悪い夢
随分と深く眠っていたように思った。小さな窓から零れる朝陽に意識が浮上し、朝だ、起きねばと反射的に思い半身を起こす。と、ずきりと頭が鈍く痛んで思わず額に手をやった。痛みはその一瞬だけで、自らの身体を宥めるようにゆっくりと息を吐けば起き抜けの頭も霧が次第に晴れるようにクリアになってくる。しかしまだ、どうにも頭が重いような感覚があった。だがそれも仕方があるまい。――長い記憶喪失を経て、昨日、全ての記憶を取り戻したばかりなのだから。そう思って、取り戻した記憶をひとつひとつ確認するように頭の中で呟く。
オレは、亜双義一真。二十三歳……いや、今は二十四歳か。帝都勇盟大学の学生であり、司法留学生として渡英することが決まっていた。しかしその道中、どうやら不幸な事故に巻き込まれたらしく記憶を失った。内なる《声》に導かれるようにしてどうにか英国に辿り着き、今に至る。英国に留学することを熱望したのは、この国の司法を変えたいという思い、そして。
亜双義は無意識に眉間に皺を寄せていた。静かに息を吐く。ひとりきりのこの小さな宿の部屋の中、どうやら他の客もまだ起きていないようで静かだ。自分の吐いた息の音がいやに大きく聞こえる。
昨日まで間借りしていたバンジークスの
あの男。――バロック・バンジークス。
その名を声に出さず唇でなぞった。眉間の皺が深くなる。心の内で熱く煮える感情が何であるかを亜双義は分かっていた。
十年追い続けた、父上の仇。
遂に辿り着いた。昨日目にした、英国で極悪人の烙印を押された挙げ句に見世物になっていた蝋人形――仮面をつけていたので素顔は晒されては居ないようだったが――のことを思い出して亜双義はまた心の内の煮える思いが強くなる。そして、父上をあのような姿に追いやったのは。
「……」
亜双義は目を閉じる。そうして思い出されるのは、昨日見聞きしたもの、敬愛するかつての父上の姿、親友や世話になった御琴羽家と大日本帝国で過ごしてきた日々、それから――英国に辿り着き、ヴォルテックス卿の命であの男の従者になってからの日々のこと。三ヶ月間、すぐ側で見続けてきた彼の姿。
執務室での静かな横顔。現場検証時の真剣な瞳。法廷で力強く追求をする声。
閉じた目をわずかに開く。瞼の裏に描いた彼の姿は消え、そこには眩いばかりの朝陽を反射して光る白い毛布があるだけだった。
(…………、悪い夢だ)
ふ、とそう思ってしまった自分に唖然とした。
ずっとこの為に生きてきた。その為ならばどんな犠牲でも払うつもりだった。それほど覚悟をしていたつもりだったのに、そんな甘ったるいことをほんの一瞬でも思ってしまった己が信じられない。
亜双義は唇を強く引き結ぶ。
そして一瞬過ってしまった自分のそんな思いを振り払おうとするようにベッドから降りた。ぴんと背筋を伸ばし二本の足で立ち上がれば、亜双義の目にはもう先程までの揺らぎや迷いは一切なくなっていた。
従バロwebアンソロ 2月1日号のお題をお借りしました
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