Vivid yellow night
作戦の遂行に、大なり小なりのイレギュラーはつきものである。敵の懐に潜入するような大胆な作戦であれば尚のこと、そのイレギュラーにいかに迅速かつ的確な判断と対処ができるかが重要となってくる。一瞬の判断ミスが命取りの世界だ。この闇社会に本格的に足を踏み入れてからというもの、チェズレイはずっとその連続で生きてきた。ずっとこの頭脳ひとつで、どんな場面でも。だからこれから先も、ひとりでだって切り抜けていく自信はあった。
けれど。
今日の潜入先は、ここ数週間調査してきた組織のアジトだ。無論、事前にできる限りの情報収集はしてきたが、細々としたイレギュラーが重なった。
中に居る敵の数が想定よりも多かった。侵入者の情報が組織のトップに伝わるのが想定よりも早く、こちらが欲しい情報が眠る部屋に辿り着く前にそれらを隠滅しようと動き始めた――さてここからどう動く、と大勢の敵に囲まれながらチェズレイは思考を巡らせる。
ここで時間を取られていては、こちらの狙う情報はすっかり隠滅されてしまうかもしれない。かといって、自分の逃げ道を塞ぐ男たちは見るからにこういった荒事に慣れた構成員のようだった。チェズレイ一人では、無茶とは言わないまでも簡単には切り抜けさせてはくれないだろう。
そう、一人であれば。
チェズレイはちらりと視線だけで隣を見やる。隣に立つモクマも同じようにチェズレイを見た。視線がかち合って、その瞳を見つめ、言葉などもう不要だと知る。
モクマが左足をわずかに引いたのが合図。
瞬間、チェズレイは全速力で駆け出した。チェズレイの突然の動きに敵が一瞬怯んだところにモクマが閃光のように駆け、敵を薙ぎ倒し、チェズレイの進む道を開く。幸いにして、敵の全戦力はここにつぎ込まれていたようで先程の囲みを抜ければその先の道は静かなものだった。
背後に戦闘音と敵の呻き声を聞きながら、チェズレイは目的の部屋へと走る。あちらはすぐにカタがつくだろう。打ち合わせこそしていないが、目的地の情報は共有しているから終わり次第モクマも合流してくれるはずだ。
騒々しい音が遠くなり、廊下はどんどん静かになっていく。チェズレイは高揚に上がる口角を自覚しながら、しかし相棒の獅子奮迅の活躍をこの目で見られなかったことだけが、唯一にして最大の心残りだった。
◇
忍者の脚が夜のビル街を駆けていく。自分より大きな男を抱えて高いビルの上階から飛び降りても息ひとつ乱さず、軽やかに次のビルへと飛び移っていくさまがあまりに美しく、それが楽しくて、チェズレイはモクマの腕の中で声を上げて笑った。そんなチェズレイを見て、モクマも「楽しそうだねえ」と笑う。
「ま、最終的にうまくいってよかったよ。欲しいデータも全部取って来れたんでしょ?」
「えェ、根こそぎね。あなたのおかげですよ、無敵の武人殿」
チェズレイの言葉に、モクマはくすぐったそうに苦笑してから「いやあ、大将の判断力のおかげだって」と謙遜してみせる。しかしその横顔は、普段よりもどこか高揚しているように見えた。その理由はチェズレイにも分かる。チェズレイだってまた、そうだからだ。
言葉もなく、眼差しだけで意思疎通ができたことへの高揚感。そして、その作戦が見事にハマったことの気持ちの良さと充足。
一人では決して感じることのできない類の喜びだった。
同道してしばらく、これまでもモクマとの連携はこの上なくうまくいってきたと思っていたが、最近はこうやって言葉にせずとも視線だけで相手の意図を汲み取ることができる瞬間があった。勿論すべてではないし、チェズレイにとっては普段のモクマは考えを読みにくい方の相手ではあるのだが、ふとした瞬間にこうやって『ハマる』瞬間があった。
これが相棒というものだろうか。彼と出会うまで自分には一生重ねることのないと思っていた――むしろ薄ら寒い幻想だとすら思っていた――言葉にチェズレイは思いを馳せた。
いわゆるお姫様抱っこの格好でモクマの腕に抱かれながら、高いビルから低いビルへと段々と移動していく。それをしばらく繰り返した後、「このへんでいいかな」とビルの影の路地に着地したモクマに地面に恭しく下ろされた。「ありがとうございます」と微笑んで、今度は二人並んで夜の街を歩く。隣に並ぶとモクマの小柄さを改めて感じ、この小さな体に詰まった力と技術の凄さにチェズレイは思いを馳せた。
夏の夜の生温い風がチェズレイの頬を撫でる。隣で軽やかな足取りで歩くモクマに、「ところで、チェズレイさんや」と声をかけられた。
「予想より早く終われたからさぁ、今夜の晩酌、付き合ってくれる?」
ちょっとでいいから、ね? なんて上目遣いで可愛い子ぶって笑うモクマを見下ろして、チェズレイはふっと微笑む。
「ええ、ぜひ。お付き合いしましょう。あなたの今夜の活躍への賛美も込めて乾杯したいですね」
「やった。今日はレモンサワーとかどう? 貰い物のレモンがたくさんあるんだ」
「あァ、あなたが先日街中で助けたご婦人からの頂き物ですね」
「そうそう。今夜はちと蒸し暑いし、こーいう夜には爽やかなお酒も合いそうだなって。結構量があるからさ、付き合ってくれると嬉しいな」
そう言うモクマは先程よりももっと上機嫌にその顔を綻ばせた。忍者装束のため鼻より下は黒い布で覆われているが、その下で口元も緩んでいることだろう。つい数十分前に、何十人もの敵をたった一人で鮮やかに薙ぎ倒していった無敵の武人とは思えぬ柔らかい表情だった。その顔を一番近くで見つめながら、チェズレイもふっと笑う。
昔の自分にとって、作戦が成功した後に感じることは計画を完璧に遂行できたことへの快感と、狙った組織や下衆を潰せたことへの満足感。ただそれだけだった。
その後は淡々と後処理をして、次の目標へと向かう。その繰り返しだ。イレギュラーは自分のミス、それを楽しむこともなければ、成功の喜びを誰かと分かち合うこともない。それを不幸だとも思っていなかったし、それが自分の生き方だと思っていた。――けれど。
いつの間にか街の中心部へと近付いてきていて、ビルの隙間から覗く夜景がきらきらと瞬いていた。自分たちが拠点としている家ももうすぐ近くだ。隣を歩くモクマが肩に巻いたストールが風に吹かれて揺れる。
変化した景色、変化した己の心のありよう。きっとかつての自分が見たらまったくもって理解されないであろうこの感情も含めて、そんな今をチェズレイはまるごと愛おしく思った。
二人で帰宅して、シャワーを浴びて着替えて、それから。そう想像すると柔らかな気持ちが自分の心を満たす。睫毛を伏せ、口元を緩めてチェズレイは笑った。
「晩酌、楽しみにしていますよ」
そう言った自分の声が甘い。顔を上げたモクマは、同じくらいに甘い表情でチェズレイを見つめて、「俺も、楽しみにしてるね」と返してくれた。
チェズモクワンドロワンライ 第137回【レモン/アイコンタクト】