fortitude and games
「バンジークス卿」声をかけると、執務机で睨みつけるように書類を見つめていたバンジークスが顔を上げた。亜双義は机の隅の空いたスペースに淹れたての
バンジークスは流れるような所作でティーカップを手に取り、湯気の立つ紅茶に口をつける。今日のような室内に居ても寒さを感じる日は、紅茶のあたたかさが沁みることだろう。紅茶を飲んだバンジークスがほうと小さく息を吐く。先程までの執務室のしんと張り詰めた空気がその息で解けていくようだった。その様子に亜双義も内心で満足をする。
「……そうだ、アソーギ検事。少しいいだろうか? この調書についてなのだが」
そう言ってバンジークスが再び手に持ったのは、先程まで眉間に皺を寄せて見つめていた書類だ。どうやら何か気になる点でもあるらしい。亜双義はティーカップを乗せていた盆を胸元に抱えたままその書類を覗き込んだ。
癖のある筆記体で書かれたそれは字が小さく、少し読み辛い。だから亜双義は、より顔を近づけてじっとその文字を追った。書類はバンジークスが次に担当する裁判に関する調書だったが、なるほど確かに少し読んだだけでも気になる点が幾つかあるなと亜双義は思う。
「確かに不可解な点が幾つかありますね。後で現場の調査に行きましょう、他に目撃者がいないかの洗い出しも――」
思いついたことを挙げていきながら、亜双義はすぐ横のバンジークスに視線を向ける。
と、彼の頬がわずかに赤らんでいることに気付き、亜双義は目を瞬かせた。
つい数分前までは厳しかったその視線も、どこか心許なく泳いでいる。何だ、と一瞬思ってから、亜双義はその理由にすぐ思い至り思わず口角を上げてしまった。
髪と髪が触れるほど、互いの体温や匂いがわかるほどの距離。ほんの少し身じろぎをすれば、肌同士も触れてしまうだろう。冬の冷たい空気は変わらないはずなのに、急にここだけ室温が上がったかのような錯覚をする。バンジークスの藤色の髪が、亜双義の頬を柔く撫でる。
「……アソーギ検事」とその藤色の髪の持ち主が呼ぶので、「なんでしょう」と亜双義は返した。
「少し、距離を取って貰えるか……」
法廷での堂々たる様子からは想像もできないほど、困ったような小さな声だった。かつて《死神》と呼ばれ恐れられた男とはとても思えぬ弱々しさだ。この男のこんな姿を知っている者は、そう多くはあるまい――そう思って湧き上がるこの感情は、優越感というものだろう。亜双義はもう少しこの感情を味わっていたくなってしまって、師のお願いに対して敢えて
「なぜです?」
「なぜ、とは」
亜双義の言葉は予想外だったのか、あるいは動揺を引きずっている所為か、バンジークスの横顔が戸惑いの色をみせる。バンジークスは一瞬言葉に詰まった後、心を落ち着けるためか小さく息を吸って言葉を続ける。
「……、ここは
「ええ。オレは何もしていませんよ。調書を読んでいただけです」
最初は下心なく、ただ調書を読むためだったことは本当だ。だが、今更これは屁理屈であると自分でも解っている。亜双義の言葉にバンジークスの眉間の皺が深くなるのを見て取った亜双義は、
「失礼。貴君に意識して頂けているのが嬉しくて、少々
「アソーギ……」
はあ、と頭に手をやってバンジークスが息を吐く。その調子づいた言葉すら揶揄いだと思っているのかもしれないが、しかし、これは亜双義の紛れもない本心であった。
亜双義とバンジークスは師弟であると同時に、世間で言うところの
ひどく躊躇った様子をみせながらも、差し出したこの手を取ったのは間違いなく彼自身の意思だ。だというのに、この人はまだふとした瞬間、こうして距離を取ろうとする。言い訳を、逃げ道を残そうとする。――未だこれをオレの一時の気の迷いであると、いつか醒めるとでも思っているのだろう。そしてその時が来たら、きちんと手を離せるように、と。年上ぶって、いい師匠ぶって。
触れられるほどの距離に亜双義が近づいただけで、まるで初心な生娘のように、あんな顔をするくせに。
(……オレの覚悟を甘く見るなよ、バロック・バンジークス)
ずっと憎んで、真実を知っても許すことはできなくて、それでもバロック・バンジークスという検事を評価し師事することを決めた。そして一番近くで時間を過ごすうち、貴方という人間に惹かれる自分を偽ることが出来なくなった。
オレ自身がそれを認めるまでどれほどの葛藤があったかを、一言ではとても言い表せない感情とどんな風に相対してきたかを、貴方はきっと知らない。知らなくて良い。けれど、それら全て呑み込んで手を伸ばすと決めたオレの覚悟は、そんな逃げ腰で躱せるほど甘くないことには早く気付くべきだ。
――このオレの、一度決めたことへの意固地さと執着心の強さは、貴方こそが誰より知っているだろう。
だから、早く貴方も認めると良い。先程のバンジークスの表情を思い出し、亜双義は改めてそう思う。貴方だって、オレと同じように、一度取ったこの手を離すことをもう選べやしないところまできているのだと。
「こちらの件、オレの方で
亜双義は弟子の顔に戻ってバンジークスに言う。バンジークスは「ああ」と頷いて、再び湯気の立つティーカップへ手を伸ばす。平時の執務室の空気に戻りかけたところで、亜双義は「それと」と何食わぬ顔で言葉を続ける。
「続きは、執務室でなければ問題ありませんか?」
亜双義の言葉にぴたりと手を止めたバンジークスは、呆れたように小さく肩を落として亜双義から目を逸らす。
「……、仕事中に関係の無いことを考えるな」
それはあんな反応をした貴方も同じではないか、という指摘は亜双義はしないでおく。亜双義の問いに対して、バンジークスが直接的な否定をしなかったことも。
しかし師の言葉も尤もであったので、亜双義は素直に「ええ。失礼しました」と言って仕事に戻る。この続きについては、この執務室を出てからもう一度打診してみることにしよう、なんて亜双義は内心で考える。
オレの覚悟を貴方が解るまで、貴方が自分自身の感情を認めるまで。その為ならば幾らでも、何度でも、手を尽くすと決めたのだ。
従バロwebアンソロ 2月22日号のお題をお借りしました
お題【執務室(仕事場)】【寒い日】