その熱は不可逆
初めて唇に触れた。触れた瞬間胸に襲いくるのは、よろこびと同時に、「やってしまった」という気持ちだった。きちんと双方同意の上での行為だったし、あいつだってもう十八歳を超えて、普通の人間であれば高校を卒業している頃。なんの問題もないはずだ。お互いの気持ちを確認し合い、そういう意味で付き合うようになってもう一ヶ月近くが経つのだからむしろ遅すぎるくらいと言っていい。どこのティーンエイジャーだという感じだ。こんなおっさんを捕まえて。
なのにあいつに触れるたび、そういう気持ちでまなざしてしまうたび。条件反射のように抱いてしまうこの罪悪感は、あいつがまだ十三歳やそこらの子どもだった頃から面倒をみてきたおかげで、まるで育てた子に手を出したかのような気持ちになってしまうせいだろうと隠神は思う。
(親代わりみたいな時期はあったけど、あいつの親になったつもりは一度たりともないっつうのに)
初めて知ったその唇のあたたかさと柔らかさがどうにも生々しかった。確かめるように触れて、そしてすぐに離れていく唇の温度。あんまりあっさりと離れていく唇に拍子抜けするような思いにもなった隠神は、自分のよこしまな期待をすぐに恥じ耳を熱くした。その唇を追いかける勇気は今の自分にはなかった。
閉じていた目を開けて、夏羽の様子を確認する。照明を絞った薄暗い隠神の部屋の中で、夏羽が頬をわずかに染めているのが分かってしまう。けれどその赤い瞳は戸惑うように揺れていて、それを見て隠神は先程のどこか浮ついた気持ちが急速に萎んでいく。じわりと生まれた焦燥、隠神は夏羽の顔を恐る恐る覗き込んで口を開いた。
「夏羽。……嫌じゃなかったか」
なにしろ、相手は出会った頃は恋とは何かすらも知らなかった夏羽だ。こういう関係になってはみたものの、やっぱり何か違う、となってもおかしくはないと隠神は思う。相当悩んでこの関係になることを選んだのは自分だから、これでやっぱり嫌だったと言われればそれはそれは凹みはするが。
しかし、もしそう言われたなら、今が手を離してやる最後のチャンスなのかもしれないなんてことも隠神は考えていた。
隠神に聞かれた夏羽ははっとしたように目を見開いて、それから慌てたように首を振る。
「嫌じゃないです。あの、嬉しいです」
「うれ……、そうか」
まっすぐ目を見つめられ、直球な言葉を投げられて、隠神はついひるんでしまう。そうか。夏羽は、俺とキスをして嬉しいのか。こういう関係になっておいて、何を今更という話ではあるけれど。
幼さは残りつつも、出会った頃よりもずっと精悍になった顔で夏羽は隠神を見つめる。そして言葉を探すように口元に手をやった。その指先が唇に触れる。先程隠神に触れていた、柔らかくてあたたかいそれについ目が行ってしまう。
そんな隠神をよそに、「……以前、」と夏羽は言葉を続ける。
「晶に読ませてもらった漫画では、キスはレモンの味だとか……」
そして、そんなことを言われて身構えていた隠神はがくりと脱力してしまった。
「あいつ、ベタな少女漫画読んでるなあ……」
まあ晶らしくはあるけれど。まさか、レモンの味がしなかったから戸惑っていた? いや、さすがに夏羽もこの歳になってそんな漫画の世界のことを本気で信じていたわけではあるまい。……だよな?
「でも、今は煙草の味がして。……いや、俺は煙草は吸ったことがないので正確にはにおいしか分からないですが」
確かに、ついさっきも自分は煙草を吸っていたなと隠神は思い出す。そりゃ触れれば煙草の味もするだろう。キスをするならもう少し気を遣った方がよかったかと思って、しかし、さっき夏羽は嫌ではなかったと言っていたからそれは問題ないのだろうと思い直す。
「俺にとって煙草のにおいは隠神さんのにおいなので、それで隠神さんに触れているんだなと実感して、……緊張というか、でも嬉しい気持ちもあって」
「……あ、そう」
今の触れ合いで夏羽が感じたことをそんなふうに言葉にされて、隠神は気恥ずかしさでまた耳が熱くなってしまいそうだった。あの感触は、温度は現実のものだったのだと――その相手が他ならぬ夏羽であると、そう改めて突きつけられるような。
(煙草のにおいイコール俺、ね……)
世の中に煙草のにおいなんてありふれているはずなのに。そんなふうにすぐに連想するくらいに、夏羽にとって隠神の存在は刷り込みのように存在するのだということも、同時に改めて突きつけられるような心地だった。
夏羽の近くにいること。こんなふうにより近くで触れること。それを繰り返して、夏羽の中で隠神の存在がどんどんと特別になってしまうこと。
それが危ういことのように思えてどこか恐ろしいのに、それ以上に嬉しいと感じてしまう。どうしようもない大人だと自分でも思うけれど、それほど愚かになってしまうくらいに、自分にとってこそ夏羽があまりに特別になってしまっていた。
(手を離してやる最後のチャンス、なんて)
自分から手を離すことなんて、とうにできなくなっているくせに。
そう心の中で自嘲する。そんな隠神の心中など知らない夏羽は、その睫毛をわずかに伏せて隠神を見つめた。夏羽らしいまっすぐな瞳なのに、その奥に揺らめくものは隠神がこれまで知らなかった色をしていた。
夏羽の手が伸ばされて、隠神の頬に触れる。そっと添えられるだけの優しい指先が、触れた肌を通じて隠神にその体温を伝えてくる。静かなその温度、柔らかい感触、しかしこの肌の下には血よりも熱い炎が巡っていることを隠神は知っている。
「隠神さん」
少しだけ揺れた、出会った頃より低い声。いつからか目立つようになった夏羽の喉仏が目の前でゆっくりと上下する。
「……もう一回、してもいいですか?」
与えることは上手くて、求めることに慣れていない青年が隠神に向けてそう求めてくれる。しかしそれは隠神こそが欲しがっていたことだったものだから、まったく、かなわないと思えてしまう。
断れる理由なんてあるはずもなかった。隠神は頷いて、夏羽の頬に触れる。
目を細めた夏羽がぎこちない動きでもう一度近づいてくるのがいじらしくて、自分からもこの子に与えたくなってしまう。だから隠神は覚悟を決めて、今度はこちらから夏羽を引き寄せてその温度を迎えに行った。