only two in the world
「指輪。欲しい?」「はい?」
モクマの言葉に、チェズレイは目を瞬かせた。次の標的となるある組織を狙うため数日前から潜伏している街の中、二人で聞き込みを行ってきた帰りのことだ。
今日の聞き込み先は老舗の宝飾店。件の組織との関わりは恐らく無い真っ当な店だが、この土地で百年以上続く老舗ということでこの辺りの情報が集まりやすいと踏んだ。調査の結果は上々、読み通りにこのあたりの色々な噂話が手に入ったところだ。
「ああそれか、あの指輪もしかしてなんかあった? 何かの手がかりとか」
「どうしてです?」
しかし、調査の中で指輪の話には全くならなかったはずだった。
モクマの脈絡のない質問にチェズレイがそう質問で返すと、モクマは「んー」とのんびりとした口調で続ける。
「一瞬、ショーケースの中の指輪じっと見てた気がしたからさ。まあそれだけなんだけどね」
「あァ……」
流石、この男は目敏い。普段は飄々と、柔らかく、そしてだらしない一面ばかりを人に見せるが、その内側に息づくこの上ないほど鋭く研ぎ澄まされた刃を思い起こさせてチェズレイは思わず昂ってしまいそうになる。
あのショーケースの指輪を見ていたのは、モクマの言うとおりほんの一瞬だ。店員にも気付かれていないだろう。その時モクマはいつもの調子のいいような様子で店員と話していたはずだ。それにモクマは気が付いていた。――流石の守り手殿、チェズレイの無二の相棒の洞察力だ。
「あれは、珍しい石を使っているな、と思っただけですよ。さすがは老舗というべきか、かなり希少な石だ。私でも数度しかお目にかかったことがありませんでしたから、こんなところでお目にかかれるとはと少し驚いただけです」
そう返すと、今度は目を瞬かせたのはモクマの方だった。そして、「そっかあ、おじさんの勘違いか。恥ずかし~」とわざとらしい仕草でがっくりと肩を落としてみせる。
「……あなたは?」
「ん?」
「欲しいんですか、指輪」
そんなことを言うということは、モクマの中にはそういう発想があるのだということだろうか。そう思ってチェズレイはモクマに聞いてみるけれど、モクマは「いや?」とあっさりと首を横に振る。
「特には。もしチェズレイが欲しいんだったらって、ちょっと思っただけだよ」
モクマはふいとチェズレイの方に顔を向け、軽く覗き込むようにして上目遣いでチェズレイを見た。その琥珀色が、まっすぐにチェズレイを映す。柔らかいくせに、それだけじゃない、その奧に潜む美しい強硬さを感じさせる瞳。
「お前さんが欲しいものなら、……まあおじさんにできることならになっちまうけど、叶えてやりたいんでね。俺は」
「フフ、……熱烈ですね」
「そうだよ。知らなかった?」
「存じていますよ」
そんな話をしているうちにいつの間にか商店が建ち並ぶ繁華街を抜け、周囲の人もまばらになっていた。今日は後はアジトに戻るだけ。小高い丘の上の高級住宅街に構えた今回のアジトまでは、この公園の通りを抜けてあとは道なりにゆるやかな坂道を登っていく。「折角だから公園の中通ってく? 天気もいいし」とモクマが言うので、チェズレイは「そうですね」と返した。モクマの足取りに合わせるように、チェズレイも公園の中へ足を踏み入れる。
公園といってもここは、遊具はほとんど見当たらない。子どものための遊び場としての公園というよりは、住民の憩いの場、あるいは観光地としての毛色が強い公園であった。海が見える公園、というのがここの宣伝文句らしい。確かに、公園の柵の向こうには淡く光る水平線が見えていた。傾きかけた太陽に照らされたそれは、じわりと青から穏やかな橙色に色を変え始めている。あと数十分もしないうちに、橙色がこの水面を美しく染め上げるだろう。
チェズレイは海に向けていた目線を、正面に戻す。隣同士で歩くモクマとチェズレイの足音が、歪な凸凹を描く石畳の上でわずかに生まれては消えた。潮風のかすかな香りが二人の鼻孔をくすぐる。このあたりは海の街だった。
「私も、あなたが欲しいと仰るのであればすぐにでも手配しますが。私自身も特段欲しいとは思わないですね」
チェズレイの言葉に、モクマは「そっかあ」と穏やかに笑う。そうしてから、「おそろいだねっ」といつもの可愛い子ぶった調子で軽く茶化してみせた。
風が吹いてチェズレイの髪を揺らす。海辺の冬の風は冷たいが、チェズレイにとって嫌な冷たさではなかった。
あの日も二人の間にこんな風が吹き抜けた。チェズレイが生涯忘れることのない日のこと。あの日の夕日の眩しさも、空気の冷たさも、海のにおいも、手袋を外した指で初めて触れたこの男の小指のあたたかさも、全てを鮮明に覚えている。
「――世にありふれた、使い古された〝誓い〟の形など興味がない。二つとない約束がここにあるのだから、私にはそれがあればいい。ずっとそう思っていました。でも」
「でも?」
モクマは、聞き返すような口調でチェズレイの言葉の続きを促す。この後にどんな言葉が続くかなんてあなたはもう分かっているでしょうに。こちらを見上げるどこか楽しげな、あるいは試しでもするみたいな視線がその証拠だ。
分かっていることを、とぼけた調子でわざと聞きたがる。下衆なことだ、とチェズレイは心の中で小さく笑う。しかし、それでこそがモクマという男だ。三年前、チェズレイが矜持も美学も投げ捨てて口説き落としたがった生涯の相棒。
チェズレイは、フフ、と小さく笑ってから自分の左肩にそっと手をやった。コートの上からその場所を指先でゆっくりとなぞる。勿論、厚いコートの上からではその場所にあるものを感じ取ることなどできやしない。あと数年も経てば、素肌で触れてもほとんど分からなくなってしまうかもしれない。けれど。
「その〝約束〟も、薄れ始めたこの肩の鎌傷も、それらさえ私たちを繋ぎ、縛るすべてではないのだと教えて貰いましたから」
太陽の角度が変わって、遮るものもなく夕日がチェズレイたちを照らす。その眩しさにチェズレイは小さく目を細める。そうしてからチェズレイは、モクマの方に顔を向け言葉を続けた。
「目に見える形などなくていい、私とあなたがここにいればいい。そうでしょう?」
歌うように軽やかにそう言ったチェズレイを見つめたモクマが、ふっと眩しげに目を細める。
そうしてから「やっぱりおそろいだ」なんて今度は茶化すでもない、ただただ楽しげな口調でモクマはチェズレイに返したのだった。