春光
倫敦の長く厳しい冬も、漸く終わりに近付いてきたようだ。執務室の大きな窓から射し込む日差しの穏やかさは随分と久しぶりのもののように思えた。バンジークスは確認を終えた手元の書類を脇に置き、高く積まれた紙の山からまた次の書類を拾い上げる。あの極秘裁判から数ヶ月。
十年の時を経て公表されたプロフェッサー事件の真相及びそれに伴う首席判事――ヴォルテックス卿の謀略と凶行は、倫敦市民、ひいては英国全体に大きな衝撃をもたらした。そしてヴォルテックス卿が危惧していた通り、英国司法への信頼は大きく揺るがされることとなった。
しかしそれも覚悟していたこと。すべては司法の側が招いた事態であり、受け入れるほかない。そして自分たちで法の信頼を取り戻していくしかないのだ。
英国司法への信頼の失墜、そして抑止力となっていた《死神》が消えたことによって倫敦での犯罪件数は再び右肩上がり……というのが現状だ。当然、検事という職に就いているバンジークスの忙しさも右肩上がりなのであった。
――自分が《死神》でいたほうが、犯罪の抑止となりこの国の治安のためには良かったのではないか。そう頭を掠めることが全くなかったかと言えば嘘になる。しかし、そんなことをちらりとでも零そうものなら、
そんな詮無いことを考えている自分に気付き、どうやら集中力が切れ始めているようだとバンジークスは自分に呆れる。いつの間にか文字を追えていなかった書類から視線を外せば、正面に映るのは、以前には無かった低い机。
彼が正式に弟子となって最初の頃は改めて仕事を教えるという意味でも職務中は常にバンジークスと行動を共にしていたが、優秀な弟子はすっかり一通りの仕事を覚え、さらなる経験を積むため――そして最近では仕事の量自体が増えていることも相まって――彼に一人で現場調査などを任せることも増えてきていた。今日もそうで、今担当している事件についての不審な点が見つかったため、現場の再調査を担当検事代行として彼に行って貰っているところだった。ゆえに今この執務室にいるのはバンジークス一人である。
日本式の座り方の方が落ち着くのだという彼のために置かれた低い机。長い間一人で使ってきたこの広い執務室に、最初は違和感のあったそれがいつの間にか馴染んでいるように思えて、そんな風に思う自分自身を見つけたバンジークスは少し驚く。そしてなんとなく手を止めたまま、バンジークスはぼんやりとその机を眺めた。普段であればそこは、白い服を纏い背筋をぴんと伸ばした彼の背中がある場所だ。
(――……)
と、不意に部屋のドアをコンコンと叩く音がして、バンジークスははっと我に返る。
「失礼します」という凜とした声と共に入ってきたのは、まさにその机の主――バンジークスが今脳裏に描いていた弟子その人だった。そんなわけはないのにまるで思考を言い当てられたようなタイミングにバンジークスは内心でわずかに動揺するが、それは部屋の入口にいた彼には幸運にも気付かれなかったらしい。
「只今戻りました」
そう言って部屋の中に入ってきた亜双義はカツカツとその靴を鳴らし、真っ直ぐにバンジークスの執務机へと歩いてくる。その間にどうにか平静を取り戻したバンジークスが「……御苦労だった。それで」と問うと、亜双義は小さく頷いてから報告を始める。
「バンジークス卿が仰った通り、怪しい痕跡が発見されました。
そう言って亜双義は折り畳まれたメモを取り出し、バンジークスに渡した。亜双義からメモを受け取ったバンジークスはそれをざっと一読し、ふむ、と小さく感嘆の息を吐いた。走り書きのメモとはいえ、書かれている内容は期待通り、いや期待以上の立派な
「――それと、こちらを」
と、メモを見つめるバンジークスの視界に亜双義によってひょいと割り込まれたのは小さなクラフト紙の紙袋だった。バンジークスは思わず顔を上げる。
「? ……これは何だ?」
今日発見された証拠品だろうか。この
「貴君へ、ミス・ワトソンからの贈り物です」
そして亜双義の口から続いたのはまた思わぬ名前だったので、バンジークスはぱちくりと目を瞬かせてしまう。
「ミス・ワトソン?」
アイリス・ワトソン。それはバンジークスの姪――彼女自身はまだそれを知らされていないが――の名前である。突然彼女の名が出てきたことに驚いているバンジークスを見ながら、「ええ」と亜双義は頷く。
「今回の現場、ベーカー街の近くでしょう。帰ろうとしたところでたまたま彼女に会ったんです。貴君が最近とても忙しそうだから心配だ、たまには菓子でも食べて休憩してはどうか……ということで、彼女特製のクッキーの差し入れです」
「……成程」
きれいに折り畳まれた紙袋をがさりと開けてみると、なるほど亜双義の言うとおりまるで洋菓子店で売っているような美味しそうなクッキーが沢山入っていた。ふわりと程良いバターの良い香りがバンジークスの鼻孔をくすぐる。しかし、思っていたよりも量が多いな――と思ったが、亜双義が「オレの分も、と多めに入れてくれたようです」と補足した。
「……確かに、貴君は最近働き詰めだ。彼女の気遣いに甘えて少し休憩を入れましょう」
亜双義はそこで一度言葉を切り、意志の強い彼らしい眼差しでバンジークスを見据える。
「異存ありませんね、バンジークス卿?」
きっとここで断っても、この弟子は強引に事を進めてくるであろうことは経験上分かっていた。そして、姪の心遣いを無碍にするのも忍びない。
忙しいは忙しい、が――少し休憩を入れる程度問題ないだろう。そう思ってバンジークスが「……承知した」と返事をすると、亜双義は満足そうに広角を上げた。
「ではオレは紅茶を淹れてきます」
そう言って、亜双義はくるりと踵を返した。部屋の奥に仕舞ってあるティーセットを取りに行くのだろう。
背筋の伸びた白い背中をバンジークスは見つめる。広く静かな執務室に、自分以外の足音が響く。その音が、バンジークスには心地良く思えた。
彼との関係を、感情を、バンジークスは未だうまく言葉にしきれないままの日々を過ごしている。
自らの手で死地に送った友人の息子。検事としての師と弟子。そしてそれだけではないものも、少しずつ、私と彼の間に生まれつつあるような――そんなことは私の勝手な勘違いだろうか。
過去のことは、忘れることはない。自分への戒めとしても。彼もきっと、忘れることはない。
けれど例えばそう、この執務室に彼の存在がどんどんと増えていくこと。それが当たり前のような顔をした日常になっていくこと。こんなちょっとしたティーブレイクを共に過ごすことを、彼は許すのだということ。
そんな些細なことのひとつひとつが、バンジークスにくすぐったいような思いを連れてくる。
……そんなふうに思うことは、許されるのだろうか。
バンジークスは亜双義に見つからないように、また小さく息を吐く。そんな思いを誤魔化すように、バンジークスは手に持っていたメモを机の上に置き、ばさばさと適当な書類と揃えて纏めた。窓から射し込む陽はあたたかく、しんと冷たかったはずの執務室を柔らかい温度に書き換える。寒い冬はもう終わりなのだと、この部屋に告げているかのようだった。
従バロwebアンソロ 3月8日号寄稿
お題【贈り物】【くすぐったい】