dim glow

 窓の外は未だ夜の静かな暗闇に包まれていた。ささやかな月明かりだけが部屋の中へ零れ落ち、淡く部屋の中の輪郭を浮かび上がらせている。薄く目を開けたバンジークスは、まだ眠気との間で揺蕩う意識の中でわずかな肌寒さと喉の渇きを覚えた。夏といえど、夜になれば気温が下がるのが倫敦ロンドンである。
 ただこの喉の渇きの原因は、肌寒い夜の空気が原因ではないとバンジークスはよく分かっていた。ほんの数時間前まで、自分でも初めて聞くような声を、この寝台ベッドの上で上げさせられていた所為だ。
(…………、水)
 取り敢えず、水を飲みたいと思った。バンジークスはまだ少し気怠さの残る体をゆっくりと起き上がらせる。その際、腰やあらぬところが鈍く痛んだことにはバンジークスは気が付かない振りをした。
 隣に眠る彼を起こさないよう細心の注意を払いながら、バンジークスは寝台を降りる。と、バンジークスがキッチンに向かおうとするよりも早く、その左手首をぱしりと強い力で捕まれた。驚いてバンジークスは振り返る。この部屋の中に居るのは、自分ともう一人しかいない。こんな強い力でバンジークスに触れる者も、この屋敷の中では、彼しか。
 振り返った先の亜双義は、寝台の上に寝たままその手を伸ばしバンジークスの手首を掴んでいた。つい先程まで寝息を立てていたはずだったが、薄暗闇の中でも分かるほど彼の瞳ははっきりと開かれ、爛々とひかっている。夜の闇よりも深い色をした黒い目が、その手の力よりも強く、じっとバンジークスを射貫くように見つめていた。
「……、何処へ?」
 寝起きだからだろうか、彼の声も僅かに掠れていた。端的なその言葉に、亜双義は非難の色を暗に滲ませていた。亜双義が眠っている間に、この寝台を黙って抜け出そうとしたバンジークスへの非難だ。
 亜双義の家の〝家紋〟――家に代々伝わる紋章だという――は蛇をモチーフにしていると亜双義が以前言っていたことを、こんな時にバンジークスはふと思い出した。今目の前に居る彼のさまが、狙った獲物を逃さぬよう絡みつく蛇の姿をふと想起させたからである。今この瞬間に、そんな埒もないことを呑気に考えていると知られたら、目の前の彼はきっと怒るだろう。
 今、亜双義が何を考え、どうしてバンジークスを非難しているのか、バンジークスには想像がついた。そしてそれが、彼の杞憂であろうこともバンジークスは分かっていた。

 今夜、バンジークスと亜双義は一線を越えた。師弟としての関係、倫敦の法曹界の〝闇〟を振り払う同志としての関係、友人の息子に対する擬似的な保護者のような関係、或いは――。バンジークスと亜双義の間の関係は非常に複雑で、形容するには様々な言葉が必要だった。しかしその言葉のどれにも当てはめられない関係がこの夜に加わったのだった。
 簡単に言えば、肌を重ねた。これまで自分たちの間で愛の言葉などを囁きあったことは一度も無かったが、ふと距離が近づいて、試すように唇に触れてきたのは亜双義の方からだった。その唇が触れるまでも普段の彼からは想像ができないほどゆっくりとした仕草で、彼がバンジークスに拒む好機チャンスを与えてくれていたことが分かった。しかしバンジークスはその好機を敢えて見逃した。寧ろ、一度知ってしまった熱が離されるのがもどかしく、二度目の口付けはバンジークスから手を伸ばして引き寄せた。そこから、シーツの海に溺れるまではあっという間だった。
 いつからか。遅かれ早かれ、彼とこうなるような気がしていた。
 彼と多くの時間を共に過ごすうち、自分の中に生まれた熱にも、彼から向けられる眼差しに灯った熱にも内心でずっと気が付いていた。あとは境界を踏み越える勇気を、踏み越えた先の関係を受け入れる覚悟を自分たちが持てるかどうかだけだった。

 静かに燃えるような――きっともうその覚悟を決めている彼の瞳を、バンジークスは見つめ返す。他に生きものの気配のない、静かなくらい部屋の中で、捕まれた手首から伝わる亜双義の体温がひどく鮮明だった。つい数刻前まで、この温度がバンジークスの体のあらゆるところに触れていたから尚更にそう感じるのかもしれなかった。
 バンジークスの一挙手一投足を見逃すまいとするように、亜双義はじっとバンジークスを見つめ続ける。そんな亜双義から目を逸らさず、バンジークスはゆっくりと、宥めるような口調で彼に言った。
「……水を飲みに行くだけだ。喉が渇いたから」
 バンジークスの言葉に、釣り上がっていた亜双義の眉の角度が僅かに緩む。バンジークスは左手首を掴む亜双義の手を包むように自身の右手で触れて、バンジークスを拘束する指のひとつひとつをそっと剥がしていく。
「貴公が心配せずとも、ちゃんと戻ってくる」
 そう口にすれば、亜双義は言い当てられた動揺からかぐっと唇を引き結んだ。反比例するように手の力が緩み、手首を拘束する指は簡単に剥がれた。ずっと捕まれているのも困ってしまうが、素肌に強く触れていた温度が離れることに僅かな寂しさをバンジークスは覚えてしまった。けれどそれを彼に悟られないよう、表情には出さずに亜双義を見下ろす。自分のことでこんなふうに簡単に心を揺らす年若い優秀な弟子を、バンジークスはどうしようもなく愛おしく思った。
 きっと彼は、バンジークスがこの夜を無かったことにしようとすることを危惧している。だから、彼が眠っている間に寝台を抜け出そうとしたバンジークスを引き留めた。バンジークスが逃げると思ったのだろう。
 彼の考えはバンジークスにも理解できた。以前の私であればそうしたかもしれないと思うからだ。こうなるべきではなかったと、変化する関係に正面から向き合うことを恐れ、互いに忘れたふりをして誤魔化そうなどと考えたかもしれない。
 その選択に全く惹かれないわけではない。こうなるべきではなかったのかもしれない、と今この瞬間も心の何処かで思っている。
 だが、彼から向けられる熱が嬉しかった。彼が欲しい気持ちに抗えなかった。だから彼の手を引いたのは間違いなく自分の意思だ。自分の心が選んだ選択だった。あの瞬間の勇気と覚悟をもって、自分はそれに向き合うことを決めた。――もう彼から逃げない。こんなふうに思う自分に出会えたのは、目の前に居る何事にも真っ直ぐな弟子に影響を受けたからかもしれなかった。
 バンジークスは離れたその手を追いかけるように自分から指を絡ませた。それに驚いたように、亜双義の手がぴくりと震える。
「……今夜のことを、私は忘れるつもりはない」
 バンジークスが言うと、亜双義はその目を丸く見開いた。
「明日の朝にまた話そう、アソーギ。……まだ夜も明けていない。私は逃げないから、もう少し眠っていなさい」
 亜双義は信じられないといった様子で何度も瞬きをして、それから「……はい」と小さな声で承諾した。どうやら信じて貰えたらしい。バンジークスが手を離すと、亜双義の手は大人しくシーツの上に置かれる。おやすみなさいの言葉の代わりにバンジークスが亜双義の髪をそっと撫でると、先程までバンジークスを鋭く見つめていたその目尻が僅かに甘く蕩ける。初めて見る彼の表情は、きっと今夜一度きりのものではなくなる。バンジークスはそっと彼を見つめた後、できるだけ足音を立てないようにして寝台を離れた。



(2025年8月31日初出)





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