移ろいゆく

 数年ぶりに見た祖国の桜は、相変わらず見事というほかなかった。特に、勇盟大学近くの桜並木は殊更だ。「ちょうど見頃だな。天気が良くてよかった」と成歩堂が亜双義とともに桜を見上げてのんびりと笑う。良い意味で気の抜ける親友の笑顔を横目で見て、亜双義は「そうだな」と頷いた。亜双義が数年間の大英帝国への留学から帰国して、初めて迎える春だった。
 花見をしよう、と提案したのは成歩堂からだった。本当は御琴羽法務助士も一緒にどうかと誘っていたのだが、今日は友人との先約があるとのことで今日は成歩堂と二人での花見となった。大日本帝国で改めて検事としての道を歩み始めた亜双義も、まだまだ人材が足りているとは言えぬ弁護士の世界で闘う成歩堂も忙しい身だ。日々舞い込む様々な事件や発展途上のこの国の法に向き合い、目まぐるしい毎日を送る中で、美しい桜並木は亜双義の心をほっと柔らかく解いてくれるようだった。それはきっと成歩堂にとってもそうだろうとその横顔から窺い知ることが出来た。
 ――桜を見上げながらいま亜双義の頭に浮かぶのは、この光景への感嘆と、そして。
「亜双義」
 そう呼ばれ、亜双義ははっと我に返る。「何だ? 成歩堂」と亜双義が成歩堂の方を向くと、成歩堂はぴっと道の向こうを指差す。法廷では真実を追究するために指されるその指先を視線で辿れば、どうやら今それはこじんまりとした甘味屋に向けられているようだった。
「あそこに新しくできた甘味屋が美味しいんだ。行かないか?」
 成歩堂の提案を断る理由もない。亜双義は快諾し、成歩堂とともにその甘味屋へと足を向けた。

 外見よりも幾分ゆったりとした広さのある店内は空いていて、亜双義と成歩堂はちょうど桜並木が見渡せる窓際の席に通された。すぐ近くで見上げる桜も美しいが、こうしてのんびりと店の中から舞い散る桜を眺めるのもまた一興だった。
「この店、オレたちが大英帝国に行く前にはなかったよな」
 亜双義が言えば、成歩堂は「去年できたみたいなんだ」と言う。昨年できたばかりならば、亜双義の記憶に無いのも納得だ。注文して間もなく出てきた、成歩堂のお薦めだという団子は確かに絶品だった。亜双義が美味いと言うと、薦めた成歩堂は自分が作ったわけでもないのに得意げに「だろ?」と鼻を高くしていた。
「随分と見惚れていたみたいだったな、桜に」
 成歩堂に言われたのは、亜双義がまたふと窓の外の桜に目を向けていた時だった。亜双義が少し驚いて成歩堂に視線を向けると、「ほら、今も」とそんな亜双義を見て成歩堂はおどけるように言う。
「やっぱり久しぶりに見る桜は感慨深いか?」
 亜双義は成歩堂の言葉に、一瞬どう返事をすべきか迷った。それも、理由のひとつではある。しかし、それだけではないということを亜双義は自覚していた。
「ああ、それもある。が――」
「が?」
 成歩堂が首を傾げる。その仕草が可笑しくて亜双義は小さく口元で笑ってから、言葉を続けた。
「……大英帝国に居た頃、バンジークス卿と桜の話をしたことがある。勇盟大学近くの桜並木は見事なものだと。あの男も興味を示してな」
 亜双義はそこで一度言葉を切り、少しだけ遠くを見つめた。その話をした日はもう数ヵ月前だけれど、まるで昨日のことのように思い出すことができた。
「いつか、案内すると。そんな約束をした」
 この桜並木を見たときに、あの人はどんな表情をするだろう。自分と同じように、その美しさに感動するだろうか。その時には、ここの甘味屋にも立ち寄ってもらうのもいいかもしれない。ミス・アイリスが作る茶菓子もよく食べていたから甘いものも嫌いではあるまい。日本の甘味の味を彼はまだ知らないだろう。
 美しいものを見て、美味いものを食べて、ここには居ない師の存在を思い出す。そんな夢想をする自分に呆れる。しかし夢想する時間を心地良く思ってしまうのだから始末におけなかった。来るかも解らない『いつか』――彼はいつまで覚えているだろうか。実現するわけも無い与太話だと切り捨てて忘れてしまっただろうか。だが、それでも、オレは。
 その丸い目を驚きにもっと丸くした成歩堂は、ぱちくりと目を瞬かせた後に、ふっと眉を下げて笑う。
「……おまえ、変わったな」
 柔らかい静音で向けられた、なんだか懐かしいその言葉に亜双義も目を細める。
「そうだな」
 親友の言葉にそう肯定する気分は、存外、悪くないものだった。



(2025年4月19日初出)





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