Fall in,
――侵入者だ、排除せよ、というノイズ混じりの声が床に落ちた無線機から聞こえる。無線機の持ち主の黒服はといえば、その隣で床に伏して伸びていた。命に関わる怪我では無い。数十分もすれば目が覚めるだろう。ちょいとこの最上階フロアを捜索するのに邪魔だったから、おねんねしてもらっただけだ。フロアに取り付けられていたらしい警報が、音と光で非常事態を知らせた。耳障りな警報音と同時に明滅する赤いランプ。階下から大勢の人間の足音に、この深夜にエレベーターの稼働音。まだ音は遠いが、それなりの人数がいることは分かる。まともに戦ってもまあ勝てない数ではないが、ちと面倒であることは確かだ。
「潮時だねえ」
モクマがそう声をかけると、部屋の奥にいた長身の男は振り返って頷く。
「ええ。目的の物も、ついでにその他あらゆる情報も根こそぎ奪いましたので。もうここに用はありません」
「さっすが大将」
急激に発展を遂げているとある小国、その高級なビジネス街に立派な本社を構える大企業。目を見張る急成長の裏には闇の影があった、というよくある話だ。そこが今回の、うちの大将――チェズレイのターゲットだった。
国内有数の大企業ともなれば、眠っている情報やあらゆる資産の価値と比例してガードも厳重だ。だから時間をかけて綿密に調査し、潜入したのが今夜のこと。結果は完勝。仮面の詐欺師が丁寧に組み上げた作戦は、小気味良いほどにうまくいったのであった。
最も多くの情報が眠る場所は、得てして高いところにありがちなようだ。重役しか入ることが許されない、本社ビルの最上階である五十一階にモクマとチェズレイはいた。既に侵入が敵さんにバレてこっちに向かってこられている以上、ここからのエスケープにエレベーターや階段を使うのは論外。他にまともに使えそうな脱出路は見当たらない。敵さんたちも袋のネズミだと思っていることだろう。
なので、ここは大将の計画通りの方法で。
南側の大きな窓に向き直ったモクマは、周辺環境が事前の調査通りであることを確認する。飛び移れそうないくつかの足場があり、そして真下はこの企業が管轄する広い工事現場になっていて一般の通行人もいない。この深夜なので勿論工事の作業員も居ない。エスケープのために硝子をぶち破るにはうってつけの窓と言っていいだろう。
モクマは鎖鎌の分銅を軽く振り勢いを付け、窓へ向かって放るようにぶつけた。大きなヒビが入る。そこをめがけてもう一度思い切り投げつければ、音を立てて硝子が砕けた。
途端、ビル風が部屋の中に吹き抜ける。まるで自分たちを夜の闇に誘うような温い風だ。見上げた正面には薄い雲と、その真ん中に三日月が浮かんでいる。もう一度確認のため階下を見下ろせば、なかなかの高さだ。人々の営みがまるでミニチュアのように思える高さ。無策で落ちればまず無事では済まない。
――五十一階。
なんの縁か、聞き馴染みのある階数だ。きっとあの時もこんな高さだったんだろう、なんてことをちらりとモクマは頭の隅で思う。景色を味わっている余裕なんてあの時には到底なかった――それどころか放り投げられた時点ではもう意識も朦朧としていた――から分からないけれど。あの時は窓ひとつじゃなくて、お前がクレーンで壁ごとぶち破ったんだったっけな。正確には、お前の催眠によって動いていた男が。
命綱の準備を手早く済ませたモクマは振り返って、後ろに立つ男を見やった。艶やかなスカーフでひとつに括った長い髪が風に揺れている。月明かりに反射するように光るその髪を、きれいだなと思ってモクマは口元で小さく微笑んだ。そんな彼に向けて腕を広げ、「そんじゃ、帰ろっか。大将」と言うと、彼の唇も「ええ」ときれいな形に笑む。腕の中におさまった男をお姫様抱っこの要領でぎゅっと抱きかかえると、彼の体温が服越しに伝わってくる。
自分以外の体温を腕に抱く。その温度が自分にとってこんなふうに安心し、心地良く、あるいは高揚するものになるなんて、数年前には夢にも思わなかったことだった。
統率のない無粋な足音たちが徐々に近付いてくる。しかしここまできたら、奴らはもう俺たちに追いつくことはできない。これは稀代の知的犯罪のプロによる計算づくの、勝算しかない脱出劇なわけだから。振り落とされないようにと、チェズレイがモクマの首に手を回す。それを合図にして、モクマは床を蹴り出すようにして夜の闇へと躍り出た。
◇
ふたりきりの寝室の空気は、先程までの余韻を引き摺ってなんとなくまだ揺蕩うような甘さが残っている気がした。最初の頃はひたすらに気恥ずかしかったそれも、今ではモクマはそんなむず痒さも含めて嫌いではなかった。
見事な潜入劇、からの高揚が醒めやらぬままシャワーもそこそこにベッドに縺れ込んで今だ。潜入でもベッドの上でも肉体をそれなりに使ったわけで、心地良い気怠さがある。このまま目を閉じれば、すんなりと気持ちよく眠れるだろう。
しかしまだなんとなく眠るのが惜しいような気分になって、モクマは横目で隣を見た。すると隣で眠っていたはずの男も目を開けていて、視線が絡んだ。
明かりを消した暗い部屋の中、彩度の落ちた相棒の瞳は、しかしこの闇の中でもきれいな色をしているのが分かる。枕に顔を半分埋めるように体ごとこちらに向けているチェズレイは、何を言うでもなくモクマを静かに見つめ返した。普段は乱れの無いその前髪が、無造作に重力に従って垂れ落ちその目元に薄い影を作っている。それを、生業柄自分がどう見られているかに人一倍敏感で完璧主義のこの男が直さないのは、紛れもなく今この場でチェズレイが気を緩めている証拠だった。〝こういう〟ことをする間柄になってしばらく、ベッドの上でしか見られないチェズレイのこんな姿を見るたび、モクマは何度だって新鮮に高揚した。
チェズレイを見つめているうち、ふとモクマの頭に思い浮かんだことがあった。そんなことが唐突に頭に浮かんだのは、きっと先程の潜入の時にちらりと懐かしい日々のことを思い出したからだったろう。
ミカグラ島で仲間たちと過ごしたあの鮮烈で濃厚な時間――、そしてこの男と出会い、この男と共に在りたいという欲が自分の中に芽生えるまでの日々のこと。
こんなことを聞くのは今更かもしれないが。しかし情事の後のたっぷり満たされ程よく緩んだ頭は、聞いてみたいという好奇心が勝った。いや、好奇心というよりも正確には、それをあえて言葉で聞いてまた満たされたいのだという下衆な欲求か。
「なあ、チェズレイさん」
「なんでしょう、モクマさん」
声をかければ、すぐに涼やかな声が返る。
「野暮なこと、聞いてもいいかい」
「どうぞ?」
「チェズレイはいつから、俺とこーいうことしたいって思ってた?」
目を逸らさぬままモクマがそう聞くと、チェズレイはくつりと喉を鳴らして笑った。
「野暮ですねェ……」
おかしそうに笑いながらも、チェズレイの声音に嫌そうな気配はなかった。そう言うチェズレイの語尾は、普段よりも少しとろけて甘さが滲んでいる。いつからかモクマに向けられるようになったこの声が、モクマは好きだった。愛しさと、どろりとした優越感がモクマの旨のうちに広がっていく。
少しの間チェズレイは笑って、それから小さく息を吸う。チェズレイはゆっくりと、再び口を開いた。
「……いつからでしょうね。あなたに私の〝幸福〟を問われ、あなたとこれからも共に在れたならと、夢想じみた願いを抱き始めたのは鍾乳洞の一件からですが――」
チェズレイは考えるようにそこで一度言葉を止めた。野暮だと言いながらも、ちゃんと答えてくれるらしい。やはりチェズレイというのは律儀な男だ。どこか遠くを見るようにわずかにその目が細められて、長い睫毛がその瞳に薄く影を作る。
「――五十一階」と、チェズレイが呟く。そしてもう一度モクマを見つめ返して、「奇しくも今日もそうでしたねェ」とおかしそうに続けた。
人が見ればもしかしたら怪しい笑みだと言うかもしれないその表情に、しかし今のモクマは可愛げしか感じることができない。モクマもチェズレイを見つめて微笑み返す。
「今日とは全く違う無様な脱出劇だ。――あなたがACE本社の五十一階から投げ出された時。理屈や損得や可能性がどうこうなんて投げ捨てて先に体が動いていた。死に物狂いであなたの体をこの腕に抱いたとき、絶対にあなたを失いたくないと思った。相棒として、……だけどきっともう、あの時にはそれだけではなかった。あれは私の欲であり、到底言葉では説明しきれないような衝動だった。いつから、と聞かれれば、その時からなのかもしれない」
しんと、チェズレイの声が夜の底に静かに落ちていく。過去をひとつひとつ、ゆっくりと指でなぞっていくような、そんな音だった。その音は心地良いものとしてモクマの耳に届く。モクマはチェズレイの言葉を受け取って、噛み砕いて、ゆっくりと飲み込んで「……そっか」と呟いた。
「そう言うモクマさんはどうなのです?」
チェズレイに切り返されて、モクマはぱちりと目を瞬かせる。
「え? いや~……俺もいつからなんだろうなぁ。でも」
少し考える。明確にいつから、と聞かれればモクマも即答はできない。欲をはっきりと自覚した時期というのは分かるが、しかしその感情はもっと前から自分の中に生まれていたように思うのだ。こうして同じ道を往くようになってからも、この男にこういう感情を向けて良いのか、と自分にストッパーをかけていた時期もあったものだから。
モクマはわずかに目を細め、先程のチェズレイの言葉を思い出す。ACE本社の五十一階、あの日チェズレイが撃たれると気付いて、この男を突き飛ばした後の記憶は自分の中で曖昧だ。しかし、断片的に覚えていることもある。
モクマは口を開いて、「あの日さ」とチェズレイに言う。
「――朦朧として、薄れていく意識の中でお前が追ってきたのが分かって、お前に強く抱きしめられて、体温を感じて、嬉しかったことを覚えてる」
あれば、かつて夢見て焦がれ続けた〝人を守った結果の死〟にはうってつけの状況だった。そう今にして振り返れば思う。しかしあの時の自分はもうそんなことは欠片も思わなかった。生きたかった。守り手としてまだやり残したことが山ほどあった。どうしたって生きて、――あの男の隣にもっと居たいと願った。
誰かと共に在りたいなど、願ったことはなかった。そんな資格はないと思ってきたのだ。そんなかたくななモクマを暴き、溶かし、下衆な素顔すらもあなたの味だと言ってのけた、モクマに欲を抱かせた男。それがチェズレイだった。それがいくら身勝手なものであろうと逃げ場も無く突きつけられ、それがあなただろうと言ってこの男は笑うのだ。
恩があるとか、そんなこと関係なくあの瞬間体が動いていた。死ぬために盾になったんじゃない。この男を失いたくなかった。守りたかった。誰かのためじゃなく自分のためだ。そこに生まれていた、理屈や理由なんかじゃ足りない情に気が付いたのは体が動いた後だった。
目の前のチェズレイを見つめる。静かなチェズレイの瞳に、自分だけが映っている。こうして見つめ合って、触れ合える距離にこの男がいる。そのことがどうしようもなく嬉しい。それは〝相棒〟という美しい言葉だけでは説明がしきれない類の欲だ。
「……あの時にはもう、俺も〝相棒〟だけじゃなかったかな」
この感情に、衝動に、この男の隣に在りたいという欲に、あの時の自分たちは〝相棒〟という名前をつけた。他者と情を交わすことから随分と離れていた自分たちは、その名前を共に在れる約束にすることが精一杯だったのかもしれない、と今振り返れば思う。
その気持ちも、〝相棒〟であるという思いにも一切の嘘はない。だけど、自分の気持ちを見つけて、それら全部を相手に手渡すことに自分たちはうんと不器用だったのだ。ずっとそばにいたのに、遠回りをしてしまったように思う。だけどその道程すらもきっと自分たちには必要だった。
「『五十一階は恋のフロア』、だったっけね」
ふと思い出した懐かしい言葉を口にして、モクマは口元で小さく笑った。
必死だったあの頃のことをこうして笑えるくらい、あれからふたりで時を重ねてきた。
「落ちちゃったんだねえ、恋に」
そう可愛い子ぶった茶化し混じりの口調で言うと、チェズレイはなんとも微妙な顔をした。どうやら滑ってしまったらしい。あーあ、とこういうときにふざけてしまう自分の調子を少し反省しながらも、しかし言った言葉は嘘ではない。
モクマは身じろぎをし、チェズレイに体を擦り寄せる。元々近かった二人の距離がさらに近付いて、互いの素肌が触れるほどの距離になる。体ごとこちらに向けているチェズレイの肩口に額を埋めるようにすれば、チェズレイの体温が直接伝わってくる。肌に感じる他の場所とは違うわずかに歪な感触は、かつて自分がつけた鎌傷の痕だ。触れた場所から、ゆっくりと互いの体温が溶け合う。その感覚が心地が良かった。それだけで体も、心もじわりとまた満たされていく。
この感覚を、感情を、知ることができた。それはモクマの人生において、思いもかけない幸福だった。
「……あの時助けてくれたから、こうして今お前と触れ合える」
ありがとね、とモクマが言う。モクマの頭にチェズレイの手が触れた。チェズレイの長い指が、モクマの髪をまるで壊れ物を扱うみたいに優しく撫でる。そうして、今にも夜に溶けてしまいそうな小さな声で、「……こちらの台詞です」とチェズレイが囁いた。その声色は、きっとこの世界でモクマしか知らないチェズレイの声だった。