わるいおとこ

「ただいま~……っと」
 帰宅したリビングには誰もいなかった。モクマが買い物に出かけた時と同じく、家の中はしんと静かだ。モクマの言葉に返る声もない。どうやらあいつは、まだベッドとお友達でいるらしい。
(流石に飲ませすぎちまったかな~)
 正確には、ぐいぐいとハイペースで飲むチェズレイに対してもうちょっと早いところで制止してやればよかった、という反省だ。
 最近は少しは酒に強くなったとチェズレイが自己申告した時点でそもそもあいつは酔っていた。ただ、最初は本当にモクマに「付き合う」程度だった晩酌にチェズレイが積極的になってくれるのが嬉しくて、同じお酒の味を相棒と分かち合えるのが嬉しくて、そして楽しそうなチェズレイを見ているのが楽しくてつい止めるのが遅くなってしまった。モクマ自身はそれなりに飲める方だから、酒に弱い人間がどのくらい後に引きずるものかをうっかり忘れてしまいそうになるのだ。
 とどのつまり、昨夜自分の許容量を超えて飲み過ぎたチェズレイは、朝からすっかり二日酔いでダウンしているのであった。
 この地での大きな〝仕事〟は昨日終えたから、今日は元からオフにしていた。予定していた日用品や食料品の買い出しはモクマが一人で行くことにして、今帰ってきたところだった。
 買ってきたものをまずは仕舞って――と思ったがまだ起き出してこないチェズレイの様子が少し気になってきて、モクマは早めに冷蔵庫に入れておいたほうがいいものだけ冷蔵庫に突っ込む。そしてその他のものはキッチンカウンターに置いたまま、モクマは寝室へと向かった。リビングにいないということはまず間違いなく、まだそこで横になっているのだろう。ああそうだ、と思って途中で冷蔵庫へ引き返してスポーツドリンクのペットボトルも片手に持っていくことにする。
 寝室のドアをノックする。返事はなかったので、「開けるよ」と小さく言ってからモクマはドアを開けた。予想通り、相棒は寝室の真ん中に鎮座する大きなベッドの上で横になっていた。綺麗な紫色の目は瞑られ、微かに規則正しい呼吸の音が聞こえてくる。どうやら眠っているらしい。だからモクマはうるさくならないように、と足音を忍ばせベッドへと近付いた。
 ベッドの脇に立ってチェズレイを見下ろす。眠っていても綺麗な顔立ちだ。起きていれば渡そうと思っていたスポーツドリンクのペットボトルは、ひとまずベッドサイドのチェストの上に置いた。
 さて、チェズレイが眠っているのであればここにこれ以上の用はない。様子を見に来ただけだから、もう目的は達成されている。だけどモクマは、なんとなく離れがたくそのままチェズレイの寝顔を見つめていた。
 こんなふうに飲み過ぎて二日酔いで寝込むチェズレイなんて、出会った頃に誰が想像できただろう。
 こうして酒を一緒に飲んでくれるようになったのも、時に羽目を外して飲み過ぎて二日酔いの姿をモクマに晒してくれるようになったのも、チェズレイ自身が変わったからだった。
 多くの人間は、変化を恐れる生き物だ。それが自分自身であるならば尚更。
 けれど、チェズレイは変わっていく。ずっと彼の芯の部分を形作ってきた矜持と美学はそのままに、しかしモクマと共に生きるなかで、モクマからの影響を受け入れ、楽しみ、これも悪くないものだと思えば飲み込んで自分を積極的に変化させていく。それは、なかなか簡単にできることではない。だからモクマはチェズレイのそういうところを尊敬しているし、そして、モクマとの人生をそうやって前向きに歩もうとするチェズレイのことを愛おしく思っていた。その思いは、日々を重ねていくごとにどうしようもなく膨らんでいくばかりだ。
 チェズレイの寝顔を見つめてモクマは、可愛いな、と思う。この男が愛しいと思う。
 ――キスがしたい。
 そう自然に湧き上がるように思った。こっそり、してしまおうか。チェズレイが眠っている間に。そんなよこしまなことを考え、モクマはチェズレイの顔の横に手をついた。そのまま顔を近づける。チェズレイの端正な顔立ちが段々と視界の大部分を埋め尽くす。その呼吸に触れられそうなほど近付いて――そこでモクマは動きを止めた。
(……なんか、寝込みを襲うみたいでちょっと罪悪感……)
 急にそんな冷静な自分が顔を出し、モクマはぱっと顔を離す。流石に、無抵抗な相手にそういう接触をするのはどうだろう。じわりと申し訳なさと恥ずかしさがこみ上げて、モクマはチェズレイに「……おやすみ」とだけ言ってぽんと掛け布団を軽く叩き、ベッドから離れようとする。
 と、その瞬間、離れかけた腕をぐっと掴まれた。
「え」
「寸止めですか? モクマさん」
 見下ろしたチェズレイの目はぱっちり開いて、紫のその瞳はまっすぐにモクマを見据えている。モクマの腕を掴んだのは当然、チェズレイの手だ。先程まで眠っていたとは思えないほどしゃっきりとした声と眼差し。
「あ~~…………、おはよう?」
「はい、おはようございます」
「……いつから?」
「あなたがベッドサイドに立ったあたりで。丁度眠りが浅くなっていたところに、気配を感じたので」
 チェズレイがそんなことを言うので、モクマは「ならその時点で起きてくれりゃよかったのに……」と肩を落とす。それから、モクマはチェズレイに聞いた。
「具合はどう?」
「幾分マシにはなりました。まだ頭痛は残っていますが」
「そっか、ならまあよかった」
「それで」
 チェズレイが、まだモクマの腕を掴んだままの手に軽く力を込める。痛くない程度、しかしモクマの意識を引き戻すに足る力。
「寝込みを襲おうとされていたので?」
「言わんとって……。流石にズルいと思ってやめたよ。でも、だって」
「だって?」
 こうやって追求モードに入ったチェズレイからは逃げられないとモクマももう分かっている。だからモクマは早々に諦め、「お前が可愛くて」と白状した。
「二日酔いで寝込んでいる姿が?」
「いや~、それもあるけど……」
 不本意そうに、あるいはどこか怪訝そうに言うチェズレイにモクマは苦笑する。これは試しているのか、伝わりきっていないのか。これは後者な気がした。だからモクマは一度息を吸って、素直にチェズレイに伝えてやることにする。
「お前が俺に付き合っていっぱい飲んで、羽目外して、こんなぐずぐずな姿晒してくれてんのとか――そんなふうに俺といて変わってくお前自身とか、全部まとめて俺はお前が可愛いよ」
 チェズレイの目をまっすぐ見つめ返してそう言うと、チェズレイの目がわずかに見開かれる。そして、その目は柔らかく細められた。
「……フ。随分と悪い顔で仰る」
「そう? 自覚はないけども」
「ええ。下衆な表情と告白をどうも」
 満足したのか、チェズレイの手の力が緩められる。しかしモクマはその場を立ち去ろうとはしなかった。チェストの上に置いていたスポーツドリンクの存在を思い出して、「スポドリ飲む?」とチェズレイに聞くと「いただきます」という答えが返る。上半身を起こしたチェズレイにスポーツドリンクのペットボトルを手渡した。はっきりしている声色や表情のわりに、起き上がる仕草やペットボトルを受け取る手つきが微妙に緩慢だ。まだ若干頭痛があるというのは本当らしい。
 ベッドの上で上半身だけ起こした上体で飲食をするのはチェズレイの衛生観念に反するのだろう。チェズレイはベッドの上にソファのように座りなおした。ここが今のチェズレイなりの妥協点らしい。
 チェズレイがペットボトルの蓋を開け、スポーツドリンクを喉の奥に流し込む。一口飲んだチェズレイはペットボトルの蓋を閉めてから、再びモクマに向けて口を開いた。
「私は構いませんよ。寝込みを襲われようがあなたになら、どうとでも」
 そう言ってから、チェズレイはモクマを見上げてその口角を上げる。
「相棒の寝込みを襲う、あなたの下衆な顔が見られるのを楽しみにしていますねェ……」
 いやに楽しげにそんなことを言って笑うチェズレイに、モクマは「お前さんの方がよっぽど悪い顔しとる気がするよ……」と苦笑した。
「……まあそれも、外出から帰宅後しっかり手洗いやうがいをしてくださっていれば、の話ですが」
「ぎくり」
 急な指摘にモクマが縮こまれば、「何度言えば分かっていただけるやら」と呆れた声が返ってくる。チェズレイは溜息を吐いた後、ベッドから立ち上がった。「もう起きて大丈夫?」とモクマが聞くと、チェズレイは「ええ」と頷く。
「お互いに手を洗って、うがいをして。それから」
 寝室のドアに向かって歩いていったチェズレイが、そこまで言ってモクマを振り返る。
「先程の続きをして頂けます?」
 もう寝込みではありませんがね、と悪戯っぽく、煽るように笑うチェズレイの顔が、窓から射す昼下がりの陽の光に照らされる。モクマはそんなチェズレイに目を細めて、お安い御用だと笑うのだった。


(2024年3月24日初出)
チェズモクワンドロワンライ 第132回【悪い顔/こっそり】





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