月下に星光
ドォン、と背後で大きな爆発音。先程まで自分たちがいた、敵のアジトたる倉庫が燃えて崩れる。びりびりと肌に感じるこの熱で、服や髪も乾いちゃくれんかな――なんてことがちらりと頭の隅に過ったが、このずぶ濡れ具合は数度の爆発の熱を浴びた程度で乾くようなものでもない。そもそも、熱でこの水が乾くような距離なんてのは危険地帯だ。この爆発を仕掛けた側である自分たちは、件の倉庫からは既にそれなりの距離をとっている。いやあ、こりゃまた派手な。そう思いながら、モクマは髪の先から滴りそうな雫がコンクリートの上に落ちる前に次の足場へと飛び移る。その跳躍の表紙に、ビルとビルの間の細い路地に水滴が零れて落ちていく。
追っ手はいない。増援が来る可能性も限りなくゼロ。その相棒の計算には狂いはないだろう。しかしこの雲一つ無い夜、ずぶ濡れの人間や不自然に続く水滴の跡なんてものは明らかに怪しい。だからモクマは念には念をと気を遣って、帰り道まで人目につきにくく、かつ例え短時間であろうが水滴などの痕跡をできるだけ残しにくい、あったとして気付かれにくいルートを選んで走っていた。
今日の潜入も、目的はすべて達成。欲しい情報は根こそぎ奪い、戦闘はあったものの互いに怪我ひとつなくミッションを終えることができた。
唯一、このずぶ濡れだけが想定外。
戦闘になった際、劣勢を察知した相手方の一人が奥の手とばかりに――なんて言い方はしてみたが、つまるところただの悪あがきだ――室内のスプリンクラーを作動させた。急に大量に降りかかる水によって隙を作ろうとしたのだろう。しかしただの水程度では、一瞬の目くらましにもなりはしない。戦況は覆らずあっという間にモクマが全ての敵を気絶させ、チェズレイが催眠を施し、近くの警察署へ自首させるように仕向けた。すぐに爆破されるこの倉庫から待避させるという理由も込みでの算段だ。
かくして一点のイレギュラーを除きミッションコンプリート、残ったのは爆発をバックにずぶ濡れで走る天才詐欺師と忍びというわけであった。
また地響きのような一発が背後から聞こえる。静かな夜に響くその音に気付いた街が遠くでざわめき始めている気配がした。じきにマスコミも駆けつけ、件の倉庫を管理する企業の悪事は白日の下に晒されるだろう。
そのざわめきから逆行するようにモクマは夜を駆ける。今日は少し肌寒い。ずぶ濡れの体が冷えて風邪なんて引く前に、とっとと帰らなければと思った。自分は丈夫だからいいが、相棒には風邪は引かせたくない。
いわゆるお姫様抱っこの格好でモクマに抱えられたチェズレイも、モクマと同じくらいずぶ濡れだ。致し方なかったとはいえ、濡らしてしまったことを不甲斐なく思う。
きれい好きで完璧主義のこの相棒は、スプリンクラーを浴びせられてずぶ濡れで帰るなど不快なのではないか。そうモクマは思ったが、モクマの腕の中でチェズレイは不意にくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
「ッフフ、……ハハハッ!」
「え、なに、どうしたの。ご機嫌……? なして?」
目を細めて笑い声を上げるチェズレイの表情に不快そうな色はなく、むしろいやにご機嫌なようにすら見えた。その理由が分からず、モクマは目を瞬かせて困惑する。それなりの時間をそれなりの濃度で一緒に過ごしてきた自負はあるが、この相棒のツボは未だにモクマにも分からない部分が多かった。想定とは違う反応に、モクマは頭の中にクエスチョンマークを浮かべながらひらりとまた建物の間を飛んだ。また水滴がふたりの体を離れ、空へと落とされていく。
「フフ、……その話はまた、拠点に帰ってからにしましょうか」
「まあ、そうだねえ、っと」
確かに飛んでいる中では落ち着いて話もできないだろう。話している途中、着地の衝撃で舌を噛まれてもことだ。
「じゃあ、ちゃっちゃと帰りますか、大将」
「ええ」
いつの間にか背中に聞こえる爆発音は落ち着いていた。まだ笑いのおさまらないチェズレイの顔を、月の光が射し込むように照らす。
淡い光がチェズレイの髪や顔に滴る水滴に反射して、きらきらと光って――ああ、綺麗なもんだな、と。
静かになった夜を走りながら、モクマはそんな相棒の姿に、一瞬心から見惚れてしまったのだった。
この国で自分たちが拠点にしている家へと滞りなく帰り着き、玄関のドアを閉め鍵をかける。その次の瞬間にはチェズレイがモクマに覆い被さるようにしてモクマへキスをしてきた。
触れるだけの可愛いものでは到底終わらず、性急にさし込まれた舌にモクマも応えるように唇を開いてやる。キスはあっという間に貪り合うような深いものになった。
潜入の後にこうなるのは、珍しいことではない。
無事にミッションを終えた達成感と高揚、互いに無事に帰ってきたことへの安堵、潜入中の互いの鮮やかな手腕への興奮。互いに昂って、触れたいと思って、二人きりになった瞬間にその欲求の箍が外れる。今夜のモクマだって、正直なところチェズレイに早く触れたいと思っていたのだ。こちらから口付けを深くするようにチェズレイに手を伸ばしてその頭を引き寄せると、手のひらに伝わるのはいつもとは違うじっとりと濡れた感触。そのことに、自分たちが今ずぶ濡れであることを思い出させられる。モクマの手の甲を、チェズレイの髪から滴り落ちた水滴が流れていく。
そうだ、早く風呂に入らなければ。冷静な自分がそう思うが、どうにも離れがたくて、モクマはチェズレイの濡れた髪に撫でるように触れる。水を吸った服を着たままの体は冷えているのに、触れ合っている唇だけは火傷しそうに熱く思った。
「ッ……は、ぁ」
がむしゃらな口付けは、呼吸が苦しくなってようやく離れる。潜入時には一度も乱れなかった呼吸は、チェズレイのキスひとつで簡単に乱されてしまう。チェズレイだって同じで、潜入中は高潔で冷静な詐欺師の顔をしていた彼が今は呼吸を乱し欲に濡れた表情をしていた。それにずくりとモクマの腹の底から燻る火のような興奮がわき起こる。
しかし、ハッとモクマは我に返ってチェズレイに言う。
「チェズレイ、まずは風呂ね! ずぶ濡れのままだと風邪引くから」
「あァ……、そうですね」
チェズレイは、そういえばそうだった、というくらいの温度感で返事をする。水によって額に張り付く前髪をうっとうしそうに手袋を嵌めた手で掻き上げる彼の姿を見ながら、モクマは先程の帰り道で浮かんだ疑問が再び頭をもたげ、それをチェズレイにぶつけた。
「ちゅーか、なしてご機嫌だったの。こんなずぶ濡れなのに」
髪もうっとうしいでしょ。ずぶ濡れになるの、お前さんは嫌なんじゃないかって思ってたんだけど……。モクマはチェズレイの頬に張り付いた彼の髪を耳にかけてやりながら言う。そうしたら、チェズレイは笑いがぶりかえしたようにまた喉を鳴らした。チェズレイの口角が上がる。
「あなたがねェ」
「俺?」
急に自分に話が飛んできて、モクマはきょとんとする。チェズレイは先程のモクマの仕草の真似をするみたいに、モクマの頬に張り付いた髪に手を伸ばし指で撫でるように整えた。
「水を頭から浴びようと、ほんの一瞬の乱れすらもない。無敵の武人殿の鮮やかな動きに滾ってしまいましてェ……」
「ああ……」
チェズレイは、モクマの戦闘における立ち居振る舞いをひどく好んでくれている。それこそ、唇の端がこんなにつり上がって楽しそうな顔をしてしまうほどに。なるほどねえ、とモクマが苦笑しかけたところに、チェズレイは「それにですね」と話を続けた。
「脱出の最中、月明かりに照らされたあなたの姿――きらきらと水滴を纏わせて夜を駆けていくあなたの姿が、とても美しくて」
チェズレイの言葉にモクマは目を瞬かせて、それからふっと笑ってしまった。
(……なに、同じようなこと考えてたの、俺たち)
それがくすぐったくて、嬉しくて、愛おしい。笑うモクマを見て、チェズレイは目を細める。
「それはどういう笑いで?」
「当ててみてよ、チェズレイさん。……まあとにかく、今は早く風呂ね。お前さん先入っといで」
そうモクマが言ってチェズレイの背中を押そうとすると、その手首をぐいとチェズレイに引かれる。
「あなただって濡れているでしょう。一緒に入りましょう」
チェズレイの提案に、わあ、とモクマは小さく声を上げる。互いの裸はとうに見せ合った仲だが、しかしシャワーを一緒に浴びようと提案されるのは初めてのことだ。
バスルームは一般家庭より随分な広さがあるから、大の男二人で入っても狭くはないが、しかし。中途半端に高められた熱を持て余したまま二人で入るというのは、とモクマの脳内で不埒な妄想が走り出してしまいそうなところに、モクマの手首を掴んだチェズレイの手がゆっくりと指先でモクマの肌を明らかに煽る手つきでなぞる。
濡れた手袋越しに、うっすらとチェズレイの体温を感じる。チェズレイはモクマを見つめて、見透かすように微笑んだ。ずぶ濡れだろうが翳ることのない、美しい笑みがモクマを誘う。
ああ、はやくこの男に触れたい。そんな欲望が再び掻き立てられてしまう。
「……随分と、変わったよねえ、おまえさん」
ずぶ濡れを気にせず笑って、下衆にふたりでシャワーを浴びようなんて提案して。下心なんてすっかり隠さずに。モクマの言葉にチェズレイは、「あなたにだけですよ」と目を細めて笑った。
チェズモクワンドロワンライ 第136回【ずぶ濡れ/奥の手】