白いシーツと温い夜
一体どのくらいしていたのだろう。夢中になって時間も忘れて、随分と長い時間溺れていたように思うが、窓の外は暗く月の淡い光が見えるからまだ夜のうちなのだろう。年甲斐もなく、と自分に少し呆れながら吐き出したモクマの息は、先程までの行為の余韻を残してわずかに熱い。指一本動かすのも億劫に思える、揺蕩うような倦怠感。少しずつましにはなってきたものの、身体の内側もまだ燻るように熱を帯びていた。――だというのに、隣の体温がいなくなったシーツの上は急によそよそしく冷えていくように思えて、自分の身体の熱との温度差に余計に寒さを覚える。
モクマがもう一度息を吐いたところで、コンコン、と寝室のドアが控えめな音でノックされた。静かに開かれたドアから顔を覗かせた相棒は、片手にミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。
「モクマさん、水を」
「んー……」
返事をしようとした自分の声は、思っていた以上に掠れてうまく出てこない。先程散々喘がされたせいだ。
喉がひたりと張り付くように乾いていることをモクマはようやく自覚する。だからこの一度懐に入れた者にはどこまでも甲斐甲斐しい青年は、シャワーで汗やらなにやらを流した後モクマのために水まで持ってきてくれたのだろう。
ベッドサイドに腰掛けたチェズレイが、大の字に寝転がったままのモクマを見下ろしながらこちらにペットボトルを差し出す。月明かりに照らされたその輪郭を、綺麗だな、と思うと同時に、もう先程までの熱の余韻を仕舞っていつものすっかり整った顔でいることに少しだけ物足りないような、焦れるような、そんな心地になった。
「……、起き上がれますか?」
チェズレイの表情に少しだけ心配が混ざる。起き上がろうとすれば、起き上がれないこともない。ただ、やはりまだモクマは指一本動かすのすら億劫な気持ちではあった。それに。
もう一回するほどの、気力はない。もうそちらは十分に満たされた。けれどまだ、もう少し――この夜が明けるまでは、この甘やかな熱の余韻の中に居たいような気分だった。けれど、ひとりでそこに居るのはいやだった。ふたりでないと、ふたりでこの温度を分け合えないと、結局この物足りなさは埋まらない。
「……まだちょっと、起き上がれない、から」
モクマの口から零れた小さな嘘。天下の仮面の詐欺師は、この嘘を見破っているだろうか。どちらだって構わなかった。こちらの要求を、健気で律儀者の彼が叶えてくれるのなら。
「口移しで飲ませてくれるかい」
掠れた、ともすれば夜の静寂にかき消されてしまいそうなほどの小さな声。しかし耳の良い彼はモクマの言葉を正しく聞き取ってくれたようだった。薄暗闇の中で、彼の宝石のような紫色の瞳がわずかに濃くなったのを見て取る。
チェズレイは一瞬の間の後、手の中のペットボトルの蓋を開けてその中身を一口含む。そうしてモクマの顔の横に手をついて、流れるような仕草で唇が重ねられた。触れた唇は見た目より随分とまだ熱くて、先程までと同じ温度をしていて、そのことにふっとモクマの心は満たされていく。わずかに鼻先に香ったボディソープのにおいの奥に、チェズレイのにおいを見つける。
唇を薄く開くと、割り開いてきた舌とともに彼の口の中で温められた水が口内に流し込まれる。ぬるい温度の水。ペットボトルから直接飲んだ方が冷たくて美味しいだろうと分かっているのに、望んだそれが与えられたことが嬉しく、モクマはそれを味わうようにゆっくりと飲み込んだ。
性的な触れ合いを目的にしたわけではないチェズレイの舌は、水を流し込むという目的を終えるとすぐに引っ込められる。名残惜しい気がしなくもないが、それを深追いするだけの体力は今のモクマにはなかった。少量の水をモクマに口移しし終えたチェズレイは唇を離し、モクマを至近距離で見下ろしたままその目を慈しむように柔く細める。
「いかがです」
「……随分とリハビリ、進んだよねえ……」
「おかげさまで」
他人と触れ合うどころか、ピアノを弾くときを除いて四六時中手袋も外さなかった彼が、モクマに触れ、裸を晒し、セックスをして。そしてねだられればこうして躊躇いもなく口移しをしてみせる。非合理的だと、不衛生だと切り捨てることなんて簡単だろうに。それがモクマの心を優越感で強く揺らす。
チェズレイがモクマの上から離れていこうとするので、モクマは咄嗟にチェズレイの背中に手を回してそれを引き留めた。驚いたように目を瞬かせたチェズレイが、モクマを見つめて「……まだ、足りませんか?」と聞く。モクマへの配慮が半分、あとは驚きと喜び、さまざまな感情が入り交じるチェズレイの表情を見つめ返しながら、モクマは小さくかぶりを振った。
「いんや。今夜はもう、じゅーぶん。けど、」
ちらりと横目で、一人分空いた隣のシーツを見やる。チェズレイが離れた少しの時間に抱いた、この物足りなさを、焦れるような思いを、――さみしさを、この男に思い知ってほしかったのだ。きっと素面では伝えきれないこの感情を、こんな夜の熱の余韻を言い訳にして。
「……一人のシーツは、冷たくってね」
モクマの言葉に、チェズレイがわずかに目を見張る。そうして、チェズレイはふっと小さく息を吐き出して言った。
「……あなたは随分、甘えるのが上手くなった」
今度はチェズレイからモクマの身体を抱きしめ、そして白いシーツの上、一人分空いていたスペースに寝転がる。体は触れ合ったまま、互いの温度を感じたまま、目を合わせたチェズレイの表情が穏やかに綻ぶ。
「今夜は、このまま」
そう、まるで内緒話みたいに小さな声でモクマに言うチェズレイに、モクマも今度こそ充足した心地で頷いて目の前の体を緩く抱きしめ返す。二人分の体温が触れ合ったシーツに、もう冷たさは感じない。「うん、……おやすみ、チェズレイ」と囁いて、モクマはゆっくりと目を閉じた。
チェズモクワンドロワンライ 第135回【残り香/口移し】