべての後悔が消えてなくなったわけではない。特にモクマのような男は。表面上は吹っ切れたとて、深層心理にはまだ消しきれない残滓はあるのだろう。
 苦しげに歪んだモクマの横顔。それを見つめるチェズレイ自身も、知らず眉根を寄せていた。どうにかしてやりたい、という感情が芽生える。この男に降りかかる苦しみを、すべて取り除いてやりたい。私が隣に居る限り。それが例え夢の中であっても。
 ――催眠でその夢を消し去ってあげようか。
 一瞬、そんな考えがチェズレイの頭を過る。チェズレイにとってはその程度、造作もないことだ。ちょっとドレミを歌ってやれば済むこと。しかしチェズレイの口は動かなかった。
 それを今使うのは、何か違う気がした。
 チェズレイは少しだけ考えて、起こしていた自分の上体を再びベッドに沈めた。寝転がればすぐ目の前に少し丸まったモクマの背中がある。大きくて、小さな、ただのひとりの人間の背中。チェズレイは静かにその背中に近付いて、腕を伸ばした。
 その背中に体をつけ、腕をモクマの体に回す。寝間着越しにモクマの血の通った体温を感じる。昔のチェズレイであれば他人にこんなふうに触れ体温を感じるなど鳥肌が立ってしまうようなことだったが、今はこの温度に湧き上がるのは形容しがたいほどにあたたかく、柔らかい、そしてどこか切実さを孕んだような、そんな感情ばかりだった。
 モクマを起こさないように慎重に、チェズレイは小さく身じろぎをして体を寄せぴったりとくっついた。その肩口に顔を埋める。同じシャンプーやボディソープを使っているはずなのにチェズレイとは違う、モクマのにおいが穏やかにチェズレイの鼻先を掠める。
 ドレミを歌う代わりに、チェズレイは唇だけで「モクマさん」と愛おしい男の名前を呼んだ。その言葉は声にはならなかったから、空気を揺らしもしない。まして眠っているモクマには届くわけもない。催眠でもなんでもない、願いやまじないですらもない、それはただの自己満足でしかない言葉だと自分で理解している。
 少しの間そうやって、チェズレイはモクマを後ろから抱きしめる体勢のままでいた。何分経っただろうか、段々とモクマの呼吸が整い始めたのが分かる。すう、と寝息は穏やかなものに変わっていき、呻き声も聞こえなくなる。わずかにあった体の強張りも抜けた。もう、悪夢はモクマの中から過ぎ去ったのだろう。そのことにチェズレイはほっとしたような感情になる。
 ――例えば。チェズレイの武器のひとつである催眠も、勿論万能ではない。
 しかしそれを使えば大抵のことは意のままにできたのも確かだ。それをあえて使わないとき、普段だってそれを忘れるような傲慢さはもっているつもりはないが、しかし己もただの一人の人間であると思い出す。
 それでも、寄り添いたいと願ってしまった。
 どんな仮面の姿でもなく、一人の人間としての私にあなたが共に在ろうとしてくれるのなら、私もそれに応えたいと思ってしまった。それが例え、心許なくて不器用な歩みになろうとも。
(……お互いにまだ、『リハビリ』の最中ですねェ)
 チェズレイはそう一人小さく笑う。
 もう、モクマは悪夢から脱したはずだ。落ち着かせるためにと分けた体温はもう必要ないのかもしれない。そう頭では分かっていても、感情がまだもう少しと駄々をこねる。
 この人のためだと言いながら、結局自分のためになってしまっている。そんな自分をまた内心で笑ってやった。チェズレイはそんな自分をどうしてもまだ滑稽なように思ってしまう。けれど、この人に言えば違う言葉が返ってくるのだろうか。
 明日、目が覚めて、ふたりで美味しい朝食を食べて。そのあとにでも聞いてみようか。そんなことを戯れのように思いながら、チェズレイも再び目を閉じた。


(2024年3月10日初出)





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