insatiability収録「nakedly――裸」sample
――ここで『催眠を解け』。これ以上、痛覚を無視した動きをすれば、命に関わる。彼にそう言われた瞬間、頭がぐらりと揺れて、体中の血が震えたような感覚がした。それは紛れもなく、自分の体の奥底から湧き上がった歓喜だった。
かつて彼に咎められた強い抑制剤も、自己催眠も使っていた。完璧なはずだった。なのにそれすらも突き破ってきたCommandは彼の強いDom性の為せる技か、それとも、……私のSub性が、私自身が認識していたよりもずっと衰弱していたからなのか。
頷きそうになる自らの肉体に必死に抵抗して断りの言葉を口にした時、胸が潰れそうに苦しかった。
これは自分の美学と矜持、そして何よりも彼との〝約束〟のためだ。それを取り戻すため。けれど、ああ、彼に委ねてしまいたいと。彼の言葉を叶えたい――従いたい、とこの身体が叫ぶようだった。
日常生活の中で、Commandは使わない。性的な行為を伴うPlayはしない。
それは同道の約束を交わしてすぐの頃に、彼と話し合ったことだ。主に彼がそれを望まないようだったし、私も同意した。それが、SubとDomとしての私たちのもうひとつの〝約束〟だった。
あれから一年と九ヶ月、彼から晩酌の誘いなどの「お願い」程度のことはされたことがあっても、決してこちらに何かを強制させるCommandらしいそれは一度も使われたことがなかった。互いの身体に親愛以上の意味を持って触れることもなかった。
それで互いに満足していたはずだった。それ以上の行為は、自分たちには不要なものだと思っていたのだ。
(……そう思い込み、言い聞かせて、騙していたのは自分自身か)
チェズレイはそうひとりごち、その睫毛をわずかに伏せる。眉根を寄せていた自分に気が付くも、それを目敏く指摘してくる相棒は今はここにはいない。病院の面会時間が終わり、数十分前にこの部屋を立ち去ったばかりだった。
彼は毎日チェズレイの病室を訪れ、特段の予定もない限り面会時間ギリギリまでここで過ごしては帰っていく。彼は私を律儀者だと言うが、そう言う彼だって随分と律儀だと思う。守り手たる彼のことだ、チェズレイがまた勝手に無茶をしないように見張っている、なんて部分もあるのかもしれないが。
もうそんなことはしない、というのは、もう一度信頼を積み上げてから言うべき台詞なのだろう。チェズレイは小さく笑い、そして部屋の中に視線を向けた。
白い部屋だ。しかしこの白は、故郷の何もかもを塗りつぶすような冷たい白さとはまったく違う。
清潔に保たれた白いシーツやカーテン、部屋に染みつきうっすらと常に漂う消毒液のにおい。窓から柔らかな日差しが射し込む部屋の中はいつもあたたかい。ヴィンウェイを発ってまず訪れたこの南国で、モクマに言われるがままチェズレイはこの病院に運ばれ少しの間の入院を余儀なくされた。
とはいえ主治医も目を見張るほどの速度でチェズレイの身体は回復に向かっていて、あと数日もすれば退院できるだろうと言われていた。痛覚にまつわる自己催眠を解いた時に襲ってきた酷い激痛も今はすっかり落ち着き、体を動かした際に引き攣れるような鈍い痛みはあれど、日常的な動作にはもうほとんど支障はない。
世界征服に邁進している時は時間などいくらあっても足りないくらいだというのに、この病室からほとんど動けない日々はあまりに時間を持て余す。タブレットも必要最低限の連絡以外には使うな、こういう時くらい体も頭もしっかり休ませなよという守り手殿の厳命によりタブレットもろくに使わせてもらえない。
そうして時間を持て余せば、人間というのはやたらに何かしらを考え出してしまう生き物らしい。
この南国に来てからのこと。ヴィンウェイでのこと。私のこと。あなたのこと。私とあなたの間の〝約束〟のこと。そして――
薄く開けた窓から入った風が、薄いカーテンをふわりと揺らす。この窓は先程までここにいたモクマが、今日はいい天気だからと開けたものだった。チェズレイの視線は自然と窓の方へと向く。風に乗ってわずかに潮風が香る。カーテンの隙間からは、夕日に変わり始めた太陽の光を浴びてきらきらと光る海が見えた。この病院は海のすぐ近くなのだ。
海を見れば、あの〝約束〟を交わした時のことを思い出す。そして、それからの日々のこと。同道直後に交わした、SubとDomとしてのもう一つの〝約束〟。
あの時に交わした言葉も、思いも、誓って嘘ではない。無理をして、自分を曲げてまで彼に合わせたつもりもない。あれは確かに、互いの同意の上での〝約束〟だった。
あれから一年九ヶ月の間、不満なんてなかった。満たされていたつもりだった。
――しかし、彼にCommandは使いたくないと言われたときに抱いた感情。それで構わないと返したときに覚えた自分の中のわずかな違和感。
その正体に、自分はもう気付き始めている。
この感情を自分の中でもう一度騙し、眠らせることはできる。けれど、それでは何も変わらない気がした。ひとりよがりで、彼が私に向けてくれる情を侮った私のまま。私に向き合ってくれた彼に、また何も言わずそうするのはひどく不誠実なことのように思えた。
(……モクマさん)
彼の姿を脳裏に思い描くだけで、胸が切なさを伴って詰まる。つい先程まで会っていたはずなのに、いや、会っていたからこそもう恋しくなっている自分がいた。先程までモクマが座っていた、ベッドサイドの小さな椅子にチェズレイは視線を向ける。勿論今はそこには誰も居ない。
毎日飽きもせずここに訪れては、日常の些細な出来事をチェズレイに話す彼の穏やかな表情。柔らかな口調。チェズレイは目を閉じて、その姿を思い浮かべる。
ベッドの上に触れた彼の、チェズレイとは全く違う大きくて無骨な手。――その手に触れたいと、ここに来てから何度思っただろう。
浮かされたようにそう思っては、毒気なくチェズレイに笑いかける彼の顔を見てその思いを引っ込める。しかし、その手に、頬に、唇に、触れたらどんな温度なのだろうと、どんな感触なのかと、どんな感情が生まれるのかと、この国に来てからというもの気付けばそんな思いばかりが募っていた。
彼のことを思いながら短く吐き出した自分の息は、わずかに熱を帯びていた。
あなたに触れたい。……そして。
チェズレイはもうひとつ、自分の中に渦巻く欲望を思って、再び小さく眉根を寄せる。
(――どうやら、私の欲は自覚していた以上にずっと厄介で、おぞましく、酷く濁ったものであったらしい)
チェズレイはゆっくり目を開ける。そこには相変わらず白く、清潔で、健康的な陽の光が射し込む病室があるばかりだった。
(これを、あなたに向けていいのか。……この愚かしい本性を、私はあなたに晒せるのか)
チェズレイの退院祝いだと言って、夕飯にテーブルいっぱいに並べられたのはチェズレイの好物ばかりだった。しかも、どれもモクマの手料理だ。食事の際に都度これは美味しいとモクマに伝えたことはあったが、それにしたってよく覚えているものだ。チェズレイが感心しているそばで、モクマは楽しげな顔で「おじさん、腕によりをかけて頑張っちゃった」と笑っていた。
楽しい夕食を終えて、食事を作ってもらったのだから片付けは私が、とチェズレイが立ち上がろうとするとモクマがそれを制する。今日はおじさんに任せてよ、と言うモクマの気遣いをチェズレイはありがたく受け取ることにした。
チェズレイに向けられるモクマのそんな小さな優しさのひとつひとつに、チェズレイの心はじわりとあたたかくなる。この人に向ける情が、濁りとなって私の中で重みを増していく。きっとこれからもずっとそうなのだろうと、この人と共に過ごすと思い知る。
だからこそ、目を逸らしてはならないと思った。
向き合わなくてはならないと思った。あなたと、――そして、あなたが見つめてくれる私自身と。
「モクマさん」
チェズレイが言うと、テーブルの上の皿をまとめていたモクマが「うん?」と軽い返事をして顔を上げる。そしてチェズレイの表情を見て、モクマの表情も真面目なものに変わった。
「片付けを終えたら、少しお話が」
そう口にした言葉は、先程までの楽しい時間とは打って変わった少し硬い声になってしまった。しかしモクマはそんなチェズレイを見つめて、ゆっくりと頷く。
「……うん、りょーかい。俺もあるんだ、お前と話したいこと」
ソファに座って待ってて、と言われチェズレイは素直にリビングのソファに座りモクマを待った。少ししてダイニングの水音が止み、食器を仕舞ったモクマがこちらへ歩いてきてソファのもう一人分空いていたスペースに腰を下ろした。
チェズレイがモクマの方を見て、そしてその手に視線を向けるとチェズレイの言わんとしたことに気付いたモクマが「手もちゃんと拭いたよ」とひらひらとその手を振って苦笑する。確かにその手に水滴などはついていなかったので、「よろしい」とチェズレイが言うとモクマは「やった、合格」とふざけた調子で返す。
そうしてから、「……で、だ」とモクマの声色がすうと変わる。
「しようか、話」
そう言う声は真剣で、しかしチェズレイの言葉を静かに促すような柔らかさも滲んでいた。こちらを見上げるモクマの深い色の瞳を見つめ返しながら、チェズレイは「……ええ」と頷く。
「私からで構いませんか? モクマさんも、私にお話があったのでは」と聞くと、モクマは「ああ。チェズレイからどうぞ。俺も後でちゃんと話すから」と返す。その言葉が少し意外で、チェズレイは内心で驚いてしまった。
なんだかんだ言ってもモクマは未だ人を優先してしまう癖が抜けきらない節があり、自分の思いを言葉にすることが多くはない男だ。そんなモクマが、チェズレイの話の後になあなあにするのではなく、ちゃんと自分からの話もするつもりでいるという。
見つめたモクマの瞳は揺らがない。逃げもしない。チェズレイはそれを見つめた後、「わかりました」と言ってから静かに息を吸った。
「まず前提として、私にとって一番大切なことは、あなたと〝相棒〟として共に在るということです。それは今後も揺るがない。ですから、今から私が伝えることがあなたにとって不快な内容であれば断って欲しい」
――本当は、断られることが怖い。
チェズレイはできるだけ冷静に、モクマに語りかけるような口調を心がけて言葉を紡いだ。しかし、嫌ならば断ってくれと口にしながらもそんな本音が肚の底から顔を出しそうになる。あなたに拒まれたくないと、この身体の内にあるもの――己のSub性が訴える。
チェズレイが歩んできた旅路は、いつだって危険と隣り合わせの道を征くものだった。ゆえにモクマと同道して以降も常に、自己を守るために必要な程度の抑制剤や自己催眠は使っていたのだが、入院中は一時的に完全に止めていた。
退院したばかりの今もそれらは使っていない。だから今、自分のSub性はいつになく剥き出しの状態と言えるだろう。ゆえに今夜はそれがこんなふうに無防備に、簡単に顔を出してきてしまうのかもしれない。チェズレイは頭の隅でそんな分析をする。
しかし、そんなふうに訴える己のSub性を片鱗でもみせてしまえば、この男は生来の優しさをもってチェズレイのためならとチェズレイを受け入れようとしてくれるかもしれない。それでは意味がなかった。だから今は、そんな己を無理やり押し込める。
チェズレイの言葉に、「……ああ。わかった」とモクマは深く柔らかい声とともに頷いた。その言葉に、声色に、それだけでほっと深く安心する自分がいる。そんな自分の感情の動きにまた少し驚く。しかしそんな動揺をおくびにも出さないようにして、チェズレイは続けた。
「私があなたにお話ししたいことは、二点あります」
一度深く呼吸をしてから、チェズレイはこのところずっと考えていたことの結論をモクマへ向かって語り始めた。
「まず一つ目――私はおそらく、これまで私自身のSubとしての欲求を侮っていた」
言ってからチェズレイは、自嘲するようにわずかに目を伏せる。
この結論に至ったとき、このことにずっと気が付かず、勘違いをし、自分に嘘を吐き続けていた自分自身に呆れのような思いを抱いた。しかしここから目を背けていては、前には進めないのだ。突きつけられた自分の愚かしさは、素直に認めなければならない。チェズレイはもう一度、モクマに視線を戻して言葉を続ける。
「……かつてのあなたがそうだったように、私もSubとしての自分自身を長い間抑圧して生きてきました。とりわけ、Subであるということは裏社会では直接的に弱点となってしまうことが多い。ゆえに、自衛のために己のSub性を自覚してから今まで、あらゆる手段を尽くしてそれを抑え込んできた。そのあたりは、あなたもご存じでしょう。あなたと同道してから抑制剤や自己催眠はある程度弱めたものの、ゼロにしたわけではない」
チェズレイの言葉にモクマが頷く。それを見てから、チェズレイはまた言葉を続けた。
「ですから、Subらしい欲求自体、これまでほとんど感じたことがなかったんです。それゆえこれまで私はそういうSubなのだと、それで平気なのだと思っていた。私自身すら、抑圧した自分の本当のSub性を知らなかったのです。……けれどそれは、私自身が認識していたよりもずっと厄介で、おぞましく、酷く濁ったものだったようで」
チェズレイは一度言葉を止める。静かになった部屋の中に、「……あの山小屋で」と続けた自分の言葉はいやに大きく響いた。
脳裏に浮かぶのは、あの極北の国。何もかも塗りつぶすような白。そんな色に覆われた冷たい国まで私を追ってきたあなたは、今まで己に禁じてきたそれを私に使ったのだ。
「あなた、Commandを使ったでしょう。よーく効きましたよ。断るのに本当に苦労した。……あなたのDom性の強さもさることながら、私自身も弱っていたのだということにその時にようやく自覚しました。肉体的な部分だけでなく、Subとしても、です。あなたとの約束を破り、あなたを裏切ってしまった――そう思った時、Subとしての私もまた耐えられなかった。あなたに見放されることが怖くてたまらなかった。それが自業自得だと理解していても。……あれはきっと、Sub dropに近い状態だったのだと今ならば分かります。私の中にも、確かにSub性があった。そしておそらくあの時のショックだけではなく、恒常的に、Subとしての私が満たされていなかったこともあの計算外の弱り方の原因の一つだった」
モクマの表情が僅かに強張る。そういう表情をさせたいわけではなかった。けれどこの話は、私たちのこれからを考えるために避けては通れない。だから「……話を続けます」とチェズレイは言う
「あなたはやはり、できるだけCommandは使いたくないでしょう? ですが、これまでの私たちの在り方で私のSub性が満たされていなかったこともまた不本意ながら事実です。私がこれまでのように私自身を誤魔化して生きることは容易ですが、……これを知ってしまったあなたはきっと、それを許さないでしょうから。ですから、私たちのこれからの在り方をもう一度考えたい。互いに無理のない形で。それが一つ目のお話です」
そこまで言ったチェズレイはモクマを見つめ、一拍おいてから、もう一つの話を切り出した。
「……覚えていらっしゃいますか。あなたと同道した当初、あなたとセックスはしない――SubとDomとしての私たちの交わりにそれは必要ではない、とお話したことを」
セックス、という単語が出てきた瞬間、モクマの表情が揺れる。しかしモクマは何も言わず、チェズレイの言葉に頷いた。
「私は今、その提案を覆そうとしています」
モクマがその目を瞬かせるさまを、チェズレイはじっと見ていた。この表情は何だろうか――といつもの癖で探りたくなる気持ちをぐっと抑えた。今、彼の本心を覗いてしまえば伝えるべき言葉が揺らいでしまうかもしれないと、口にする言葉を変えたくなってしまうかもしれないと思ったからだ。
「ですが、文脈は少し変わりまして。ここからが二つ目のお話です。……SubとDomの欲求を満たす交わりとして、確かに一番効果的で分かりやすいものがセックスです。そういう意図がゼロとは言いませんが、それだけではない」
自分が息を吸う音が、やたら大きく聞こえたのは静かな部屋のせいか、それとも己の柄にもない緊張のせいなのか。
「私はあなたに相棒という言葉でも、SubとDomのパートナー関係という言葉でも言い表しきれない感情を抱くようになっています。……あなたを愛おしく思い、それと同じ強さで、あなたの肌に触れたいと思っている。そういう意味で、私はあなたとセックスがしたい――より率直に言えば、あなたを抱きたいという欲求を、今私は抱いている。これが二つ目のお話です」
モクマが息を呑むのが分かった。モクマが何かを言い出す前に、畳みかけるようにチェズレイは少しだけ早口になって言う。
「最初に申し上げたとおり、これがあなたにとって不快な内容であれば断ってください。……私への気遣いで了承などしないでくださいね。いくら私が望もうと、あなたに無理を強いるのは本意ではない。私にとって一番大切なことは、あなたと肉体関係をもつことなどではない。あなたと末永く〝相棒〟であることなのですから」
チェズレイが話し終えて、再び部屋に静寂が落ちる。チェズレイを見つめていたモクマが、ふっと息を吐いた。
小さく俯いたその表情に嫌悪の色はない。むしろ、モクマの口元は小さく笑ってすらいた。
「うん。……うん、そっか」
そう、何か自分の内で噛みしめるように零したモクマの真意をチェズレイははかりかねる。詐欺師の名折れではあるが、モクマの感情はうまく読み取りきれない瞬間があるのだ。いや、読み取れていたつもりでできていなかったという直近の出来事のせいで、モクマの心理を読むことに対しての自信を少し失っている節もあった。
「……どうされました? 私の話は終わりです。次はモクマさんの番ですよ」
チェズレイがそう促すと、モクマが顔を上げる。再びチェズレイを見たモクマの眼差しがひどく柔らかくて、チェズレイの心臓が音を立てる。嬉しいような、少し気恥ずかしいような、一言では言い表せない感情がチェズレイの胸の内をあたたかく満たした。
「チェズレイ。おじさんが言いたいこと、お前さんに全部言われちゃった」
今度はチェズレイが驚いて、目を瞬かせる番だった。チェズレイが何も返事をできずにいるうちに、モクマは少し遠くを見つめるように目を細め言葉を続ける。
「俺もねえ、お前が入院してる間……いや、お前があの日俺の前からいなくなってから、ずっと考えてた。何がお前をあんなに思い詰めさせたんだろうかとか、俺はずっとお前に甘えすぎてたんじゃないか、とか」
モクマの言葉に、チェズレイは思わず「そのようなことは」と言いかける。しかしモクマに視線でそっと制され、チェズレイは続く言葉を喉奧に飲み込んだ。そんなチェズレイの様子を見つめてから、モクマはすう、と息を吸って静かな口調で言う。
「俺は、ずっと怖がってただけなんだよ。Commandを使うのも、Domである俺が、お前に対して欲しいものを口にするのも」
ソファの座面についていた手を、モクマが小さく動かした。手袋に包まれたチェズレイの手に、モクマの無骨な手が近付く。触れそうで、触れない距離。咄嗟に、触れてくれればいいのに、と欲に塗れた自分が顔を出す。どちらかがもう少しだけ手を動かせば簡単に触れてしまえる距離だった。
そのほんの数センチが、自分たちには途方もない距離に思えていた。
「お前に命令を言えるこの口で、お前に触れたい、って言葉にするのが怖かった」
モクマの口調はずっと静かで、真摯で、そしてどこか穏やかでもあった。その口調から、モクマが今日まで本当に考え抜いてきたのだろうことが窺えた。
互いの手を見ていたチェズレイが再びモクマを見ると、視線が絡む。その瞳に捉えられて、目が離せない。――離してはならない。そう思った。
「お前とのこれからのことをちゃんと考えたいのも、お前に無理させたくないのも、お前に相棒という言葉だけではおさまらない感情を抱いて――セックスがしたいと思うようになったのも、俺も同じだ」
モクマの手が再び動いて、チェズレイの手袋越しの指先に触れた。互いを隔てていた数センチが、ゼロになる。指先に触れたその手はそっと優しく重ねられて、チェズレイの手にモクマの温度が伝わってきた。
もはや体の一部のようにすらなっていたこの手袋を、もどかしいように思うのは初めてのことだった。
重ねられたその手が嬉しくて、でも足りない。
――この薄い布一枚すらも隔てずに、あなたの温度を感じてみたい。
「……しようか、チェズレイ」
その言葉を聞いた瞬間胸にこみあげてきた熱いものを、チェズレイはぐっと堪えた。少しでも気を抜けば、感情が溢れ出してしまいそうだったのだ。モクマの言葉に誘われるまま、もっとあなたに触れたいという衝動がチェズレイの中にこみ上げる。
けれどその前に、チェズレイにはきちんと確認しておきたいことがあった。
だから「……モクマさん」と呼べば、「うん」とこのうえないほどに柔らかな声が返ってくる。モクマのそんな些細な一言でさえもチェズレイをほっと安心させ、どうしようもなく喜ばせる。
「ひとつだけ、確認させてください。本当に、少しでも、無理はしていませんね? 先に申し上げた通り私は、セックスにおいてあなたを抱きたいと思っている。それは私の紛れもない本心ですが、同時に私はSubであなたはDom――Domであるあなたの性は、他者に組み敷かれるなどひどく抵抗があるのでは。……もしあなたもトップをしたいというのであれば、私は」
モクマのことを抱きたいという思いに偽りはない。しかし同時に、あなたがしてほしいことをしたいとSubである自分自身が欲してもいた。その両方の欲が自分の中で渦巻き、彷徨っている。そのどちらをも、今のチェズレイは簡単に捨て置くことができなかった。
自分の中にも確かにダイナミクスによる欲求が存在するのだと実感してしまったからこそ、ダイナミクスによる欲求に抗う難しさにも、それにどのくらい負荷が伴うものであるのかも分かっている。だからこそ、モクマにも無理をさせたくなかった。
しかしそんなチェズレイの不安を、モクマはすぐに否定してみせる。
「してないよ。そりゃ、世間ではDomがトップでSubがボトム……抱かれる側のほうが多いんだろうね。チェズレイが俺のことを気遣って言ってくれてるのも分かる。でも、それは世間一般の話だろう。勿論、お前が抱かれる側をしたいっていうならまた話は別になってくるが」
モクマはそこで一度言葉を切った。
「きっとお前の周りにはそういうやつらばっかりだったんだろう。幼い頃からの環境で良くも悪くも学んじまったものってのが簡単に抜けないのは、分かるよ。俺だってそうだ。……でもね、お前さんが今更〝普通〟だとか〝性〟だとかにこだわってとらわれるなんて、らしくないんじゃないかい」
「……」
チェズレイに問いかけるその口調は、しかしチェズレイに言って聞かせるみたいにひどく優しいものだった。モクマはチェズレイの瞳の奧を覗き込むように見つめ、「こういうDomもいていいんだって、……それが偽りようのない俺なんだって気付かせてくれたのは、最初に俺に教えてくれたのは、お前だろう。チェズレイ」と続ける。重ねられたモクマの手に、柔らかく力が込められる。
「俺は〝普通〟をお前となぞりたいんじゃなくて、何だってお前とだからしたいと思う。俺とお前が良いと思うなら、いくら不格好だろうがそれでいいんじゃないか。……チェズレイ、『Come』」
「……ッ!」
ぶわり、と思考より先に体が反応した。
血が沸き立つような、頭から全身までが痺れるような本能じみた歓喜。Commandだ、と理性がようやく認識する頃にはもうチェズレイの体は動いていた。
モクマが広げた腕の中に体がおさまれば、モクマにぎゅっと抱き返される。Commandによって加減する余裕も無く抱きついたというのに、チェズレイよりも小柄なはずのモクマの体はびくともしない。
鼻先に、チェズレイとは違うモクマのにおいが香った。少し汗が滲んだ、男っぽい、しかしどこか優しく心地良いにおい。手が触れたときに感じたモクマの温度を今度は体全体に感じ、そのことにチェズレイの体温が上がった。密着しているせいでモクマの鼓動の音もよく聞こえる。いつもより速い心音。そしてそれは自分だって同じだった。
これまでも潜入の時にモクマに手を引かれたり、モクマにいわゆるお姫様抱っこのような形で運ばれながら脱出したりするようなことはよくあった。それに、かつて我々がDISCARDを追っていた頃――モクマに意識はなかったが、五十一階から投げ出された彼を助け出すときに彼の体を空中で抱いた。だから彼の体の感触を、においを、温度を、鼓動の音を、まったく知らなかったわけではない。けれどこれまでのそれと、今感じているそれはまったく違うものだった。
「……命令聞けていい子だね、チェズレイ」
そう言ったモクマの手が、チェズレイの頭を撫でる。髪の表面に柔らかく触れるだけの、まるで壊れ物に触るかのような手つきだった。
日常動作はいつもずぼらでだらしがなくて粗雑なばかりのモクマの手が、こんなふうに触れるのか、ということ。その相手が他でもないチェズレイであるということ。そして、この男はこんなに甘い声で囁くことができるのかということ。これまでのモクマとは違うそれに、チェズレイは正直に驚いていた。脳髄が痺れてしまうのではないかと錯覚するような、本能じみた喜びを同時に感じる。
しかし何よりチェズレイを驚かせたのは、モクマが自発的にCommandを使ったということだった。
「……っ、あなた、命令が上手くなりましたね。Careも」
ヴィンウェイでは緊急事態だったからだろうが、しかしモクマは元来Commandを使いたがらない男だったし、Playだって命令というよりモクマの小さなお願いをチェズレイが叶える程度の本当に軽いものばかりだった。
そもそもモクマの中のダイナミクスの知識自体、希薄でひどく偏っていたはずだ。本人が無意識にしたことがそうだったということはあれど、彼はSubに対するまともなCareの仕方ひとつすらもきちんと学ぶ場をもたないまま生きてきた。
自分のいつになく剥き出しの状態のSub性に、流し込むように与えられたDomからのCommandやCareに、己の身体がひどく歓び高揚しているのが分かる。今までにない強い感覚にチェズレイは動揺すらも覚えていた。
モクマはチェズレイの言葉に、「へへ、そう?」と普段の軽い調子で笑う。そうしてから、再び真面目な声色に戻ってモクマが続けた。
「お前が入院してる間にちょっと勉強したんだよ。もうお前に頼りっぱなしはやめようと思ってね。……お前を満たすためなら、Commandでも何でも俺は使うよ」
チェズレイは、思わず息を呑んだ。抱きしめ合っているから、互いの顔は見えない。けれど人の機微や気配の変化に聡いモクマは、チェズレイが今驚き、動揺していることに気が付いているだろう。
(中略)
(……あァ、だめだ、こんな)
モクマにCommandを出されるたび、褒められるたび、求められるたび、頭がぐらりと揺れる。身体の内側が自分でもコントロールしきれないほどの歓びを感じる。Subとしての私もすべてあなたにみせると決めたのに、理性を手放したらこの欲望であなたを傷つけてしまいそうで怖かった。
それなのにあなたは。
入口を解すことも意識しながら、モクマの命令に手ほどきされるようなかたちで中を愛撫していく。一度出して柔らかくなっていたモクマの性器も、再び頭をもたげ始めていた。本当にモクマも気持ちいいのだと思って、モクマにそれを与えられたということにチェズレイ自身も、チェズレイのSub性も強い歓びを覚える。そんなチェズレイを見透かしたみたいに、モクマが表情を綻ばせて「気持ちい、よ、チェズレイ」と言ってくれる。
「……結構解れてきたと思うから、『指、増やして』」
「ッ……、わかりました」
命じられるまま、指をもう一本モクマの中に挿入する。挿れた瞬間から中はきゅうと締め付けてきて、モクマが「ッん、」と声を漏らした。
一瞬詰めていた息を吐いてから、モクマは「そう、えらいね」とチェズレイの頭を撫でてCareする。そのほんの一言で、頭を撫でる小さな手つきひとつで、チェズレイの心はこんなにも舞い上がる。
モクマへ与えることができた歓び、モクマに褒められた歓びがチェズレイの快楽となる。モクマはチェズレイに何度も何度も「えらいね」「気持ちいい」「チェズレイ」「もっと」と低く甘い声で囁くものだから、その度にチェズレイの頭は蕩けてしまいそうになる。
ずぶずぶと、自分の本性に引きずり込まれていく感覚。これまでまともにCommandを与えられたことのなかった体が、モクマに命令され、従い、Careされることに歓喜していた。無自覚に飢え続けていた体に注がれる、溢れんばかりのそれに溺れそうになる。
あんなにもCommandを出すことを怖がっていた人が、今夜はもう数え切れないほどにチェズレイにCommandを出している。
しかもそれはチェズレイを従わせるためのものではなく、すべてがチェズレイに都合の良いもの――チェズレイを導き、許し、褒めるため。Subとしての欲を告白したチェズレイを、Domとして、パートナーとして、無二の相棒として満たしたいという思いに基づくものだということは疑いようもなかった。
指先が一点を掠めると、モクマの体が大きく震えた。「ぅ、あッ」とモクマの口から零れた嬌声に、チェズレイが「ここ、……気持ちいい、ですか」と聞きながらもう一度そこを優しく指の腹で撫でると、モクマはもう一度びくりと体を震わせてから、「ん、そこ、気持ちい……ッちぇずれ」とチェズレイの頭を優しく抱き寄せた。耳元にモクマの熱い息がかかる。与えられるCareに、触れた体と吐息の熱さに、チェズレイの体温もぐんと上がる。
DomとSubのセックスの暴力性を嫌悪していた。
そもそもが不衛生で汚らわしく、そのうえ暴力と紙一重である性行為自体をチェズレイはひどく嫌っていたが、DomとSubという抗いがたい関係性であれば尚更だった。
父と母の関係。裏社会でのさばる悪質で下衆なDomどもと、それに従属させられるSubの不均衡な関係。Subであると見るや周囲から向けられる下劣な欲望を纏った目線。Playにセックスは必須ではないが、セックスの中のPlayであれば、不均衡な力関係はより強く表出する。それを少なくないDomが悪用しているのは明らかで、そんな話は耳を塞いでいようと聞こえてくるほどに裏社会では日常のことだった。
そんな世界を幼い頃から嫌というほど見てきたチェズレイが第二性を、ひいてはそれを用いたセックスを嫌悪するのは当然の流れだった。Domの命令を聞き従属することなど、本能よりも先に自分の矜持が怖気を覚えた。だから、自分はそれが無くても大丈夫なSubなのだと、今にして思えば己に暗示をかけるかのようにチェズレイはずっと思ってきたのだ。
しかし、今モクマから与えられるすべてはそれとは全く違った。
一方的な暴力のための行為ではない。Domの欲望を身勝手に満たすためじゃない。Subの意思を無視して従えるためでもない。
自分のSubを満たすため、そして二人で満たし合うために、モクマはCommandを使う覚悟を決めてくれた。チェズレイを受け入れたいと、体を許し、彼が苦手とする「言葉で伝える」というハードルも乗り越えて。
(……Subとして生まれたことを、一番受け入れられていなかったのは私の方だ)
これも皮肉な運命だと悟ったふりをしたくせに、弱い私を、脆い私を、Domの命令に従い他者に自分自身を委ねる私を、私自身が許すことができなかった。まるで呪いのようにこの血に宿る、母を苦しめたものと同じ第二性を。
「チェズレイ、……っ、ぁ、は」
モクマに促され、彼の中には既にチェズレイの指が三本入っていた。一本目を入れたときとは比べものにならないほど入口は柔く解れ、チェズレイが指を根元から動かすたびにローションが卑猥な水音を立てる。
そろそろ、挿入できるだろうか。モクマの中に入れるだろうか。そんな欲望がチェズレイの頭をもたげる。しかし、拡張が不十分であれば苦しいのはモクマの方だ。今だって、確かに快楽は拾っている様子だが時折苦しそうな息を吐く。体内に異物を挿れているのだから当然の反応だろう。
PlayやDomからの褒め言葉による快楽と、目の前のモクマの痴態にチェズレイもひどく興奮し、何もしていないのに息が荒くなっていた。自分の下肢もとっくに張り詰めている。早く入りたい、という思いをギリギリで残った理性をかき集めて押しとどめる。
「モクマさん、」
そう呼んだ自分の声が欲に掠れる。大丈夫ですか、苦しくないですか、そう問おうとしたが、モクマの手がその問いを制するようにチェズレイの頬を撫でた。
「大丈夫、気持ちい、から……。丁寧すぎて照れちまうくらいだよ。なあ、もっかい、『Kiss』」
また、チェズレイに都合の良い命令(コマンド)。命じられるまま唇を重ねると、モクマの方から舌が差し挿れられる。指を挿入したままでは深いキスがしづらいと気付いて、それを察したモクマが口付けの合間に「いったん、抜いていいから」と小さく笑う。その言葉に従って一度指を抜いてから再び重ねた唇は、今度こそすぐに互いを貪り合うようなものに変わった。
モクマの口の中も熱くてくらりとする。初めて今夜触れたはずなのに、もうすっかりモクマとのキスが体に馴染んで、今までこれを知らなかったのだということに驚いてしまうくらいだった。
この熱を一度知ってしまったら、もう知らなかったときには戻れないと知る。けれど、もうそんなことを考えなくても良いのだろうと、離れないようにするみたいにチェズレイの頬を挟む両手が教えてくれる。その少し硬い手のひらがあたたかくて、その温度に自分の中の何かが綻んで、チェズレイの鼻の奥がツンとする。
覚悟を決めていた。一生、一人で生きていく覚悟を。己の矜持を握りしめ、Subであろうが誰かに下ることなく、その運命すら飲み下して。
それで構わなかった。人を信じる能力を失い、強い情念を濁らせ、その濁りは報われることもない。それが私の人生なのだと思っていた。
この男に出会うまでは。
――約束だの美学だのじゃ、はかれない情もある。俺にとってはそれが〝濁り〟だ。
――どっちでもかまわんよ。こっから先、お前が俺を連れてくなら。
――ニンジャさんが思うにはね。君の人生は、愛することだった。その愛情を、未来につなぐことだった。
――そんなあいつの、得がたい風味の根底に、君がそそいだ愛情がある。
あの雪深い国で、彼がくれた言葉たち。今になって思い出された母からの愛。
愛も、情も、私には最早与えられることのないものだといつからか考えるようになった。私のこの濁った情念は、いくら注いでも返らない虚しいものだと。
(……けれど、違った)
息が苦しくなって唇が離れる。しかしまだ足りなく思って、すぐにもう一度チェズレイから重ねた。モクマがそれを受け入れてくれる。どちらからともなく再び絡んだ舌のざらつきと弾力が、痺れるような気持ちよさを連れてくる。チェズレイが求めるのと同じ温度で、同じ強さで、モクマも返してくれる。
母を失い、父を葬り、一人で生きていくと決めたあの時に手放したはずだったもの。けれどそうじゃないと、相棒がチェズレイに教えてくれたこと。
私は、愛してもいいのだ。愛されてもいいのだ。
(なんだっていい。この内側に渦巻くあなたへの濁りも、欲も、Subとしての本性だって、その全部が私だ。私が目を背けた私すら、あなたがそうやって見つけ出してくれるのなら)
唇を離すと、どちらのものか分からない唾液がふたつの舌の間を伝う。いやらしいと思うのに、今はそれもただチェズレイの興奮を煽るばかりだった。
至近距離でモクマを見下ろす。頭を優しく撫でられ、蕩けた瞳に見つめられ、ふっと優しく緩んだ口元がこちらに囁く。
「……いいこ、チェズレイ」
ひどく甘く、愛おしげな声で囁かれたCareの言葉に、ぐらりと頭が揺れて、強い酩酊が全身にまわるようだった。そんな強い感覚に、思わずチェズレイは熱い息を吐く。しかしそうやって息を吸って、吐いて、繰り返しながらチェズレイの全身に満ちていくのはただただ強い幸福感ばかりだ。
本当はずっと、これが欲しかった。
自分に嘘を吐いて、自分を謀り続けていたのは自分の方。私自身が、私の本当の望みを見誤っていた。いや、見つめないようにしてきた。
(……本当は、私は、こんなふうに満たされたかった。――私が目を背けたこの欲を、誰かに受け取って欲しかった)
そしてそれは今や〝誰か〟ではない。
他でもない、私のDomにどうしても、受け取って欲しかったのだ。
そうチェズレイが気が付いたのと同時に、――ばちん、と何か自分の中で音がしたような気がした。