泡沫は消え去って、今
窓を叩く大きな雨粒を、亜双義は睨みつけるように見ていた。ここしばらく天気が不安定な日が続いていたが、今日は一際だ。昨夜から降り始めた雨は勢いを弱めるどころか強くするばかりで、朝になっても暗い雲が空を覆い続けている。悪天候の影響か、四月だというのに空気もひんやりと肌寒い。数日前にテレビで気象予報士が言っていた、この週末の雨で桜は散ってしまうでしょう――という言葉を思い出し、亜双義は歯噛みする思いだった。この雨の強さなら、その予報もすっかり当たることだろう。亜双義がなおも窓の外を睨んでいると、リビングのソファの方から「アソーギ」と声を掛けられた。
「……そんなに睨みつけても雨は止まんぞ」
「……、知ってます」
よっぽど執心した様子だったからだろう。バンジークスに呆れたように言われ、亜双義は少し恥ずかしさを覚えた。それを誤魔化すように亜双義はようやく窓のそばを離れ、バンジークスの隣の空いたスペースにどかりと腰掛ける。男二人で座っても狭苦しさを感じないゆとりのあるシックな色のソファは、亜双義のこのひとり暮らしの部屋の中でも気に入りの家具のひとつだった。
「今日の雨で桜は散ってしまうと、気象予報士が言っていました」
亜双義はバンジークスに言う。少しぶっきらぼうな口調になってしまったかもしれない。
「そうか」とバンジークスは冷静な声で返す。それはそうだろうと、亜双義に言われるまでもなく予想できていたのだろう。この男はすっかり諦めてしまったのかと、自分ばかりが執着して空回っているようで、また苛立つような座りの悪いような気持ちにさせられる。
「――漸く、〝約束〟を果たせる時が来たと思っていたのに」
ぽつりと呟いた亜双義の言葉に、バンジークスの視線がこちらを向いたのが分かった。
今から遡ること百余年前、
――いつか貴君を案内する、と。そう亜双義の口から零れたのは、彼とこんな他愛のない話をしている時間にどこか浮ついた気分になっていたかもしれなかった。
日本から英国まで、船旅で片道五十日。ちょっと隣町へ行くような気軽さで行ける距離ではとてもないということを亜双義は重々承知していた。だから、いつか来る帰国の日以降の話は、これまで互いにどこか避けていたように思う。
――そうだな。いつか、楽しみにしていよう。
だから、そんな返答がバンジークス卿から返ってきたときは、亜双義は驚きとともに嬉しさを抱いたのだ。
いつかの帰国の日が遂に訪れた頃にも、亜双義はそんな他愛のない約束を忘れていなかった。約束の実現はおろか、師との再会が一生のうちに果たせるのかすら保障はなかったけれど、亜双義は内心でいつかそれを叶えたいという夢に近い目標を胸に抱いていた。結局、前世では仕事の忙しさや時代の奔流などさまざまな事情によって、約束は果たして叶うことはなかったのだけれど。
だからかつての記憶を持って生まれ、そうして昨年遂にかつての師と再会を果たし、しかも今世でも英国で暮らすバンジークスがこの春に仕事の都合で短期間だが日本に来ると聞いたときにはいよいよ約束が果たせる時が来たと亜双義は息巻いてバンジークスを誘ったのだ。勇盟大学近くの桜並木はかつてのものよりは少し小規模にはなったものの、花の美しさに変わりはない。バンジークスのスケジュールのうち空いた一日を亜双義が貰って、花見をしようと決めていた。
しかし、現実はこうである。まだ止まぬ雨の音は、部屋の中に只々落ちるばかり。亜双義は一人勝手に息巻いていただけに落胆を隠せないでいると、バンジークスが再び口を開いた。
「確かに、今日は残念だったが……サクラは今年だけというわけではないだろう」
亜双義はゆっくりと顔を上げ、バンジークスを見る。てっきり呆れ顔を向けられているとばかり思っていたが、バンジークスは穏やかな表情で――
「何十日と船に乗ってやっと海を越える時代ではもうない。英国から日本に来るのもすぐだ」
あの頃からは想像もつかない時代だな、だなんてバンジークスは呟くように言う。
「来年のこの季節にまた、今度は休暇でも取って日本に来よう。――その時こそ、ぜひ案内してくれ。ミスター・アソーギ」
その言葉に亜双義は、己の体温がかっと上がったように思った。紛れもない喜びで、だ。
確かに、桜は今年だけではない。前世からの約束を果たす
けれど、今はそうではない。そうではないのだ。世界のどこにいようと連絡を取り合えるし、その気になればすぐに海だって越えられる。
だから、いつかの約束を、もう埒もない夢想にしなくたっていいのだと。亜双義は今、改めて実感させられたのだ。
亜双義はふっと目を細めて、バンジークスに「喜んで」と返事をする。それを聞いたバンジークスの口許もまた、亜双義と同じように柔らかに緩んだのが分かった。