Thousands of kisses for you
そういえば最近、相棒とキスをしていない。そんなことを思い出してしまったのは、先程たまたまBGM代わりに流していたテレビのせいだった。今日はキスの日、なのだそうだ。この国で初めてキスシーンを撮影した映画が封切りされた記念日だからとか、うんたらかんたら。溜まった家事の合間にテレビから流れるそんな話を流し聞きして、キスかあ、なんて思ってしまったのが良くなかった。
思い出さない間は普通にしていられたのに、どうして思い出してしまえば急に口寂しくなんて思ってしまうのか。モクマはそんな己に呆れを覚えながら、そんな思いをかき消そうとするみたいに手早く残りの洗濯物を干していく。
今日は天気がいい。このぶんだと洗濯物はすぐに乾いてくれるだろう。モクマはよく晴れた青空を見上げ、それから街の景色を見下ろす。
少し遠くに見える繁華街、変装をしたチェズレイは今頃そこで、この国でのターゲットの周辺人物に接触していることだろう。とはいえ今日は軽い布石を打つだけ。危険性は薄く、すぐに終わるミッションだ。
一人で事足り、それに複数人で行くと警戒されかねないということもあってモクマは今日は留守番。このところ双方バタバタしていたために溜まっていた家事をまとめて終わらせるという重要な任務を大将から仰せつかったのだった。
洗濯物を干し終えて、モクマはバルコニーから居室に戻る。これで大将から仰せつかった家事はひととおり終わった。モクマはリビングの真ん中にあるふかふかのソファにぼすんと座って息を吐き、それからなんとなく部屋の中を見渡した。
いつものごとく、二人で暮らすには十分すぎるほどに広い贅沢な部屋だ。しかし、この部屋に一人で居ると余計にその広さを強く実感してしまう。不思議なものだ。思えば二人で過ごす時間では、そんなことほとんど意識もしなかった。
(……あー……)
その原因に思い至れないほど、自分は鈍感ではいられなかった。それに、先程考えていたこともある。自分の耳がじわりと熱を持つのが分かる。
相棒との仲が冷え込んでいるわけでは、ない。それは全くもって。ただ、単純にこのところ色々立て込んでいて忙しく、かつ作戦の都合上この国に来てからは別行動になることが多かった。勿論全く顔を合わせないなんてことはないし、時間を合わせられるときはできるだけ食事も一緒にとるようにはしている。
しかし生活リズムも微妙にズレて、それらの積み重ねでこれまでに比べてずっと共に過ごす時間が減っているのは確かだった。直接交わす会話も、逆に会話もなくただゆったりと共に過ごす時間も、そして互いの肌に触れることも。
思い出してしまえば、欲しくなる。あのいつも涼やかな顔をした男が、キスをする直前に見せる熱っぽいあの表情を。柔らかくてあたたかい唇の温度を。こちらを誘って、貪り、暴いてくるあの熱っぽい舌の感触を。
想像して、それだけで背筋がぶるりと震えてしまいそうになる。すっかり墓穴だ。モクマは短く息を吐き出す。その息すらもうっすらと熱を帯びているように感じてまた己に呆れる。
「……いつから、こんな欲だらけになっちまったんだか」
あいつがのびのびと生きていてくれたらいい。その隣に立って、人を、そしてあいつを守ることができたら。そんなふうに生きていけるなら幸せだと思った。最初は本当に、それで心から満足していたはずだったのだ。
だというのに、人間とはどうしたって欲が出る生き物らしい。
あいつに触れたいと思ってしまった。もっと深いところで交わりたいと、そう願って、そしてその願いが互いに同じなのだと知った。
その熱情に身を任せて触れ合うようになってからは、それがないとこんなふうに寂しくなんて思ってしまうようになってしまった。こんな、大の大人が。おじさんが。
今の状況は、決してあいつのせいじゃない。むしろ、あの真面目な年下の相棒は忙しい中でこまめに時間を作ってくれている方だ。だというのに自分はこんなことを思ってしまう。ひどい贅沢者になってしまったものだ。
「……まあ、おじさんは下衆だからね~、っつって……」
モクマの中に燻る贅沢で身勝手な欲望。それを知ったら、あいつはどんな顔をするだろう。どんな言葉を口にするだろう。
呆れるだろうか。それともモクマの下衆な一面が見られたと喜ぶだろうか。そんな彼の姿を想像してモクマは口元で小さく笑い、そして目を閉じる。
目を閉じていたらうたた寝をしてしまっていたらしい。玄関からの微かな物音でモクマの意識は浮上した。ドアを閉める音と、そのあとに洗面所に向かう足音。手を洗う水音。帰宅してすぐに手を洗うのが几帳面な相棒の習慣だった。
帰ってきたのか、と思ってから、己がどのくらい眠っていたのかとモクマは少し慌てる。しかし窓から差し込む陽の光は目を閉じた時とほとんど変わらなかったので、恐らくほんのわずかな間だったろう。
そして眠る前に考えていたことを思い出したモクマは、チェズレイが帰ってきたということに――すぐそこにいるのだということを自覚した瞬間、いやに心臓を跳ねさせてしまった。こんなの、まったく今更意識することでもないというのに。モクマが内心で慌てふためいている間に、洗面所の水音が止み、足音がモクマがいるリビングへと近づいてくる。あ、待って、今ちゃんと顔作れてないかもなんて焦りをモクマが抱くも、リビングのドアはすぐに開けられた。
「っ、おかえり、チェズレイ」
「……ただいま戻りました、モクマさん」
チェズレイはここを出るときにしていたはずの変装をすっかり剥がして、いつもの彼の姿になっている。そして先程まで考えていたことのせいで、まずその唇に目が行ってしまって良くなかった。
その顔を見て改めて、ああ、好きだな――と思ってしまう。そしてそれと同じ強さで、触れたい、と思ってしまう欲だらけの自分を苦労して押し退け、モクマは意識してへらりと軽い表情を作った。
こちらのソファに向かって歩いてくるチェズレイに「作戦、どうだった?」と聞くと、チェズレイは「ええ、計画通りつつがなく」と返す。そうしてチェズレイはモクマが座るソファ、隣に一人分空いたスペースに座った。
――かと思えば、すぐにチェズレイはモクマの顔をずいと覗きこんだ。ここ最近ではなかなかなかった距離、チェズレイの瞳に自分が映っていることすらも分かってしまうほどの近さに、思わずモクマの心臓は一際強く高鳴った。
「……えーと、チェズレイさん?」
「はい、なんでしょう。モクマさん」
「……いきなり近いね?」
「それはもう、あなたにそんな物欲しそうな顔をされてしまっては」
チェズレイに言われ、モクマはかっと顔が熱くなる。それを隠せるような距離でも、相手でもない。分かってはいても条件反射的に後ずさろうとしたモクマの手首をチェズレイが制するように掴む。
「私に隠し通せるとお思いで?」
「……思いません……」
モクマが素直に言うと、チェズレイはフフ、と機嫌良さそうに微笑んだ。相手はチェズレイだ、この鼓動の速さだってとっくにバレているに違いない。
「モクマさん」
「ハイ」
「なぜ急にそんなかわいらしいお顔をされているのか、理由をお伺いしても?」
かわいい、などと言われてまた顔に熱が集まった。その言葉を訂正したい気持ちもあれど、こちらをじっと見つめてくるチェズレイの顔は真剣だ。それを茶化す気持ちにはなれなくて、モクマは素直に白状することにした。
「……えーと、ね。さっきテレビで、今日がキスの日って言ってて」
「はい」
「それで、お前さんと最近キスしてなかったなってことを思い出して」
「……ええ」
「……それで、したいなって思ったわけ」
「……」
モクマが自白を終えた後、しん、と部屋に静寂が落ちる。自分が口にした言葉の恥ずかしさとその静寂に、どうにも座りの悪さを感じてモクマはつい俯いてしまう。
「……モクマさん、」と静かにこちらの名前を呼ぶチェズレイに、モクマは「……言っとくが、お前さんのせいとかじゃないからね。このところ、ほんとに忙しかったんだから」と先んじて言ってやった。これで律儀なこの男が責任を感じてしまうのはお門違いだと思ったからだ。
「ええ、分かっています。けれど、……」
「……チェズレイ?」
珍しく言い淀むチェズレイに、不思議に思ってモクマは顔を上げる。再び真正面から相対したチェズレイの表情に、モクマの心臓はまた掴まれたみたいに強く脈打った。
(……可愛い顔してるのは、どっちだっての)
チェズレイの透けるような紫の瞳がモクマを見つめ、熱を持って小さく揺れている。わずかに眉根を寄せ、頬を染めたその顔は、紛れもなく喜びの色を浮かべていた。まるでコップにめいっぱい張った水のようにひたひたになって、今にも溢れてしまいそうなくらいに。
ずっと欲しかった、その表情。――モクマの言葉ひとつでこんなふうになってしまうこの青年を、可愛いと言う以外になんと形容できようか。
チェズレイを見つめたモクマが思わずなにも言えずにいると、チェズレイが細く息を吐く。「……人間とは愚かなものですね」とチェズレイは自分に呆れているような声色で言った。
「あなたに寂しい思いをさせてしまったことを申し訳なく思うのに、けれどあなたがそんなふうに寂しがって、私を欲しがって、……可愛い顔をみせてくれることをどうしようもなく嬉しくも思ってしまう」
この青年の中にある、濁って、重い、強い情。それがモクマによってさらに濁りを増していく。それを見つめて、やはりモクマの中に生まれる感情だって喜びばかりなのだからどうしようもない。
「……人間ってそんなもんだよ、チェズレイ」とそんな自分も省みながら口にすれば、チェズレイは「……そうですね」とその目をゆるりと細めて口にした。
モクマの手首を掴んでいた手の力が緩む。そしてその手はゆっくりと登ってきて、モクマの手のひらに重なり指が絡んだ。手袋越しの温度。そう思えば、素手で触れたときの温度が恋しくなる。
「実はですね、先程少し予定が変わりまして――本日の午後の予定がすっかり空いたのですよ」
……ですから、とチェズレイは囁くように言って、モクマにねだるみたいに小さく首を傾げてみせた。繋がれていない方のチェズレイの大きく長い手が、モクマの頬を包む。
「あなたを寂しがらせてしまった分――いえ、今私があなたを愛おしいと思っている分だけ、キスをさせて頂いても?」
その瞳にまっすぐに射抜かれて、モクマはまた顔が熱くなった。
だって、その言葉通り、――あなたを愛おしいと。そう言葉にせずともチェズレイの表情が、眼差しが、疑いようもなく全部でモクマに伝えていたからだ。
それがどうしようもないほどに恥ずかしくて、しかし、どうしようもないほどに嬉しかった。
モクマは口元を緩めて笑って、お返しのように手を伸ばしてチェズレイの頬に触れた。チェズレイの温度も、普段よりも少し熱い気がした。
「そりゃあ、どのくらいかかるかねえ」
モクマの言葉に、チェズレイも笑う。そこからはもう言葉もいらなかった。視線を交わし、顔が近づき、吐息が触れ、そうしてまずは一度目の口付けを交わした。