スイート・アンド・メルト

 風呂から上がってリビングに戻ってきたチェズレイが、モクマを見やって「おや」と言う。その言葉と視線の理由は聞かずとも分かったので、モクマは口の中のほのかに甘く冷えた味を飲み込んでからまずは「おかえり」とチェズレイに声をかけた。鼻にバニラの控えめな香りが抜ける。
 そんなモクマにチェズレイは律儀に「ただいま戻りました」と返してから、カウンターキッチンに寄ってコップ一杯のミネラルウォーターを飲んだ。風呂上がりに水を飲むのは彼の欠かさない習慣だ。チェズレイの白い肌は、風呂上がりで普段よりもうっすらと色づいている。
 先程チェズレイが見つめたダイニングテーブルの上には、ごくありふれたバニラ味のカップアイスが置かれている。三分の二くらい残っているモクマの食べかけだ。それと、缶に入ったモクマの好きなお酒。キッチンからこちらに再び視線を向けたチェズレイに、モクマは口を開く。
「思ったより甘すぎなくて、結構いけるよ。暑い日の風呂上がりのアイスもいいもんだね」
 言ってから「あとアイスって、お酒ちゅわんとの相性も意外といいみたい」と少しふざけた調子で付け足すと、モクマを見てそっと目を細めたチェズレイは「そうですか」と返す。優しい眼差しだ。しかし続いた言葉は、だいたいモクマの想像した通り、いつものストイックなチェズレイのものだった。
「ですがこの時間に甘いものというのは、少しいただけませんがねェ。湯上がりに腸を冷やすというのも免疫力の低下を招くとされ――」
「あー、ごめんて。今夜だけだから許してちょ」
 モクマが慌てて弁明すると、チェズレイはふっと小さく息を吐いて「今夜だけですよ」と言ってくれた。案外とすぐに許してくれた相棒は、出会った頃に比べると随分と柔軟になったものだ。モクマに甘くなった、とも言えるかもしれない。
 そんな彼の変化に胸のうちがなんだかあたたかくなるのを感じながら、モクマはコンビニで貰ったプラスチックのスプーンをカップアイスに刺して一口分を掬い上げた。それを口の中に運ぶ間にチェズレイは先程使ったコップを洗い終え、ダイニングテーブルのモクマの正面に座る。しかしチェズレイは何か飲み物や菓子を持ってくるでもなく、ただアイスを食べるモクマを観察するだけのようだった。
 面白いのかねえ、と思うが、チェズレイの表情を見るにチェズレイはそれで満足なのだろう。本当に不思議な男だ、と思うが、モクマもそれを悪くないと思っているのだから大概絆されたものだ。
 モクマは基本的に甘党ではない。よっぽど甘すぎるものでなければ――それこそ、はずれまんじゅうのような劇薬的なものでない限り――普通に美味しく頂くが、選べる場面であれば自分からあまり選ぶ方ではなかった。そんなモクマがなぜ珍しくバニラアイスなんてものを買ってきたかというと、正確には買ったわけではなく、お酒を買ったついでに引いたコンビニのキャンペーンのくじで当たったものだった。ごくありふれた、どこにでもあるお手頃な値段のバニラアイスだ。
 当たったのは一つだけだったので、帰宅してからモクマはチェズレイに食べたいか聞いてみたがチェズレイは首を横に振った。庶民派のアイスは彼の口には合わないからかと思ったが、続いた言葉は「私はいいですよ、モクマさんが当てられたものですし。どうしてもいらないのであれば考えますが」だったのでやはり律儀な男だと思ったものだ。、まあそんなこんなで、それなら久々に食べてみようかなとモクマは風呂上がりに今日当てたアイスを食べてみることにしたのだった。
 明日は朝から仕事の予定が入っているので、ふたりでの晩酌はしない日。モクマも今夜はこの一缶で終わりにするつもりだった。チェズレイも風呂を上がってあとは寝るだけだろうが、何をするでもなくモクマを眺めている。
 特に会話をするでもない。ふたりきりの静かな部屋の中、モクマがただアイスを食べている。そんな時間が彼にとって流石に手持ち無沙汰ではないかという気分になってきて、モクマはスプーンで掬った一口分のアイスを戯れのつもりで自分ではなくチェズレイの口元に向ける。
「チェズレイも、一口食べる?」
 モクマが首を軽く傾げて可愛い子ぶった口調でそう言ってやれば、チェズレイはぱちりとその長い睫毛を瞬かせた。一瞬の間があって、やっぱりチェズレイはいらないかな、なんてモクマは少しだけ不安になり始める。
 さっき彼自身も言っていたとおりこんな時間だし、流石に――とモクマが思ってスプーンを持った手を引きかけたところで、チェズレイが動いた。テーブルから軽く身を乗り出して、引きかけたモクマの右手にそっと手を添えて制する。あ、とモクマが思ったところで、チェズレイはその口を開けてモクマに差し出されたスプーンの先をぱくりと咥えた。
 まさか本当に食べてくれるとは、と今度はモクマが目を瞬かせる番だった。
 モクマがぽかんとしている間に、チェズレイはスプーンから口を離してアイスを咀嚼しごくりと飲み込む。その白い首に浮き出た喉仏の凹凸が上下するのをモクマが見つめていると、チェズレイは小さく頷いて言う。
「成程、確かに思ったより甘みも控えめですねェ。これなら一カップ食べてもそこまでしつこくない」
 この価格帯のアイスクリームを食べたのは初めてですが、存外美味しいものですね。そう呟くチェズレイをモクマが驚きの表情のまま見つめていると、視線に気付いたチェズレイがモクマを見てフフ、とおかしそうに笑う。
「食べるかと聞いてきたのはあなたではないですか」
「いや、本当に食べてくれるとは……。さっきこの時間にアイスなんてって言ってたのに」
 それに、俺が使ってたスプーンそのままだし、ともモクマは思う。以前は人の手料理さえ好まなかった彼が。モクマの誘いは――勿論食べてくれたら嬉しいなとは思っていたが――ただのいつもの戯れのつもりだったのだ。
 そんなモクマを見つめて、チェズレイは悪戯っぽい表情でにこりと笑いかけた。その表情がいやに美しくて、魅惑的で、モクマは思わず見惚れてしまう。
「今夜だけですよ」
 先程と同じ言葉を繰り返したチェズレイの、細められた紫の瞳がまるで宝石のように光る。モクマだけを見つめるその目の奧には、零れ落ちそうなほどの情の色が満ちている。
「チェズレイ、……」
 モクマを見てチェズレイはもう一度ふっと笑って、それから「さて」と言ってテーブルに手をついて立ち上がる。チェズレイが座っていた椅子の脚が床を擦る、小さな音が部屋の中に響いた。
「私はもう歯を磨いて寝ます。明日も早いですからね。あなたもあまり夜更かししすぎませんように。おやすみなさい」
 眠るとき、お腹をあまり冷やさないようにしてくださいね、モクマさん。そう心配性の母親みたいな台詞を付け足してからチェズレイはあっさりとリビングを後にする。
 長い髪をさらりと揺らす彼の後ろ姿に、「ああ、うん。おやすみー」と返事をしたモクマは、彼が廊下へ出てリビングのドアを閉めたところでなんだか気が抜けて、はあと息を吐きながらテーブルに頬杖をついた。何かを食べながらテーブルに頬杖を突くのは行儀が悪いとは分かっているが、それを指摘する人は今この場にはいないのだから許してほしい。
 本当に、随分と変わったことだ。同道を決めてからこっち、彼の変化に対する柔軟さをモクマは心から尊敬している。そしてそんな彼の柔軟さが殊更に発揮されるのは、モクマに対してのことであるというのはもはや自分の自惚れではないだろう。
 先程のチェズレイの表情を思い出して、じわりと耳が熱くなる。
 随分と甘やかされるようになったものだと思う。そして、彼も甘えてくれるようになったと思う。
 そんなふうに変わっていく彼が、自分に甘え甘やかしてくれる彼が、そしてそれはモクマに対して一等特別なことなのだと示してくれる彼が愛おしく、嬉しく、そして幸福なことだと思う。こんなありふれた、取るに足らない夜のひとコマでさえも。
「あー、かなわんなあ」
 そう呟いてから、手元のカップの中のアイスがじわりと溶け始めていることにモクマは気が付く。おっと危ない、溶ける前に食べなくては。チェズレイの言うとおり明日も早いのだから、早めに布団に入った方が良い。
 そう思ってモクマは慌てて幾分柔らかくなったアイスにスプーンを刺し一口分を掬う。それを口に運べば先程までと変わらない味のはずなのに、どこかほんのりと、その甘さが増しているような錯覚さえしてしまったのだった。



(2024年8月25日初出)





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