white wish

 不意に、頬に冷たいものが触れた気がした。
 同時に視界を横切ったのは小さな白い粒。顔を上げれば、どんよりと空を覆っていた雲の隙間からぱらぱらと雪が降り始めていた。
(わ、雪だ)
 成歩堂は心の中で呟く。朝から今にも降りそうな曇天ではあったけれど。そういえば今日の夕方から明日にかけて雪が降り、そして積もる予報だと朝の天気予報で言っていたっけ。今年の初雪だそうだ。
 このあたりでは、積もるほど雪が降るのはそんなに多いことじゃない。明日積もってたら、自転車移動は危ないかなあ。まずそんな現実的なことを考えてしまうあたりに、大人になった自分への物悲しさを少しだけ感じたりもする。
 みぬきは雪が積もれば喜ぶだろう。そういえばかつて、ぼくの助手をしてくれていた頃の真宵ちゃんも雪が好きだと言っていたっけ。……外は銀世界だと軽い冗談のつもりで言ったら「言っていい冗談と悪い冗談がある」と本気で怒られたくらいには。
 ぼくだって、子どもの頃はさ。成歩堂はそう心の中で呟く。彼女たちと同じように、雪が降ればワクワクしたような子ども時代が――。
 そこまで考えて、成歩堂はふと足を止める。
 は、と小さく吐き出した息はマフラーに当たって、わずかに空気を白く染めて溶けた。
 成歩堂は少し考えてから、くるりと方向転換をして、自分たちの事務所とは違う方向へと歩き始める。


 ◇


「この間借りた本、返すよ。御剣」
 成歩堂が言えば、デスクに座っていた御剣は眉間のヒビをわずかに深くし怪訝そうな表情をした。
「……ああ」
 御剣はそう一度は頷いて、成歩堂から差し出された本を受け取りながら続ける。
「しかし、この程度急ぎの要件でもないだろう」
 なぜわざわざここに足を運んでまで。御剣はそう言いたいのだろう。
 御剣の疑問はもっともだ。ふかふかのカーペットが敷かれ、無駄に広くて豪華なこの部屋は検事局長室。この検事局のトップのために用意された部屋であり、御剣の現在の執務室である。そんな場所にアポもなく部外者が訪れるなど、よっぽど急ぎの重要な理由がある場合くらいだろう。
「……まあバレるか」
「逆になぜバレないと思ったのか疑問だな」
 トン、と音を立ててこれまた無駄に広い机の上に先程成歩堂から受けとった本が置かれる。
 御剣からこの本を借りたのはもう数ヶ月前だ。何かの雑談の流れで、キサマも局長として部下を指導する立場となったのだからもう少し色々勉強をしたほうがいいとかなんとか言われ、御剣に借りた法律関係の本。数ヶ月放置して――一応言っておくと、中身はひととおりざっと眺めはした――特に返せと催促もされていない本であるから、わざわざ検事局にアポ無しで来てまで返すような代物じゃないことは明らかである。
「それを理由にここまで通ってきたのか」
「下でちょうどイトノコ刑事に会ってさ、スイスイ通してくれたよ。口実一応用意してたけどほぼ顔パス」
 成歩堂の言葉に、「イトノコギリ刑事……」と御剣の眉間のヒビがもう少しだけ深くなった気がした。ごめんイトノコ刑事、と成歩堂は心の中でなんとなく謝っておく。
「それで、本当の理由は何なのだ」
 御剣は成歩堂を探るような顔で見つめる。眼鏡の奥は、御剣の部下なんかが見たらきっと怯えてしまうんじゃないかというような目つきの悪さだ。完全に仕事と同じモードの御剣に、少しの呆れを滲ませて成歩堂ははあと息を吐いて笑う。
「……、理由がなきゃ来ちゃいけない?」
「? それはそうだろう、ここは検事局――」
「忙しいからって言われて全然会えてないコイビトに、会いに来るのはダメか?」
 成歩堂の言葉を受けて、かっと御剣の顔が赤く染まった。「っ、な……!」と御剣は動揺に唇をわななかせる。コイビト、という言葉を強調して言ったのがより効いたのだろう。
(……そんな初心な反応されると、ぼくも変に照れそうになるな。自分で言い出しておいて)
 御剣を煽るためわざとした言葉選びだったが、自分に返ってきていては世話はない。成歩堂は表情に出さないようどうにか堪えて、わざと余裕ぶった表情を続ける。
 御剣と成歩堂の関係を表す言葉に「コイビト」という名前が増えたのは、付き合いの長さに対してごく最近のことだ。だからこそ互いに、まだその言葉に慣れていないのだった。何かが大きく変わったつもりもないのに、意識してしまえば妙に照れくさい。
 御剣は少し目を泳がせた後、「いや、その、それは……、すまなかった」としおらしそうな顔をする。別に落ち込ませたかったわけでも本気で文句を言いたかったわけでもないので、成歩堂は「いいって、別に謝らなくて。ほんとに忙しかったんだろ」と肩をすくめた。
 御剣が忙しいことはよく分かっていた。勿論それを責めるつもりは毛頭なかったし、ついさっきまで別に気にしてたつもりもなかったんだ。
 ただ、雪が。
(――急に、懐かしいことを思い出しちゃうもんだから)
 御剣にばれないように成歩堂は小さく息を吐く。それは子どもの頃の、成歩堂にとっての「雪の思い出」だ。

 あれは御剣と仲良くなった後の、小学四年生の冬休みのことだった。
 その年は始業式前日の夜から朝にかけて、積もるくらいの雪が降った。あの夜の成歩堂は、しんしんと窓の外に降り積もっていく雪を見ながらワクワクとしていたものだった。それこそ雪にはしゃぐみぬきや真宵ちゃんのように。
 あの日、明日になるのが待ち遠しかったのは、翌朝に真っ白な銀世界を見るのを楽しみにしていたというだけじゃない。
「明日、学校は始業式だけだから、それが終わったら御剣くんたちと雪遊びをしよう」と。あの頃のぼくはそれに胸を躍らせていたんだ。――あの冬、御剣はある辛い事件に巻き込まれて、三学期の始まりとともに転校していったことを、あの日のぼくはまだ知らなかったから。

 ああ、そんなことを思っていたっけ、って思い出してしまったのだ。叶わなかったあの夢想に子どもの頃のぼくは勝手に傷ついて、寂しかった。すごく。そんな気持ちを急に思い出してしまった。
 だから急に、こいつの顔を見たくなってしまった。――こいつにあの頃の可愛げの面影が、もう欠片もなくったってさ。
(……御剣が本気でどうしても忙しそうだったら、ちゃんと帰るつもりだったけど)
 勢いで来てしまったものの、私欲だけで訪ねていいのかと少し迷っていたところにたまたまイトノコ刑事に会えたのは幸運だったのかもしれない。イトノコ刑事に、御剣検事が働き詰めで全然休みも取らないから心配ッスとかなんとか言われてしまっては。
「御剣。おまえ今日も車で来てるだろ。夜にはもう積もり始めるらしいぞ」
「ム、……」
「雪道の運転は危ないし、今日くらいは早く上がった方がいいんじゃないか? イトノコ刑事もおまえが働きすぎで心配してたし」
「ムウ……」
 御剣が迷うような表情を見せる。イトノコ刑事の名前を出したのも効いたのだろう。おそらく御剣自身にも、働きすぎの自覚もイトノコ刑事に心配をかけている自覚もあったらしい。ならばここでダメ押しのゆさぶりだ。
「……ウチの夕飯、今夜はあったか~い鍋にするつもりなんだけど。こんな寒い日は沁みるだろうな~鍋は」
 成歩堂が言えば、御剣はまたムム……と唸る。「どうだ?」と成歩堂が聞けば、一度目を伏せた御剣は、ふ、と観念したように息を吐いた。
「……少しだけ待っていたまえ。この書類だけ今日中にまとめておきたい。十分もあれば終わる」
「はは、分かった。待ってるよ」
 御剣が再びパソコンに向かい、パチパチとキーボードを叩き始める。その音を聞きながら、成歩堂は部屋の端に置かれた赤いソファに座った。すぐそばの窓を見やれば、暗い空からしんしんと静かに雪が降っているのが見える。御剣の仕事が終わるのを待つ間、成歩堂はすることもないのでなんとなくそれをじっと眺めていた。
 会話がなくとも、御剣がそこにいるというだけでじわりと満たされるものが成歩堂の中に確かにあった。それは子どもの頃、再会したばかりの頃、そして今とその感情の色は少しずつ違う気はするけれど、このふわりと浮き足立つような気持ちは変わらない。
 視線を窓の外から御剣に戻して、成歩堂は口を開く。
「今日、泊まってくだろ?」
 そう問われて、御剣は一瞬キーボードを打つ手を止めて顔を上げる。喋りながらキーボードを打つという器用な真似はできないらしい。まあ、ぼくもできないけど。
「……ああ。キミたちが構わないのなら」
 言ってから、御剣は再びぱちぱちとタイピングの音を響かせる。まったく、こんな長い付き合いになってなおそんなことを言うこの男は、やっぱり根が律儀なやつだ。
「みぬきも喜ぶよ」
 成歩堂がそう返事をすれば、御剣の表情がわずかに穏やかに和らいだ気がした。

 ――多分。あのときのぼくは、自分で自覚していたよりもずっと寂しくて悲しかった。そんな気持ちを急に思い出してしまったから、確かめたくなったのだ。今、自分は、御剣の隣に当たり前に居られているのだということを。
 あの時に感じた寂しさを埋めるみたいに、あの時叶えられなかった夢想を今になって叶えようとするみたいに。
(まあ、さすがにもうこの年で御剣と雪遊びをしたいとは思わないけど)
 それでも明日の朝、すっかり積もった雪に覆われた一面の銀世界を三人で見られるなら。

 それだけでもう、あの頃のぼくの願いは時を経て叶えられたようなものだと、そう思えるのだ。



(2024年12月22日初出)
ミツナルワンドロワンライ 第9回【雪】





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