望むなら、その心深くに
ずっと見ていたそれを、こんなに近くで見つめるのは初めてのことだったかもしれない。かつて《死神》と呼ばれ恐れられた彼の象徴のようなそれ――額に走る×印の傷痕を、亜双義は至近距離で見下ろした。ふと視界に入ったそれがいやに心に留まって、亜双義はじっとそれを見つめる。亜双義は己の感情を自分でもうまく言葉にできないまま、そっとその場所に手を伸ばしてみる。親指の腹で撫でるように触れると、僅かに盛り上がった肌の感触とその下に在る血の通った今の彼の体温が、その傷の存在を見つめるだけの時よりもずっと生々しく亜双義に伝えた。
これは彼が生まれ持ったものではなく、《死神》時代に受けた度重なる襲撃のひとつでつけられた傷である、と聞いたことがある。本人はあまり語りたがらないが、倫敦で《死神》の名を知る者にとっては周知の話であったから、当然のごとく亜双義の耳にも届いていた。
普段接する時には今更気にすることもない。しかしこうして間近で見て、この手で直に触れれば、この傷の痛々しさに改めて気付かされるようだった。亜双義は己の肚の底から湧き上がる昏い感情を自覚し、少しの間ただその傷を見つめてしまう。
彼は日常のようにこのような襲撃に晒されてきたのだと、この男がこの国で十年背負い続けてきたものの一端を改めて突きつけられたように思った。それは彼へのとても一言では言い表せないさまざまな思いが時を経て変化し、彼というひとりの男を見つめることができるようになった今だからこそ、より鮮明に感じるのかもしれなかった。
そう思えば、亜双義はこの傷をつけたどこの誰とも知れない輩への煮えるような怒りを覚えた。傷をつけたことそれ自体以上に、こんなところに傷をつける悪趣味さに反吐が出た。これはこの男を殺すための傷ではない。殺すつもりであれば、わざわざ額にこんな器用な傷をつけるより、もっと致命傷になり得る場所に刃を向けるだろう。だから、この傷はある種の見せしめのつもりなのだろうと容易に想像ができた。肉体以上に、心を傷つける為の。
――お前はこのように傷をつけられて然るべき《死神》なのだ、と。
きっとこの傷をつけた誰かは、得意になっているに違いなかった。この男に一生消えぬ傷を付けたことを。……悪趣味も極まった犯行だ、と亜双義は奥歯を噛み締め、ぐっと強く眉根を寄せる。
「……、アソーギ」
バンジークスは困ったような声でそう呼ぶ。急に黙り込んで、壊れ物に触れるように傷痕に手を伸ばした亜双義を
亜双義は短く息を吐いた。彼の額に触れていた指を滑らせ、その代わりのように先程まで指で触れていたその場所に今度は唇で触れた。ちょうど×印が交差する場所へ柔い口付けを恭しく落とし、そして離れる。その一連の動作をするうち、亜双義は己の波立った感情が幾分静まったような気がした。そしてそのまま脇腹に触れていた手をシャツ越しに滑らせると、バンジークスが僅かに息を詰めたのが解った。
亜双義は彼の開いたシャツの胸元に顔を埋めて、首筋に口付けをする。再開された愛撫に、バンジークスが体を小さく震わせ呼吸を浅くした。亜双義が触れたひとつひとつに反応を返してくれる彼の姿に、亜双義の心の内、自分でも制御のつかない感情の底の部分がじわりと満たされるように思えた。そんな自分に呆れる思いを抱きつつも、しかしこんな傷ひとつで自慢げにしているであろう誰かを亜双義は内心で一笑に付す。
もう彼自身はこんな傷を気にしてはいない、彼の心に何も残せていやしない。先程はそれに苛立ちを覚えたが、そう気がつけば亜双義は溜飲が下がる。彼が今心を揺らしているのは、いつかこの傷をつけた名も知らぬ誰かでは無く、目の前の亜双義だ。
――オレは、傷痕などという暴力的で浅はかなやり方で、この男に刻みつけようなどと思いはしない。
もっと深く、この男の心に一生オレという存在が残るように。それは恋だとか愛だとかいう綺麗な言葉で表せるほど単純なものでは無かった。ただ、例えば言葉にするのならば、この男がオレにとって一生忘れ得ぬ男であるからこそ、この男にとってもそうであってほしいだなんて欲求だ。
(……オレだって十分に独り善がりだ)
そう自嘲しながら、亜双義はバンジークスの首元を甘く噛む。痕が残らない強さにしたのは、あの傷を残した誰かに対する子供じみた反抗心でもあったのかもしれない。
バンジークスの手が伸びて、亜双義の頬をなぞる。その手が壊れ物を扱うみたいに優しいものであったから、この思いが独り善がりではないというように、赦されたかのように、亜双義はそう都合良く錯覚をしてしまうのだ。