優しい泥濘

 吐精後の倦怠感と、それを覆いつくすような快楽の余韻の中に揺蕩う。はあ、と大きく吐いた息は自分のものではないように思うくらい熱っぽく色を纏っていた。亜双義は呼吸を整えようと、意識して吐いた息と同じくらい大きく息を吸う。余すところなく与えられた熱が心地よく、自分のそれと共鳴するようで、上がった体温はまだ引ききらない。
 自分の中から彼が出ていくのを感じて、咄嗟に寂しいように思った。そんな自分が可笑しかった。しかし他の誰に対してもこんな感情にはならない。なるはずがない。亜双義はそう思っていた。自分の上に覆い被さっていたバンジークスの手が亜双義の頭をぎこちない手で撫でる。その大きな手に触れられることすら今は心地が良かった。
「大丈夫か」と問われるので亜双義は小さく笑った。この男は、亜双義に対して妙なところで過保護なきらいがある。大丈夫でなかったらそもそも自分から拒んでいる。「気持ちよかったですよ」と素直な気持ちとして答えると、バンジークスの表情がわずかに緩む。しかめ面ばかりのように見える彼の、そのほんの小さな機微を見つけるのが亜双義は好きだった。
 ふ、とその瞳の奥に揺らぐ熱を見た。それは先程までのものと似ているようで少し違う。けれど亜双義はそれを知っている。こういう表情をしている時の彼は――。
 亜双義はバンジークスに手を伸ばし、その頬に触れる。薄くて硬い肌。けれどその奥に流れる血液の温度はあたたかい。亜双義はバンジークスの頬を、さきほど彼が自分にしてくれたように軽く撫で、そして目を合わせて彼に言う。
「オレに抱かれたくなりましたか」
 オレの気持ちよさそうな顔を見て、欲情して、そしてオレに同じようにされている時のことを思い出した? 亜双義はじっと彼を見つめる。バンジークスは動揺して視線を泳がせ、その頬が熱を持つ。答えなくともその答えは明らかだ。亜双義は、一度落ち着きかけた自分の中の熱がふたたび燃え始めるのが分かる。
 もうだいぶ体も動くようになってきた。亜双義は体を起こし、そして彼を引き寄せて素早くポジションを交換した。抵抗もなくベッドに沈んだバンジークスは、先程までとは逆で亜双義に見下ろされる格好だ。
 もう亜双義にすべて見抜かれていると分かったバンジークスは、観念したように息を吐く。片手で顔を隠し目を逸らす。そんなことをしても何の抵抗にもならないと分かりつつ、落ち着いてはいられないのだろう。貴族という身分に生まれお上品な生き方をしてきた彼は、性に対する欲望を曝け出すことを非常に躊躇う傾向にある。彼が主導権を握るときのセックスも、亜双義が茶々を入れない限りいつも教科書のような丁寧さだ。
「……、はしたなくてすまない。キミにこんな姿を見せるなど……」
 普段のセックスも大抵一度で終えようとする彼にとって、亜双義を抱いた直後に今度は亜双義に抱かれたいと縋るなど、どうしようもなくはしたなくて恥ずかしいことなのだろう。
 しかし頬を染め、それほどまでに葛藤し恥じらってなお、亜双義を欲しがる気持ちを誤魔化すことのできないこの年上の師が、亜双義には愛おしくて可愛らしく思えて仕方がなかった。
「はしたない? 構いませんよ。寧ろ、そんな姿をオレ以外の誰に見せるというのだ」
 そう言って亜双義はすうと目を細め、バンジークスを見つめた。亜双義は高揚に乾いた唇を一度舐め、そして再び口を開く。
「オレを抱くのも、オレに抱かれるのも、生涯貴君一人だけなのだから。バロック・バンジークス」
 彼の中に自分の存在が欲しいと思った。特別に、唯一になりたいと願ってしまった。それが叶えば、もっと触れたいし触れられたくなった。自分が見られる彼の表情を、すべて見たいと欲張った。際限がなくて、けれどオレたちはそれを欲しがった。それはとても恐ろしくて、しかし幸福だとも思うのは陶酔のせいか。バンジークスはきっとそれに恐怖している。亜双義もその気持ちは分からないではない。
 だが、亜双義の言葉に、輪郭を確かめるように肌に触れた指に、バンジークスの瞳は確かに歓喜の色を湛えていた。それに亜双義は充足を抱く。だから亜双義はその気持ちのまま、今夜バンジークスにされたような甘い口付けを、今度は彼に返してやる。下った指先が腰に触れるとバンジークスの体はぴくりと震える。その反応に亜双義は口角を上げる。まだ夜は長くて、お行儀良く寝るには勿体無い時間であった。



(2025年8月9日初出)





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