光暈
コンコン、と部屋の戸が控えめにノックされる。その音だけで誰なのか予想がつき、「夏羽です。……入ってもいいですか?」と続いた言葉にやっぱりだと思いながら隠神は「いいよ」と返事をした。一拍おいてから、そっと部屋の戸が開けられる。おずおずと入ってきた夏羽は、こちらの姿を見てわずかに表情を曇らせた。それでも、顔色は再会した直後よりずっといい。隠神は夏羽の表情には気づかないふりをして、あえていつも通りの顔をして視線で夏羽を呼んだ。夏羽は「失礼します」と丁寧に言ってからこちらに歩いてきて、隠神が座っている布団の横に腰を下ろす。
夏羽の視線が、隠神の左腕に向かう。それから左足、右足、と辿って、夏羽はぐっと苦しそうな表情をした。夏羽が見たそこは服の布がぺたりと力なく萎んでいる――飯生のもとで失った隠神の両足と片腕は、どう治すのかあるいは義肢をつけるのかなど、とにかくこれからどうするか考えると言ってまだそのままになっているのだった。
隠神本人よりもずっと辛そうな顔をしてくれる夏羽を見つめていると、夏羽は小さく息を吸ってから隠神に向き直る。そうして真正面から相対した夏羽の表情は、先ほどまでの苦しそうな色を覆い隠す決意の色で溢れていた。
「あの、俺にできることはありますか」
予想通りのその言葉に、隠神は小さく笑ってしまう。心の奥がほっとあたたかくなる心地だった。それは長いこと――この三年間感じることのなかった、忘れていた、あえて忘れたままでいた感覚。
「ありがとな。今のところは大丈夫だ」
そう言ってから、少し考えて「ま、何かあったらお願いするかもしれないから、その時は頼むな」と付け加える。そうしたら夏羽はその目をわずかに見開いて、「はい!」と勢い込んで返事をした。
「……っつーかな、お前だってまだ片腕戻ってないだろ。お前も今日はしっかり休みな」
「ありがとうございます。でも、俺のは少しすれば治るので」
隠神が指摘すると、夏羽は生真面目な顔でそう返してくる。まあ、それはそうなのだが、と隠神は思う。しかし結石によって強化された屍鬼の再生能力でも再生が追い付かなくなるほど、夏羽も先の戦闘で消耗したということだ。いくら不死の屍鬼とはいえ、疲れを感じていないなんてはずはない。勝手に部屋に一人戻った隠神のことなんて放って休めばよかったというのに。けれど、そうしないのがやはり夏羽というやつなのだろう。
(……帰ってきたんだな)
自分も、夏羽も、だ。これまでの人生、屋島にいた頃、東京に出てきてから、怪物屋を始めてから、ひとりになってから――どの時間よりも夏羽と過ごしていた時間は短かったはずなのに、そんな気持ちになる自分を妙だなとおかしく思う。
唯一残された右腕を伸ばして、夏羽の頭に触れた。分解され飛散した細胞が結合し、再生できるまでに三年がかかったらしい夏羽の肉体は、隠神の記憶にある三年前とほぼ同じだった。変わらない高さと感触。その黒髪を撫でると、夏羽が目を瞬かせて、そしてなんとも言えない表情をした。その感情をはかりかねて隠神が手を止めると、夏羽が考えるような仕草をみせながらゆっくりと口を開く。
「……俺は隠神さんに出会うまで、ずっと灯りのない闇の中にいて」
夏羽が顔を上げる。視線が絡む。その瞳は隠神が予想したよりもずっと強く、隠神をまっすぐに見つめた。
「隠神さんが俺に光をくれたんです」
夏羽がまだ怪物屋に入ったばかりの頃、同じようなことを言われたことがある。あのときはまだものすごく狭かった夏羽の世界の中で、初めて見たものを親だと思うような、そんな刷り込みに近いようなものだと隠神は思っていた。
けれど夏羽はあの時と同じ意思を、あの時よりもずっと強い色を滲ませて、隠神に向けて再び手渡す。
夏羽はそこまで言って、一度息を吸う。そうして再び口を開いた。「……だから」と、あの時にはなかった言葉の続きを口にした。
「だから俺も、隠神さんの灯りになりたい」
夏羽の言葉に、隠神が目を見開く。そのままじっと数秒言葉なく見つめ合って、そうして夏羽の瞳がわずかに揺れてから、夏羽が口を開いた。
「……ごめんなさい、俺が隠神さんになんて烏滸がましいかもしれないんですけど。でも……もし俺に何かできることがあるなら、と、思って」
考えながらぽつぽつと言葉を紡ぐ夏羽の姿を見ながら、隠神はふっと息を吐く。
「……お前はもう、十分眩しいよ」
隠神の誰に聞かせるでもないほんの小さな呟きは、夏羽の耳には届かなかったらしい。「え?」と不思議そうに聞き返した夏羽に、隠神は「いや、こっちの話」と苦笑する。
「夏羽。よかったら、もうちょっとだけここにいてくれるか」
それがお前の『俺にできること』だ、と言うと夏隠はますますきょとんとした顔をする。
「勿論、いいですけど……」
それでいいのだろうか、という顔。そんな表情がおかしくて隠神は目を細める。
三年間、暗闇の中にいた。
それでも光の方向を見失わずにいられたのは、お前という灯りが失われていないと信じられたから。お前が灯した俺の中の火が消えずに在り続けたから。
そんな話を俺は、今貰った言葉のように、いつかこいつに真正面から話せるのだろうか。
「久々だろ、ゆっくり話すの。色々積もる話もあるだろうし、お前がよければもうちょっと話したいんだ」
隠神が言うと、夏羽はその目を輝かせて「はい!」と頷く。そうして夏羽は、隠神にどこから話したものかと真剣な顔で思案し始める。そんな夏羽を隠神は急かすことなく見つめていたのだった。