アフター/アフター・ザ・レイン収録「A farewell gift for "you"」 sample

「やあ《死神》クン! 聞いたよ、日本で恋人と同棲するんだって?」
 出会い頭にそう言ってきた男に、バンジークスは思い切り顔を顰めた。呼ばれたその異名は、もう現代ではこの男一人しか呼ぶ者のいない名だ。目の前の鹿打帽ディアストーカーを被ったブロンドの男――シャーロック・ホームズは前世から寸分違わぬいけ好かない笑みを浮かべ、爛々らんらんとした目でバンジークスを見ている。今から目の前の男を揶揄からかって遊びますよ、という魂胆が顔に書いてあるようだ。
 夕暮れの倫敦ロンドン、仕事から帰る人々やこれから飲みに出ようかという人々が交差する、とりわけ人通りの多い中心街でのことである。
 何故貴公がそれを知っているのか、とか、恋人とは喧伝していないが、とか、この男はわざわざそれを言うために私を捕まえに来たのか、とか。そんなことを一瞬のうちにバンジークスはぐるぐると考える。そもそも、往来で大声でそんなことを言うな。周囲の視線が痛い。
 言いたいことは山ほどあったし喉まで出かかったが、バンジークスはこの男の相手をするべきではないといつもの判断を下した。この男がこちらの忠告を素直に聞くはずもない。労力の無駄だ。
「……失礼する」
 バンジークスがそれだけ言ってホームズの横を通り過ぎようとすると、ホームズはこんな時ばかり俊敏な動きでバンジークスの進行方向に立ち塞がる。
「おいおい、冷たいな! 日本に行ったら今みたいにそう簡単には会えなくなるんだから、たまには立ち話くらい付き合ってくれてもいいだろ?」
「そう簡単に会えなくなるのは願ったり叶ったりだ。キサマと話すことなど特にないな」
「ミスター・アソーギは元気だったかい?」
 ホームズを振り切ろうと歩調を早めかけたバンジークスは、ホームズの口から飛び出した名前に思わず動きを止めてしまった。
 その時点で自分の負けだったのだろう。ほんの一瞬でも油断を見せてしまえば、あとはこの男の掌の上だ。バンジークスが反応を示したのを見て、ホームズはにやりと満足げに笑う。バンジークスの行く手をどの方向からでも阻んでやろうと、まるでスポーツか何かのように無駄に横に動いてガードしようとしているさまが目障りだ。
 そう、この《探偵》はいつも頓珍漢な言動ばかりをしているように見えて、持て余した観察眼をこういう時ばかり発揮する厄介な男なのだ。前世からの付き合いであるバンジークスは、そのことを嫌になるほど分かっていた。
「何を驚いているんだい? 堅物のキミがそんな思い切った決断をするほど心動かされる相手なんて、も今も、彼しか居ないのは明白じゃないか」
 だからバンジークスは、この男が嫌いなのだ。

 今世に生まれ落ちてから、不思議なことにバンジークスは前世で縁があった人間に幾度も出会うことがあった。兄は今世でも兄であったし、その娘であるアイリスは今世では実の両親のもとですくすくと育っている。友人であるドビンボーも、ジーナ・レストレードやグレグソンも、現代で新たな生を生きていた。しかしバンジークスが英国で出会った彼らは皆、前世の記憶は持ち合わせていなかった。
 ただ一人を除いては。
 少なくともバンジークスが知っている限りで、自分と同じように前世の記憶を持つ、この国で唯一の人間。それがこの男、シャーロック・ホームズだ。前世では自称《大探偵》だったが、今世でも探偵を自称した自由業をしている。自分こそがあのシャーロック・ホームズなのだと今世でも喧伝して憚らないために、世間からはすっかり気の狂った要注意人物扱いをされているが。
 バンジークスは前世からこの男が嫌いだったが、しかし〝前世の記憶〟などという妄言ととられてもおかしくないようなものを共有できた、出会った当時のバンジークスにとって唯一の人間だった。そのことに若かりし頃の自分はほんのわずかにだけこの男に心を許してしまい、そんな過ちを犯したが最後、つけ込まれるようにまた腐れ縁が始まってしまい今に至る。その上、姪のアイリスは前世の記憶が無いはずなのに今世でも妙にホームズに懐いてしまい――前世での関係を鑑みれば致し方ないことだと言えるのかも知れないが――この縁が余計に今世でも切っても切れないものになってしまったのだった。

「キミたちがおさまるところにおさまったようで安心したんだよ、ボクは」
 とにかく、往来のど真ん中で大声で話すことだけはすぐに止めてほしかった。どうにか道の端まで寄ってもらうと、ホームズは建物の壁に軽く凭れ、かつてと似た型のパイプ煙草に火を点けて煙を燻らせながら話し始める。そのどこか得意げにすら思える口調で話を続けるさまに、バンジークスは苛立ちを隠さずにホームズを睨みつけてやった。しかしこの男はまったく気にする様子は見せない。
 ――知ったようなことを。と、バンジークスは内心で吐き出すように呟く。何故この男はそのようなことをまるで当然のことのように言うのか理解が出来ないと思った。この男にはなにひとつ話してはいないはずなのだ。前世からの自分の思いも、かつて亜双義と過ごした時間のことも、今世での再会も、それから今日までの顛末のことも。
「知ったようなことを、なんて顔をしているね。あれでバレていないつもりだったのがボクには驚きなんだが」
「……」
 バンジークスは黙り込む。しかしそんなバンジークスの沈黙を好機とでも思ったのか、ホームズは「まったく焦れったかったよ、こうなるまで百年以上かかるなんて。キミたちは気が長すぎる!」などとまるで流れる水のようにぺらぺらと話し続けた。放っておけばいくらでも話し続けるだろうこの男が好き勝手言い続けることへの苛立ちと、本当にこの男に全て見透かされていたのかという居たたまれなさや羞恥が込み上げて、バンジークスはそんな思いを少しでも落ち着けようと大きく息を吐いた。
「……結局、何を言いに来たのだ。こちらは知っての通り、引っ越しの準備や仕事の引き継ぎなどで忙しい。そなたの無駄話に付き合う暇は無い。用がないならこれで失礼する」
 バンジークスが言うと、ホームズはぺらぺらと喋っていた口を一度閉じて、小さく肩を竦めてみせた。

(後略)




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