Bright new morning
目が覚めると真っ白な天井。ぱちぱちと目を瞬かせ、視線を動かせばここが広い寝室であることが分かる。眩いほどの朝の光が差し込む、見るからに豪奢な調度品が揃えられた室内を見やってモクマは昨夜までのことを思い出すのだった。(やー、ついに、かあ)
なんて心の中で呟いてみて、モクマは苦笑した。あのDISCARDを追っていた怒濤の日々が終わりを迎えて、少しのモラトリアムのような日々をミカグラで過ごしてから、そして。
モクマはベッドから起き上がり、軽いストレッチをした後にカバンの中から適当な服を引っ張り出して着替えた。昨日長旅の末この国に着いたのは結構な遅い時間だったから、さっと腹ごしらえをしてホテルにチェックインをした後はもうシャワーを浴びて寝ることしかできなかった。明日以降でいいか、とモクマは荷解きも終えていない。几帳面な相棒は、きっともう終えているのかもしれないが。
(まあ、それも追々ね。もしかしたらまた、すぐに移動するのかもしれないけども)
ここまで移動する最中、彼はここは一旦の仮住まいだというようなことを言っていた気がする。まあ、モクマはなんだって構わないのでそれは大将の意向に従えばいい。
モクマがぽりぽりと頭を掻きながら寝室のドアを開けて広いリビングルームへと出ると、ふっとコーヒーのにおいが香った。お、と顔を上げれば、噂の几帳面な相棒がダイニングでコーヒーを淹れている姿が見える。彼もモクマが起きてきたことに気付いて、「おはようございます、モクマさん」といつもの涼しい声で言った。
「おはよう。お前さん、朝早いねえ」
「私もつい先程起きてきたところですよ。それにもうそんなに早いというほどの時間でもない」
「そりゃあそうか」
今は何時なのか時計はちゃんと見ていなかったが、室内にこんなにたっぷりと朝日が射し込んでいるということはそこまで早い時間でもあるまい。今日は決まった予定はないと、昨夜それぞれの寝室に入る前にチェズレイから伝えられていた。まずは情報収集も兼ねて近隣の散策をする程度だろう。裏社会を知るには、まずは表の様子も熟知しておかねばならない。本格的に動き出すのはそれからです、というのがチェズレイの談だ。
「モクマさん、朝食はどうされますか」
「ああ、そういえば何も相談してなかったね。俺は何でもいいけど……。この辺にいいお店とかってあるかな」
「でしたら、ここから数分のところに朝食が美味しいと有名なカフェがあるそうですよ」
「お、流石の情報収集。じゃあそこに行こっか」
「ご随意に」
朝食の相談を終えて、モクマは「じゃ、ちょっと待っててね。顔洗ってくるから」と洗面所に向かう。リビングルームを出て、廊下を通った先に洗面所はある。
廊下を歩きながら室内をまた見渡して、いやあ、すごいな、とモクマは改めて感心するような心地になってしまった。モクマが何かを言う前に既にチェズレイが当然のような顔で押さえていたこの宿は、モクマがこれまで泊まったこともなければ、泊まるという想像すらしたことのないような超高級ホテルの最上階のスイートルームだ。
長いこと世界各地を放浪してきたが、モクマが泊まる宿といえば適当な安宿が常だった。そこまでの贅沢をするほどの金を持ち合わせてはいなかったというところもあるが、宿にそんなに金をかけたいとも思ったことがなかった。――それに、自分はそんな贅沢をしていい人間ではない、と強く思っていた部分も今にして思えばあったのだが。
とにかく、こんな高級ホテルに泊まっている自分というのはほんの数ヶ月前には全く想像もできなかった。つくづく、人生は分からない。そして、それ以上に。
洗面所の扉を開けると、その広さと豪華さにまた圧倒される。昨夜も軽く使いはしたが、移動の疲れなどもあってあまりじっくりは見られていなかったのだ。何面もある大きな鏡に、大理石の壁や天板。どこもかしこもキラキラ輝いているようで、モクマは少し落ち着かないような心地になる。
(……ま、世界を股にかける仮面の詐欺師殿の片腕になったからには、こーいうのも慣れていかんといけないのかもね)
そうモクマはまた苦笑して、水道の蛇口を上げた。さっと顔を洗って、手近なタオルで濡れた顔を拭く。そのタオルも勿論ひとつの汚れもなく真っ白、かつふわふわだ。
次に歯磨きをしようと思って、昨夜使ったコップと歯ブラシに手を伸ばす。と、その隣にもうひとつの歯ブラシが立てられていることを見つけて、モクマはふと手を止めた。
自分のものじゃない、もうひとつ。それが当たり前みたいな顔をしてそこにある。
「――……」
本当に、歩み始めたのだなと思う。自分の、自分たちの新たな旅路を。
昨夜、ミカグラを出立した。DISCARDの一件がひとまず幕引きとなり――これからのミカグラはその事後処理に追われ、島の再建という大仕事も待ち受けてはいるが――BONDのメンバーは再びそれぞれの道を歩むこととなった。ルークはリカルドへ戻って再び国家警察として力を尽くす道を選び、アーロンはハスマリーという国を建て直すべく怪盗ビースト兼ヒーローとして闘う道を選んだ。そしてモクマは――チェズレイに誘われるまま、彼の〝世界征服〟の夢を相棒として共に歩むという、そんな途方もない旅路を征くことに決めた。
誰かと共に歩むなど考えたこともなかった。いや、考える資格すらないと思っていた、が正確なところか。死に場所が見つかるまでずっと一人なのだと思っていた。宿にあるのは、いつだってひとつきりの歯ブラシだったのに。
こんな豪華なホテルに泊まっているのも、世界征服の一端を担う道を選んだのも、そして一人ではなく相棒と呼べる存在と人生を歩むことになったのも。
(……いやあ、まるで)
「……夢の中みたいだ、とでも思っていらっしゃいますか?」
後ろから声が降ってきて、モクマは思わず「うわっ!」と声を上げる。顔を上げれば、出かける準備がきっちり万端な相棒が洗面所の入口からモクマを見つめているのが鏡の中に映っていた。モクマが振り返ると、チェズレイはわざとらしい憂いの溜息を吐いてみせる。
「私の気配に気付かず驚くなど。ぼうっとしすぎではありませんか、ニンジャさん」
「いや、お前といるときくらい気抜かせてよ……ちゅーか、待たせてた? すまん」
「いえ、構いませんよ。急ぐ用でもありませんので。ただ通りがかったところに、いやに物思いに耽る背中が見えてしまったものですから」
「あー……」
モクマが苦笑していると、チェズレイが近付いてくる。かつかつとその性格のように凜とした靴音が大理石の床に響いた。そしてモクマの隣に立ったチェズレイは、洗面台に手袋に包まれたその長い手をついて、少し屈んでモクマの顔を覗き込むように相対する。チェズレイの長い髪が、洗面所の明るい照明に照らされて淡く光っていた。
「――夢などではありませんよ」
形の良い唇が動いて、モクマに言い聞かせるみたいにそう口にする。
「この高級ホテルに泊まっている今も、世界征服への道を歩み出したのも、あなたが私と同道することを決めたのも、すべて夢などではない。現実です。あなたがこれまで歩んできた人生とは全く違うものでしょうが、これが今の、そしてこれからのあなたの人生だ」
そしてチェズレイは口角をくっと上げて「私の誘いに乗り、この闇に足を踏み入れたのはあなただ。あの海で約束も交わしたのです。もし今更降りようなどと言っても遅いですよ」なんて続けてみせた。
妖しい笑み。試すようなその言い方はチェズレイの癖なのかもしれないが、しかし誤解はちゃんと訂正しなければとモクマは肩を竦める。
「まさか、言わんよ。確かに今までの俺の人生と全然違うから面食らっちまうとこもあるけどもさ。……俺は相棒と一緒に歩む今が夢じゃなく、現実だってことが嬉しいんだ」
モクマの言葉に、こちらを見つめていたチェズレイがその切れ長の目をわずかに丸くする。チェズレイのことを知っていくうち、ようやく見られるようになってきた無防備な表情だった。いつでも完璧な己をつくりあげる彼のこういう表情を見つけるのがモクマには嬉しく、もっと知りたいという気持ちが湧き上がる。
まあそれはきっと、この途方もない長い旅路の中で、少しずつ見つけていけるのだろうと思うとその未来を楽しみに思った。未来を楽しみに思う日がくるなど、今までの自分では考えられなかったなと頭の隅で思う。
「っちゅーわけで、改めて今日からよろしくね、チェズレイ」
そう言ってチェズレイの肩をぽんと叩くと、チェズレイはこみ上げてくる感情を堪えるようにくつくつと喉を鳴らした。妖しいその表情に、しかしチェズレイが喜んでいるのがモクマには分かった。
チェズレイは「……こちらこそ。よろしくお願いしますね、モクマさん」と言った後、ぱっと体を起こしてモクマから少しだけ距離をとった。そしてチェズレイはにまりと楽しげに笑って、まるで宝石か何かみたいに透き通った紫の瞳が細められて光を纏う。それはこの豪華な洗面所の何よりもキラキラと輝いて、そして演技がかったような口調はチェズレイが上機嫌であることの現れだった。
「では歯を磨かれたら朝食を摂って、始めましょうか。――私たちの世界征服の、輝かしい一日目を!」
チェズモクワンドロワンライ 第133回【夢の中/歯ブラシ】