夜風
バーの外に出ると、途端にむき出しの顔に冷たい冬の風が刺さるように吹き付ける。御剣は思わず服の隙間から風が入らないようにと最近買ったばかりのワイン色のコートの合わせを軽く手繰った。隣を見れば、薄っぺらいグレーのコートを着た成歩堂も寒さに体を縮こまらせていた。冬の夜風の冷たさというのは容赦がない。「……もう少し中で待っていればよかったか」
御剣が言うと、成歩堂は今度は寒さとは違う意味をもって肩をすくめる。
「いいよ。みぬきももうすぐ来るだろうし」
「そうか」
「そう」
成歩堂の娘――正確には数年前に成歩堂が養子に迎えたみぬきは、いつも出演しているバーでのマジックショーを先程終えたところだ。荷物をまとめたら、すぐ横にある従業員用の通用口から出てくることだろう。
御剣もみぬきのショーを見に来るのは初めてではない。何度かこうして、成歩堂と一緒に彼女のショーを見て、途中まで一緒に帰るといったこともしている。最近かけ始めた眼鏡が少し下がってきていたのを、御剣は指で軽く上げてから再び口を開いた。
「それにしても、みぬきくんのステージは今日もすごかったな。あんなに大きなセットが一瞬にして消えるとは。私が前に見たときよりも腕を上げただろう」
「はは、あれずっと練習してたからなあ。タネは何度見ても見破れなかったけど。後でみぬきにも直接言ってやってよ、喜ぶから」
「うム、そうだな。感想はみぬきくんに直接伝えることとしよう」
御剣の言葉に、成歩堂は「うん」と頷いてふっと笑う。その柔らかい表情を御剣は見つめた。
咄嗟に何も返せなくて、御剣は黙り込む。二人の間に静寂が落ちる。その間が少し落ち着かなくて、御剣は音を立てずに小さな息を吐き出した。自分の吐いた息が冬の冷たい空気をわずかに白く染める。それはじりじりと小さな音を立てる切れかけの街灯の光に照らされてから、そしてゆっくりと消えていった。
自分が嬉しいのか、それとも苦しいのか、御剣には分からなかった。
それでも、成歩堂がまたこんなふうに笑えるようになってよかったと思う気持ちは確かなものだった。
成歩堂が弁護士資格を失ったのは、早いもので今から数年前の話になる。
『証拠品のねつ造』。それが成歩堂にかけられた疑いであり、弁護士資格剥奪の処分の理由だった。
御剣は成歩堂龍一という人間を少なからず知っているつもりだ。あの男が、いくら依頼人の無罪を勝ち取るためとはいえ、そんな手段に手を染めるとは到底信じられなかった。成歩堂は何者かに罠にはめられたのだ、と御剣はそう主張したし今でもそう思っている。
しかし、証拠を見つけることはできなかった。
法廷では証拠が全て。その言葉を、検事として生きてきた御剣は誰よりもよく分かっていた。証拠なき主張は意味をもたない。だからこそ、成歩堂の疑いは晴らせぬまま、成歩堂は法廷から追放されてしまったのだ。
それでも独自に調査を続け食い下がろうとも御剣は思った。けれどそれもできなかったのは、他でもない成歩堂自身がそれを望まなかったからだ。
当時の成歩堂はひどく傷ついていた。人前では心配をかけまいと気丈に振る舞おうとしていたが、その瞳の奥に苦しみや拒絶が見えた。あの時の御剣はそれでも成歩堂を立ち上がらせたいと思ったが、その手は成歩堂によって振り払われた。
どんな逆境でも立ち上がり、不当に対しては異議を申し立て、どんなに苦しくても戦い続けること。それはきっと正しい。御剣はそうやってここまで歩いてきた人間だ。
けれどそれが全ての人にとっての最適解とは限らない。今は放っておいてくれ、と言う相手に無理やりそれを強制することは正しいのか、御剣には分からなくなってしまったのだ。
そうして、数年。成歩堂はみぬきという娘を育てながら、〝ピアニスト〟という新たな職――実態は賭博ではないポーカーで料理店の客引きをするという、ある意味ショーマンのような仕事で生計を立てるようになった。
成歩堂が法曹界を離れても御剣との友人としての付き合いは今でも続いており、時間が合うときに食事をしたり、こうしてみぬきのショーに誘われ一緒に見に行ったりもする。昔は『法廷に行けば会える』ということもあってあえて個人的に予定を合わせて会うなんてことも少なかったが、成歩堂が今の生活になってからの方が昔よりもプライベートで会う機会が増えたのはなんだか皮肉なものだった。
成歩堂は法曹界自体を拒絶したわけではないようで、生活の足しになればというところもあって法曹関係の細々とした仕事を御剣が持ちかければ成歩堂は特に断ることなく受けてくれる。むしろ『仕事がもらえるのは助かるよ、結構生活厳しいからさあ』なんて笑い飛ばす調子だ。とにかく、成歩堂が嫌がってはいない様子であることに御剣はほっとしていた。物心ついた頃から法曹界だけを見てきて、この世界しか知らない御剣が成歩堂にできることはこのくらいしか思いつけなかった。
何よりも、御剣は弁護士としての成歩堂龍一を信頼していた。ハッタリが多いとはいえ、成歩堂は実力はある弁護士だった。信頼できる人間に仕事を任せられるのは御剣にとってもありがたかった。
けれどどうしても、そのたびに御剣は思ってしまった。
成歩堂に一番似合う場所は法廷であると。
(――だが、あの場所に立つ人間には、相当な覚悟が必要だ)
同時に、御剣はそうも思う。だからこそ、こうなってからの成歩堂にずっとその言葉だけは口にできなかった。
今も日々法廷で戦い続けている自分こそが誰よりも知っている。
命をかけて立つ場所。それが自分たちにとっての法廷だ。
キミに似合うのは法廷だ。そう思うたびに、あの頃の傷ついた成歩堂の表情を思い出してその言葉は今に至るまで一度も声になることはなかった。
(……私は、……)
あのとき成歩堂に救われたから、教えてもらったから今がある。心からそう思っているし感謝している。いくら返しても返しきれないほどの借りだ。
だから、成歩堂の力になれることがあるなら自分も成歩堂を助けたかった。あんな罠にはめられて、不当に弁護士バッジを奪われたままでいるなんて正しくないと思った。
けれど、あの場所に再び引きずり出して戦えと迫るのは、本当にこの男のためになるのだろうか。
この結末は望まないものだっただろう。だが、今の成歩堂はもう法廷に戻ること自体を望んでいないかもしれない。だとするならば、キミは法廷に戻るべきだなんて気持ちは、ただの私のエゴではないのか。
苦しかろうと、それも呑み込んで前へ進む。それが自分の在り方だった。だから御剣は、それ以外の生き方を知らない。
そんなことを成歩堂が望んでいるかは分からないのに、それ以外に、この男に手を伸ばす方法なんて今に至るまでずっと思いつけないままだった。
一体、何がこの男を救うのだろう。
先程の成歩堂の笑顔を御剣は思い出していた。最近の成歩堂の表情からは当時感じていた苦しみや拒絶は消え、穏やかで柔らかいものがずっと多くなった。それはきっとみぬきという存在ができたおかげというのも大いにあるだろう。傷ついた成歩堂の一番そばにずっとあったのは、法廷じゃない。まして自分でもない。あの少女との数年間の平和な日常だ。
――キミは、今、幸せなのか。
最近の成歩堂を見ていて、御剣はずっと、そう聞きたい気持ちに駆られていた。
言葉を止めた御剣を見て、隣に立っていた成歩堂はおかしそうに口角を上げた。昔は被っていなかった派手な水色のニット帽の下のその瞳がわずかに細められる。
相手のすべてなんて分からない。だが、もう短くもない付き合いだ。御剣が黙り込んだ理由なんて、成歩堂はなんとなく察しているのかもしれない。だからこそ成歩堂は、わざとらしく話題を逸らすみたいに軽い調子で御剣の顔を指さす。
「眉間のヒビすごいぞ、御剣。やっぱり次期検事局長とウワサされる天才検事は忙しいんだろ」
「ム」
「ちゃんと寝てるか? イトノコ刑事に心配されてる姿が目に浮かぶんだけど。ああそういえば、イトノコ刑事最近会ってないな。元気してる?」
成歩堂の言葉に、御剣は肩をすくめる。
「……必要程度の睡眠はちゃんと取っている。イトノコ刑事は相変わらず、騒々しいという言葉が似合うくらいには元気だ」
御剣が言うと、成歩堂は「そっか」と笑い飛ばした。
そうして再び、会話が途切れる。一瞬の静寂。御剣が次の話題を探そうかと思ったところで、成歩堂はまるで独り言みたいにぽつりと呟く。
「ごめんな。ぼく、今はさ。結構悪くないと思ってるんだよ、この生活も」
御剣は、ぱちりと目を瞬かせた。成歩堂の目には苦しみも、拒絶もない。ただ静かに夜を見つめていた。
息を吸って、御剣は返事をする。吸い込んだ空気はやっぱりきんと冷えて、御剣の内側の熱を宥めるみたいに体の中を巡る。
「キミが謝ることではない」
御剣の言葉に、成歩堂はゆっくりと頷く。
「まあ、……そうかもね」
成歩堂はそう言ってから、ニット帽を軽く被り直す。そうしてから、「冬ってさ、帽子被ると案外あったかいよ」と何かを期待するみたいに御剣に言うので、「……私はその派手な帽子を被るつもりはないぞ」とすぐに断りの返事をしてやった。