(中略)
――西暦二○××年、東京
バンジークスから、春先にまとまった休みが取れそうだから日本へ行こうと考えている、と連絡があったのは年が明けて少しした頃のことだった。
土曜日の朝、亜双義がいつものように目を覚ましカーテンを開けたのとほとんど同時に震えたスマホでそのメッセージ通知を見た瞬間、わずかに残っていた眠気など完全に吹っ飛んだ。そのメッセージをもう一度読んだ後、亜双義は迷わずチャットボックスではなく通話のアイコンをタップする。たった今届いたメッセージなのだからきっと今すぐならば通じるだろうと思ってのことだが、予想通りコール音はすぐに途切れバンジークスの声が耳に届いた。
『もしもし』
「バンジークス卿、本当ですか? 日本に来るというのは……」
電話が通じるやいなや勢い込んで言った亜双義に対して、バンジークスが電話の向こうで苦笑する気配がした。
『本当だ。しばらく仕事が忙しかったのだが、ようやくまとまった休みを取れそうなのでな』
「……、そうか」
バンジークスの冷静な返事を聞いて、亜双義は逸った気持ちが少しだけ落ち着いてくる。その代わり、じわじわと湧き上がってきたのは喜びだった。
あのバンジークスとの再会の日から数ヶ月。仕事で日本に来ることもあるから来るときには連絡をするとバンジークスは言ったが、あれ以来彼の日本への出張は無いようで、メッセージアプリを通じて連絡を取り合うことはあったが直接会う機会は訪れないままだった。それならばこちらから英国へ行こうと亜双義は言ったが、そなたはまだ学生だろう、学生にとって海外旅行費なんて大金なのだからそう簡単に使うものではないと滾々と説教をされ――前世で学んだことだが、こうなった時のバンジークスは頑固でどうしたって折れないのだ――、『悪いが待っていてくれ』などと言われてしまった亜双義は、結局時が来るのを待つことしかできなかったのだった。
だが、まさかバンジークスがわざわざ休暇の調整をしてまで日本に来る準備をしていたとは。話を聞いたところ彼は今世でも非常に優秀な人材であるようで、仕事はいつも多忙なようだった。世界的に展開している老舗の企業に勤めており、日本以外にも海外出張をすることも定期的にあるのだとか。彼が仕事に真面目すぎるほど真面目な人間であることは、前世で誰より近くで彼の仕事を見てきた亜双義にはよく分かっていた。だから無理は言えないと、多忙な彼と再会するには彼が仕事で日本に来るタイミングを待つか、無理やり自分が出向くかしかないかと思っていたのだが。
「春先、と言うと三月か四月頃ですか。もう日程は決まっているのですか?」
亜双義の問いに、バンジークスは答える。
『ああ。四月の上旬を予定している。日付は――』
バンジークスが答えた日付を聞いて、亜双義はふとあの前世の記憶のことを思い出す。幾度も夢に見たあの春の日のこと――他愛も無い、叶わなかった〝約束〟の話だ。
「……その時期ならきっと、丁度桜が見頃ですね」
思い出して、少しだけ彼に言ってみたい思いが生まれ、ぽつりと亜双義はそう零す。覚えていなかったならそれで構わない。そう思っていたのだが、電話の向こうのバンジークスは亜双義の言葉に一瞬沈黙し、それからゆっくりと口を開いた。
『そうだな。だからこそ、出来るなら春にと思っていた』
そんなバンジークスの返事に、亜双義は思わず息を詰めた。この言葉だけでは確証は無い。しかし亜双義は、確かめたくなった。
(……その言葉は、どういう意味で?)
己の心臓の音が聞こえる。自分は今、期待をしている。亜双義はすうと息を吸って、バンジークスに以前聞けなかった問いを正面からぶつけた。
「覚えていますか。昔、英国でオレたちが〝約束〟したことを」
また、一瞬の間。きっと今目の前にバンジークスがいたならば、軽く目を見開き驚いた顔をしているのだろうと思った。見えないけれどそんな想像が容易にできるくらいには、自分はかつて彼の側にいたのだ。
心臓は未だ高く鳴っている。しかし、バンジークスの沈黙を通して、亜双義は己の期待がじわりと確信に塗り替えられていくのを感じる。亜双義はバンジークスの返事を待ちながら、明るい朝の日差しに包まれた部屋の中を眺めていた。こちらが朝ならば、向こうは夜だ。英国の静かな夜の中で、言葉を探している彼を亜双義は頭の中で思い描いた。
ややあって、電話口から『……覚えている』という言葉が返ってきた。そしてバンジークスはふっと小さく息を吐いてから続ける。
『漸く、果たして貰う日が来そうだな』
亜双義はひとつ瞬きをする。窓の外から真っ直ぐに射し込む朝の光を、電話越しのバンジークスの言葉を噛み締めながら、亜双義はいやに眩しく感じていた。
――前世の、唯一の後悔だ。
自分のやるべきことはやりきった、と言える人生だった。検事として黎明期の日本の司法の改革に尽力し、よき友にも恵まれ、後年は後進の育成にも力を注いだ。かつて望んだ夢、己の《使命》とも言うべき役割は当時できうる限りのことを果たしたと感じている。
そんな中で、彼との〝約束〟はずっと心に残ってはいたものの果たせなかった唯一のことだ。だから自分はあの日のことをよく覚えていたし、今なお執着するような思いを抱いている、と――
(オレはそう思っていた。……いや、思い込もうとしていた、か?)
それはきっと、この後悔と執着の本当の形に気付かないためだ。
自分の心を欺こうとするなど愚かなことだと俯瞰した自分自身は思うが、しかし、そうしないとこの思いの置き所を見つけることがあの頃の自分にはできなかったのだ。人の心は矛盾しているもの。それは自分自身もよく分かっていたから、あの頃の自分を責める気は起きない。
だが、どうしてオレはあの日の〝約束〟に百年以上の時を経ても執着しているのか。
――あの〝約束〟を通じて、それを交わした自分と彼とのあの時間を通じて、あの時の亜双義一真は何を感じ何を思っていたのか。先程のバンジークスの言葉を思い出し、亜双義は高く鳴る心臓とは裏腹に、どこか凪いだ思いでもいた。
その答えを、自分は、いい加減に見つめるべき時が来たのかもしれなかった。
◇
空港のロビーの人混みの中で、長身のバンジークスはよく目立った。ゲートを出て、大きなスーツケースを引いてきょろきょろと辺りを見渡す彼に「バンジークス卿!」と声をかけて手を振ると、彼はぱっとこちらを向く。無事に合流できて少し安心したような表情でこちらへ歩いてきた彼は、しかし亜双義の表情を見るなり眉根を寄せ訝しげな表情を浮かべる。
「お久しぶりです」
「久しぶりだな、ミスター・アソーギ。……非常に機嫌が悪そうだが?」
バンジークスの指摘に、亜双義はむっと唇を尖らせる。そう真正面から言われて、子どものようで恥ずかしい気持ちと、抑えられない苛立ちが亜双義の内で戦って、そして後者が勝った。
「……それは、機嫌も悪くなるでしょう」
亜双義はふいと視線で窓の外をバンジークスに指し示す。空港の開放的な大きな窓の外は、視界が煙るほどの雨。大粒の雫が音を立てて窓を叩いていた。
この時期にしては珍しいほどの大雨は、先日ようやく見頃を迎えた桜の花を散らせてしまうだろうと今朝のテレビで気象予報士が言っていた。この日に大雨がありそうだという予報は少し前から見ていたが、予報が見事に当たってしまい、亜双義はなぜ今日なのだと苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
本来であれば、今日や明日にでも見事に咲き誇った桜――百年前と変わらず見事に咲き誇る、勇盟大学近くの桜並木を案内する予定だった。今日の雨で全てが散りきってしまうことはないのかもしれないが、亜双義が彼に見せたかった一番綺麗な姿を逃してしまうことは確かだろう。
(思い通りにいかなくて臍を曲げるなど子どものようだ。だが、期待していた分……)
はあ、と思わず息を吐きたくなるがそれはどうにか堪える。腕を組んで眉根を寄せ窓の外を睨みつけていた亜双義だったが、バンジークスに促されて漸く駐車場へ向けて歩き出した。電車移動でもよかったが、亜双義はこちらの方がゆっくり話せて小回りもきくだろうと、今日はレンタカーを借りて空港までバンジークスを迎えに来ていたのだった。
車に乗り込み、エンジンをかける。この雨では花見どころではないし、観光といっても外を出歩くような天気ではない。長旅でバンジークスも疲れているだろうし、今日はゆっくりするのがいいのだろうと冷静な自分が考える。しかし出鼻を挫かれたせいで、まだ亜双義の心はささくれ立っていた。
カーナビに目的地設定をして、亜双義は車を発進させた。車内では適当につけたラジオの音が流れている。ずっと古い洋楽が流れているので、そういう特集番組らしかった――古いとはいっても、流石に前世の亜双義たちが生きていた時代よりは後の楽曲ばかりだが。
静かな洋楽と、窓を叩く雨の音。言葉少なな車内では、それらがいやに大きく聞こえた。空港からすぐ繋がっている高速道路に入り、速度を上げて真っ直ぐな道をしばらく走らせる。窓を叩く雨が車の速度に比例するように横に滑るように流れていった。
高速道路を走る間、この後の予定はどうするか、食事は何を食べたいかなどぽつりぽつりと話はするが、再会してから今まで幾度も交わした電話の時のような滑らかな会話ではなかった。機嫌の悪い自分に、助手席のバンジークスもどう接するか考えあぐねているのを感じる。折角待ちに待った日だったというのに、我が儘な子どものような拗ね方で師に気を遣わせていることに対し、亜双義はじわじわと自己嫌悪を抱く。
「……すみません」
しばらく続いたぎこちない会話の後に亜双義が零した言葉は、ともすれば音楽や雨音にかき消されてしまいそうなほど弱々しいものだった。しかしすぐ横に座るバンジークスは、その言葉をきちんと聞き取ってくれたらしい。
「なぜ君が謝る? この悪天候はアソーギの所為ではないだろう」
「それはそうですけど。……何時までも臍を曲げて、貴方に気を遣わせてしまっている」
亜双義が言えば、バンジークスはふ、と苦笑して「自覚はあるのだな」と言う。そう言われ、亜双義はますます己が恥ずかしくなった。
「貴方は昔からそういうところで意地悪ですよね」
「すまない、しおらしくしているそなたが珍しかったのでな。……この雨が上がってからでも、多少は花は残っているのでは? 私はそれでも構わない」
「それはそうかもしれませんけど、それではオレの気は済まないのだ。オレがあの時貴方に見せたいと思ったのは、そんな中途半端なものではない。満開のあの美しい光景を見せたかった。だから……」
「……相変わらず、完璧主義だな、そなたは」
バンジークスに言われて、亜双義はまた小さく唇を尖らせる。捜査や準備に完璧を期そうとすることは良いことだが、拘りすぎて考えを誤りそうになったり、事件を深追いし危険を冒してはバンジークスに怒られたりしていた前世でのことを亜双義はつい思い出してしまうのだった。
フロントガラスを叩く雨粒をワイパーが拭っては、粒がガラスの端へと流れ落ちる。視界は未だ雨に煙り、遠くまで暗い雲が覆っていた。
そうこうしているうちに、空港から続いた高速道路も終わりの地点に来ていたらしい。亜双義は正面を見つめてハンドルを切った。スピードを緩めて料金所に入り、高速料金を支払う。下道に降り、また車を走らせ始めてから亜双義はバンジークスに返事をする。
「悪いですか」
「いや、悪くない。……私のために、そのように思ってくれたことを嬉しく思う」
そう言うバンジークスの声は優しく、亜双義は少し驚いた。彼が、亜双義に対してこんな風に素直に柔らかい言葉をかけることが亜双義には意外だったからだ。
再会した日の夜の電話でもそうだった。前世の彼は英国人らしい皮肉屋な面もあったし、師として面倒をみなくてはという気負いだとか、年上としての矜持だとか、そういうものもあったのかもしれない。とにかく、こうして亜双義に対して柔らかな表情をみせ、素直な感情を露わにすることは、やはり珍しいように思ったのだ。
「バンジークス卿――」
亜双義は思わずといったように彼の名を呼ぶ。バンジークスはちらと亜双義の方を見て、それから再び窓の外に視線を移した。窓の外は代わり映えのない雨の景色だ。
「確かに今日は残念だったが、桜は今年だけというわけではないだろう。また来年、見に来れば良い」
それからバンジークスは、すうと目を細めて続ける。その横顔は、かつての遠い時代に思いを馳せているように見えた。
「そうだろう? ……もう、何ヶ月と船に乗って、やっと海を越える時代ではないのだから」
バンジークスの言葉に、亜双義の心臓が鳴る。そして亜双義は、この日の約束をした数ヶ月前の電話でのことを思い出していた。
(……何ヶ月と船に乗って、やっと海を越える時代。それは、あの頃のオレたちにとってあまりにも遠かった)
だから。叶える日が来ると良いと思いながらも、望むべくもない、ともオレは心のどこかで思っていたのだ。〝約束〟を果たすことも、いつの日かの再会も、そして。
(――貴方も同じように思っていた? オレと離れてからも、ずっと。だからこそ貴方も……)
交差点に差し掛かり、信号はちょうど赤信号になる。ブレーキペダルを踏み、車はゆっくりと停止した。窓を叩く雨の音と穏やかな洋楽が、黙り込んだ二人きりの車内に静かに響いている。亜双義は上の方に持ったハンドルをぐっと握りしめた。瞳を一度瞬かせた亜双義は、覚悟を決めて口を開く。すうと大きく吸った自分の息の音がいやに大きく聞こえた。
「ひとつ、訊いて構いませんか」
(後略)