彼方に消ゆ

 大きな汽笛の音が空気を揺らした。バンジークスが思わず振り返ると、丁度蒸気船が港を出るところであった。大きな船だ。小さな波を起こしながら重たげな船体を動かしていくそれを見て、どこへ向かうのだろうとほんの一瞬興味を惹かれ、しかし自分には関係の無いことだとすぐにバンジークスは考えることを止めた。
「大きな船ですね」
 隣で同じようにそちらへ視線を向けていた亜双義が言う。先程まで熱心にメモを取っていた紙を懐に仕舞って、亜双義はバンジークスを見上げた。バンジークスと亜双義は現在担当している事件の捜査の為にこの港を訪れていたが、ここで調べるべきことはあらかた終わったところだった。収穫も多くあり、だからこそ周辺の捜査と警備にあたっている警視庁ヤードの刑事や自分たちの間の空気も今は少しだけほっと緩んでいる。いつもは火の玉のように現場検証だ聞き込みだと駆け回る亜双義の表情も、ここまでの捜査が一段落して少しリラックスしているように見えた。
「港の匂いも久しぶりだ。何だか懐かしいな」
 亜双義の言葉にバンジークスは一瞬考えて、ああと合点する。
「貴公は、港で働いていた時期があったのだったな」
「よく覚えているな。ああ、オレが記憶を失っていた時の話だ。英国に辿り着くために港と港を渡り歩いて日銭を稼いでいた」
 そう言ってから亜双義は、ふんと鼻を鳴らして笑った。
「今にして考えてみれば随分な長旅だったな。日本から英国まで最短で約五十日、その何倍もの時間をかけて……」
 我ながらいい根性だ、と亜双義は海の向こうを見つめて笑い飛ばす。そんな亜双義につられるようにして、バンジークスも再び海の向こうを見つめた。音を立てて出航した船の姿は港を離れ、ゆっくりとだが、確実に遠ざかっていく。薄雲の向こうで傾いた陽が、空と海を淡い橙色に染めていた。
(そうだったな。そんなに遠くから、其方は……)
 今更言われなくとも、頭では分かっていた。しかし改めてそう思いを馳せるとバンジークスは胸の奥の方がつかえるような思いを抱いた。バンジークスが訪れたことのない遠い遠い国、日本。そこから遙々やってきた彼は今当たり前のようにバンジークスの隣に居て、そして、――いつかは国に帰っていく。
 亜双義がバンジークスのもとで検事としての勉強を始めてから数年。英国の司法や検事の仕事をめきめきと吸収した彼の実力は、検事局の中でも少しずつだが認める者も増え、今や彼が主担当となり扱う事件も増えてきた。今の亜双義は、バンジークスの目から見ても非常に優秀な検事だ。それは師であるバンジークスにとって喜ばしく誇らしいことであるのに間違いは無い。だが、年月が経つにつれ、彼が独り立ちできるほどの実力をつけるにつれ、バンジークスは期限タイムリミットを意識せずにはいられなくなりつつあった。
 彼は日本の司法の発展の為に送り出された留学生であり、彼自身もそれを己の使命としてこの地で学んでいる。だから彼が一人前になり国に帰る日が来ることも、師として喜ばしいことであるはずなのに。
 亜双義よりも早く、数年前に帰国していったバンジークスにとっても〝友人〟である彼らの帰国の時も寂しさや名残惜しいような思いは確かにあった。だが今感じているこの思いはあの時に感じていたものとは少し違う。
 海の向こうから吹いてきた、温く少しべたついた潮風がバンジークスの髪を揺らす。船が海の上を進み、少しずつ遠ざかっていくさまを見ながら、こんなことを思っては勝手に苦しくなる己の浅ましさを恥じた。
 と、手の甲にこんと何かがぶつけられる。バンジークスははっとして視線を向けると、亜双義がこちらをじっと見上げていた。どうやらぶつけられたのは亜双義の手だったらしい。唇を引き結んだ亜双義は、バンジークスと目が合ったことを確認してからすうと息を吸う。
「……オレは、此処に居ますよ」
 亜双義の意志の強い、鋭い瞳が射貫くようにバンジークスを見つめる。先程ぶつけられた手の甲は、触れそうで触れない距離を未だ保っていた。一瞬触れた手の甲に、まだ彼の体温の名残が残っている。
 バンジークスはその深い色の瞳を見つめ、先程の胸のつかえがほんのわずかに柔らいだような心地になる。まだ、この胸の苦しさは消えたわけではないけれど。
「……ああ。そうだな」
 すまない、ぼんやりしていた。バンジークスがそう言うと、亜双義はわざとらしく溜息を吐いてみせた。「貴君は最近ぼんやりとしすぎでは? 先日だって書類の管理が――」だのなんだの小言を言ってくる彼はすっかりいつもの調子だ。いつの間にかバンジークスの日常になったそれが、今日も日常であることにどこかでほっとしている自分がいた。
「検事局に戻りましょうか、バンジークス卿」
 亜双義の言葉にバンジークスは頷く。先頭を切って歩き始める彼に気付かれないように、バンジークスは視線だけ動かしてちらりと先程の船の方を見た。船はもう随分と遠ざかって、夕焼けの光に紛れて光る。あれほど大きかったはずなのにずいぶんと遠く小さくなったそれをバンジークスはほんの一瞬視界に入れた後、視線を戻し歩き始めた。



(2025年7月21日初出)





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