光跡-準備号- sample

Prologue


 亜双義の言葉に、バンジークスはまず自分が何か聞き間違いをしたのかと思った。若しくは冗談か何かか。しかしこちらを見上げる亜双義の眼差しはバンジークスを貫かんとするばかりに鋭く、熱く、真剣なものだった。逡巡の後にバンジークスが「……もう一度言ってくれ」と言うと、亜双義は躊躇う素振りも見せずもう一度同じことを口にする。
「オレは、検事として貴君のもとで学ばせて頂きたい。……世間に《真実》が公表され、これから英国司法に対する反発は大きなものとなるでしょう。その象徴として、貴君に敵意を向ける人間も出てくると予想される。従者だった頃と同様、貴君の護衛役を務めることもオレならできる。具体的に何を教えて貰わずとも構わん、勝手に見て学ぶからな。ですからオレに、弟子入りの許可を頂けませんか」
 どうやら聞き間違いではなかったようだった。驚きに言葉を失うバンジークスとは対照的に、亜双義は流暢なクイーンズ・イングリッシュで自分を弟子に取るメリットを説く。
 あの極秘裁判を経て、バンジークスへの容疑も晴れてようやく戻ってきた自分の執務室。バンジークスと亜双義の二人きりのこの広い部屋は、互いに言葉を止めるとしんと静かだ。大きな窓の外は倫敦らしい薄曇りで、雨が降りそうで降らない、そんな均衡を保っていた。晴れにも雨にも転じず、曖昧でどちらともつかぬその天気は、まるで名前をつけがたい自分たちの今の関係にどこか似ていた。真っ直ぐに向けられる亜双義の視線にどこか居心地が悪くなり、僅かに身動みじろぎをした拍子に床に擦れたブーツが立てたほんの小さな音が、いやに大きくバンジークスの耳に届く。
 貴公はそもそも当初弁護士を目指していたのではなかったのかとか、留学生としての支援を受けられるか母国と交渉は済んだのかとか、訊きたいことは色々とあったが、しかしバンジークスは一番の疑問を亜双義にどうにか絞り出した声でぶつける。
「…………。何故、私なのだ」
 バンジークスの言葉は予想していたのか、亜双義に動じる素振りはない。胸の前で腕を組んだ亜双義は、まるで当然のことを言うようにバンジークスへの回答を口にする。
「貴君が、英国で最も優秀な検事だからだ」







1.薄氷に立つ


 事件現場は入れ替わり立ち替わりにやってくる倫敦警視庁スコットランドヤードの刑事でごった返していた。手がかりの少ないこの事件、警視庁(ヤード)も何かしらの証拠を見つけようと躍起になっているのだろう。担当検事となったバンジークスも、警視庁の初動の報告では不明点が多かったこの事件について自らの目で調査をすべく、こうして現場に足を運んだのだった。
 閑散とした住宅街、古い下宿の一室で起きたこの殺人事件は、とにかく目撃者が少なかった。この辺りは元々住んでいる人が多くない上に、平日の日中に起きた事件であったから、皆働きに出ていたり用事で外出をしていたりで、近隣の住人も家に居ない者がほとんどだったという。それゆえに、目撃証言を集めることも一苦労という状況だ。
 目撃者は引き続き探しつつ、事件現場に何か証拠が残っては居ないか改めて徹底的に室内の捜査を行っているところだ。バンジークスも警視庁の刑事に混じり、室内を検分していく。どこから漏れているのか隙間から真冬の風が入り込んでバンジークスの肌を刺す。少し歩けば、古くなった床板が小さく悲鳴のような音を立てた。長い間手入れがされていない部屋らしい。ちょうど被害者が倒れていた辺り、床に残された血痕の周辺を捜査するためしゃがみ込んでいた若い刑事がその音に顔を上げ、間近にバンジークスの姿を認めてその身を緊張に強張らせたのが分かった。バンジークスが彼と同じように、付近の床の捜査のため身を屈めると彼の緊張の気配が更に大きくなる。態度に出さないように頑張っているのは伝わってくるが、それでも間近にバンジークスがいるという状況はどうしても意識してしまうのだろう。彼に申し訳なく思う気持ちも多少はありつつ、これも日常茶飯事だ。仕事なので気にしていても仕方が無いと、バンジークスは何も気付いていない風を装って淡々と捜査を続けていく。
 グレグソン刑事の死を巡る極秘裁判、そしてプロフェッサー事件の真実が暴かれて数ヶ月。全ての真実が英国中に公表され、十年間この国に君臨し続けていた《死神》の正体も明らかになった。バロック・バンジークスは《死神》ではない――そう世間に伝えられ、多くの市民はその真実を戸惑いながらも受け止めたようだった。
 だが、頭では分かっていても、感情がなかなかついていかない者も多いだろう。バンジークスは未だ自分に対して戸惑いや恐れ、緊張を抱き、遠巻きに見る者が少なからぬ数存在することを未だ感じていた。バンジークスが《死神》と呼ばれ始めて以降、それの本当の正体が明らかになった現在に至っても、自分に気軽に話しかけるような人物はこの英国中を探してもごくわずか。物好き、と言ってもいい。それも仕方が無いことだろうと思う。理解できることと割り切って受け止めることは必ずしも一致しないと、自分自身も実感としてよく分かっている。だから、自分に出来ることといえば、自分の仕事を淡々とこなし積み重ねていくことだけだった。
「バンジークス検事」
 と、よく通る快活な声が、恐れも躊躇いも無くバンジークスの名を呼んだ。聞き間違うこともないその声音の持ち主は、数少ない英国の『物好き』の一人である。部屋の入口付近から飛んできた声にバンジークスが顔を上げると、茶色のジャケットに鳥打帽ハンチングを被った黒髪の青年が警視庁の刑事を掻き分け、革靴を鳴らしてバンジークスのもとへ歩いてくる。バンジークスが立ち上がるのと、身長の割に歩幅の大きい彼がバンジークスの目の前に辿り着くのはほとんど同時だった。
「アソーギ検事」
 カツン、と立ち止まった彼の靴が小気味良い音を立てる。同時に、床板もまた僅かに軋んだ音を立てたけれど彼は気にする様子は無かった。バンジークスを見上げ、亜双義は口を開く。
「目撃者を一人見つけました。斜向かいのやしきに住んでいる少女です。ここから逃げていく見慣れない人間、犯人とおぼしき姿を見たと。残念ながらその人物の顔は見ていないようですが――しかし証言に興味深い点が」
 亜双義の報告に、バンジークスは僅かに目を見張る。バンジークスは室内の捜査を担当する傍ら、亜双義には付近の住人などで何かしら情報を持っている人はいないか、警視庁の刑事らに同行し再度聞き込み調査を行って貰っていたのだ。警視庁の最初の捜査では、その結果は振るわなかったと聞いていたが。
「目撃者がいたのか」
「ええ。当然警視庁も最初の捜査で、かの邸の一家に聞き込みはしていたようでしたが、なにしろ近所で凄惨な事件が起きた直後でしたから彼女も怖くて言い出せなかったようで。再び訪ねてみたところ、勇気を出して話してくれました」
「成程」
 バンジークスが頷いたのを見て、亜双義はメモを片手に彼女の証言内容とその他周辺の調査で得られた情報、それらと事前に確認していた事件のデータも踏まえた私見を簡潔にバンジークスに報告をした。新たな情報と、亜双義の的確な見立て。それが真実であるかどうかはさらに調査をしなければ分からないが、膠着に陥りかけていた捜査に少なからぬ進展をもたらすものであることは確かだった。
「確かに貴公の言う通り、その点の確認を行った方が良さそうだな。警視庁とも連携して調査を進めよう。御苦労だった」
 亜双義に労りの言葉をかけた後、バンジークスは「……流石だな」と付け足す。それは心からの言葉だった。
 数ヶ月ほど側で検事の仕事を見せてきた東洋人の弟子は、元々頭の回転は速いと思っていたが、めきめきと検事の仕事を覚えていった。優秀な男だ、というのが改めての印象だ。彼については、ミスター・ナルホドーからも学生にして弁護士資格を取った大日本帝国きっての秀才と聞いていたが、その評は正しいのだろうと彼の師としてそばで見ていて思う。
 バンジークスの言葉に、亜双義はぱちりとその目を瞬かせる。そしてふっとそのいつも真っ直ぐで鋭い雰囲気が、ほんのわずかに和らいだような気がした。
「ありがとうございます」
 そう礼を言った後、亜双義は「室内の調査はもう終わっていますか?」と聞いてくる。バンジークスが「いや、あともう少し調べたいところが残っている」と返せば、この国で吸収できるものは全て吸収せんという勢いの勤勉な弟子は、外での調査から戻ってきたばかりだというのに「ではオレも手伝いますよ」と勢い込んだ様子で鼻を鳴らした。



 調査を追えて外に出ると、吹き付ける風の冷たさにバンジークスは眉間の皺を僅かに深めた。空は重い曇天が覆っていて、まだ昼間と言える時間であるというのにどこか薄暗い。ここに着いた時より幾分気温が下がっているようだった。少し出てくるだけだからと軽装で来てしまったが、やはり暖かい外套コートを着てくるべきだったとバンジークスは後悔する。
「馬車が見当たりませんね。まあ、ここから検事局まで歩いてもそうかからないですし、歩きましょうか」
 バンジークスの隣で通りを見渡しそう言う弟子の姿は、外套どころか薄手のジャケットを腕捲りし、肘から下の素肌を晒している。しかも、先程までずっと室内にいたバンジークスとは違い、亜双義はこの格好のままずっと外で聞き込みや調査を行っていたのだ。服装は亜双義の自由であるし、外の調査担当を買って出たのは亜双義自身だったが、もう少し慮ってやるべきだったかとバンジークスは内心で自省する。とはいえ当の亜双義はといえば、バンジークスのように寒さに身を縮ませているといった様子もない。
「寒くはないのか」
 バンジークスが問えば、亜双義は「いえ、全く」と腕を組み当然といった様子で返す。この気温で寒くないと言ってのけるのもバンジークスには信じがたい。痩せ我慢なのか、それとも若さや人種ゆえに体感温度が違うのか――いや、彼と同郷で同い年のはずのミスター・ナルホドーは倫敦の冬についてしきりに寒い寒いと言っていた――そんなことを思いながらバンジークスは言葉を続ける。
「……薄着なのは自由だが。この気温で腕捲りまでして、風邪を引いたらどうする」
 それはバンジークスの心からの心配であったが、そんな師の気遣いを亜双義はハンと鼻で笑って一蹴した。
「この程度で風邪を引くような軟弱者と思われているなら心外ですよ。そんなヤワな鍛え方はしていない。貴君こそ随分と寒がっているようだが」
 自分に水を向けられ、バンジークスは小さく息を吐く。
「この気温ならほとんどの人間は寒いと思うだろう」
「鍛え方が足りんな」
 毎朝の鍛錬を怠らない勤勉な若者は、バンジークスの一般論をばっさりと斬り捨てた。

 この優秀で勤勉で、師に対しても臆さない我の強い青年がいつも隣に居る日々が、いつしかバンジークスの新たな日常となっていた。あの事件が終幕を迎えるのとほぼ同時に、亜双義一真を正式にバンジークスが弟子に取ってから数ヶ月。もとより死亡したものと扱われてきたはずが実は生きていた上、極秘裁判で明かされた様々な真実、さらに当初は弁護士として留学資格を得たにもかかわらず検事として留学を続けると勝手に方向転換した亜双義の扱いを本国は相当に苦慮したらしい。しかしミスター・ミコトバの多大なる助力もあり、紆余曲折の末なんとか正式に亜双義は司法留学生として留学を継続できることになったという。
 そうして今、亜双義は毎日バンジークスの側につき、検事の仕事を学んでいる最中だった。仕事中はもとより、亜双義はバンジークス邸の一室を借りて暮らすこととなったため、公私ともにほとんどの時間を共に過ごす日々である。潤沢とは言えぬ留学費を浮かせる目的が半分、もう半分は現在の不安定な倫敦の法曹界、そして治安の中でのバンジークスの護衛のためであるというのが亜双義の談だった。バンジークスはそこまでして貰わなくとも自分の身は自分で守れると言ったのだが、亜双義は折れなかった。とはいえ前者の留学費の節約という点に関しては、バンジークスもこの青年に自分が出来ることがあるのならという少なからぬ思いもあった。だから最終的には亜双義のその提案を受け入れ、邸の部屋を貸すことにしたのだった。
 亜双義が従者として自分に付き従っていた頃と同じようなものだと言われればそうなのだが、あの時と今では事情が全く異なる。何者とも知れなかった従者を相手にするのと、真実を互いに全て知った今亜双義を相手にするのでは話が違った。だからバンジークスは当初は亜双義とどう接するべきか悩んだものだ。
 しかし亜双義が公私をきっぱりと割り切ってバンジークスに遠慮無く接してくれるおかげで――些か師に対して遠慮がなさ過ぎる気もしなくは無いが――、バンジークスも変な遠慮や緊張も薄れ、徐々にではあるが素直に亜双義に接することができるようになってきていた。こうした軽口のようなやりとりもすっかり自分たちの日常である。
 あの極秘裁判の時に懸念された通り、プロフェッサー事件の真実が明らかになって以降の英国は文字通りの大混乱となった。英国司法の信頼は失墜し、《死神》の抑止力は消え、バンジークス家への風当たりも著しく強いものだった。治安が一時的に悪化するのも予想通りで、事件の数は増加し、法曹界は立て直しに奔走しつつも日々舞い込む様々な事件を捌かなければならず、一言で言うと相当に多忙であった。
 とはいえ、バンジークスにとってはこの忙しさはある意味で良かったのかもしれない、とも思う。
 検事の職を辞そうとしたところを亜双義に引き留められ、まだ迷いを抱きながらも今日に至るまで結局検事の仕事を続けている。次から次へと積み重なっていく仕事をひとつひとつ捌いていくうち、気付けば数ヶ月が経っていたというような状態だった。まだ、迷いが消えたわけではない。私が検事の仕事を続けていいのか――ということは、バンジークスにとって未だ難しい問いであった。しかし、自分の検事としての力がこの英国司法の未来に役立つのであれば、そしてこの青年が検事の道を歩む上での糧になるのであれば、という思いがあの日以来のバンジークスを検事の職に踏み留まらせてきたように思う。

 ふと視界の端に小さな白い粒が舞った。それにバンジークスが気付くのと、半歩先を歩く亜双義がぱっと顔を上げ呟くのはほとんど同時だった。
「雪、ですね」
 バンジークスも亜双義につられるように天を見上げる。倫敦の空を重く覆っていた曇天からちらちらと白い粒が降り落ち始めていた。粒のひとつがバンジークスの鼻の頭に触れ、バンジークスはわずかに冷たさを感じる。



(後略)




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