光暈収録「感光」 sample

 パソコンの右下の時刻表示は、そろそろ日付を塗り替えようとしている。
 子どもたちはもう部屋で就寝している。ミハイは基本的に部屋から出てこないので知らん。今、事務所の執務スペース兼リビングにいるのは隠神一人だけだった。最近は随分と賑やかになった事務所だが、深夜になると随分と静かなものだ。しんとした部屋の中、隠神がパソコンを操作する音とクーラーの稼働音だけが静かに響いている。
 ここ最近の怪物屋はなかなか忙しい。最近では飯生からの紹介の案件だけでなく、口コミが口コミを呼んで、怪物の間でも随分と名が知れるようになったらしい。ちょっとしたお困りごとから命に関わる深刻なものまで依頼は途切れず入ってくる。おそらく他に類のない商売だということもあるだろう。
 それらの依頼を仕分けて、捌いて、諸々の事務作業も片付けて、とやっていたらこんなふうに深夜になってしまうことも間々あった。実働部隊としては晶や織、夏羽が担ってくれることも増えその点では多少楽になった部分はあるが、運営や事務に関わる部分は現状隠神が担うしかない。労働基準法とは……なんて考えて、怪物に労働基準法もクソもないか、と隠神は思い直した。埒もない問答だ。
 机に肘をつき、隠神はメールボックスにたまった新着の依頼メールを眺めていく。ざっと見た感じ緊急の依頼は無いようなので、着手は明日以降でいいだろう。そこまで難しいものもなさそうだから、あいつらだけで対応してもらっても良さそうだ。そう考えながら上からメールを開き、改めて内容を確認していく。
(あー、この怪物……確か前にも似たような案件があったな)
 あの時に集めた資料があったはずだ。捨てた覚えはないから、おそらくどこかしらにはあるだろう。経験を積む意味も含めて、その資料を渡してあいつらにやってもらおうか。そう思って隠神はデスクサイドの引き出しを開けた。整理されず適当に突っ込まれているファイルやら書類やらに一瞬げんなりするが、整頓を放棄した過去の自分の行いの結果なので仕方がない。古めの資料はここか、あるいはそのへんの棚の中に入っているはず。
 うーん、どこにやったっけなあ。心の中で呟きながら隠神は引き出しの中を漁る。なかなか見つからないので、棚の方に入れたのかもしれない。そう思って隠神がこの引き出しの捜索を諦めようとしたところで、引き出しの奥底にあるファイルが隠神の目に留まった。
 見覚えのある――随分と久しぶりに見たような気がしたそれに、隠神の手が思わず止まる。
(……あ)
 何の変哲もない、細身の青いファイル。けれど見た瞬間記憶が呼び起こされる。しばらくの間開いてもいなかったし、ファイル自体他の資料に埋もれてすらいた。けれど、忘れたわけじゃない。忘れるわけがなかった。
 あの日から十年、一度だって忘れてなんていないけれど。
「……」
 目的の資料ではないが久々に見たそれを、しかし隠神は今もう一度開こうとは思えなかった。――今は、まだ。隠神はファイルから手を離して、他の資料も再び適当に突っ込み直して引き出しを閉める。
 目的の資料探しのやる気もなんとなく削がれてしまって、まあどうしても今夜中にやらなきゃいけないわけではないし、と心の中で言い訳をして隠神はポケットから煙草を取り出し、火を灯した。口に含めば慣れた苦い味に、波立ちかけた気持ちがゆっくりと凪いでいくように思えた。紫煙が自分の肺を、事務所の空気を音もなく白く汚していく。
 最近は慣れたようで何も言わなくなったが、晶や織が来たばかりの頃は事務所がたばこ臭いと顔をしかめられたな、なんてことを不意に思い出す。そんな過去のことを思い出したのは、先程見つけたファイルに気持ちが引っ張られてしまっているせいだろう。
 あれは十年前。鳴と穴熊の事件を一人で追い始めた頃に集めていた資料だった。
 忘れたわけじゃない。今なお、あの時のことを思い出すと自分の中に苦しくどろついた感情が蘇る。息が詰まりそうになる。隠神は意識して大きく息を吐き、煙草の煙を吐き出した。
 けれど。あの時の自分と今は、全てが同じでもない。
 自分の中の変化に、隠神は気が付き始めていた。
 この一年ちょっとで、随分と怪物屋も変わった。いや、一年ちょっとというよりも、と隠神は思う。もっと明確な分岐点。一番の変化は。
 隠神は目を伏せて、瞼の裏に小さな影を思い描く。
(……夏羽)
 怪物の結石を持つ少年。織や晶にも色々な刺激を与え、夏羽が来て以来二人も段々と変わり始めているようだった。想定外だったがミハイと彼らにも面識ができ、稀にだが関わり合うようになっている。
 錆びた歯車が動く。皆それぞれ夏羽によって少しずつ変化している。そして、何より変わったのは――
 隠神は、ゆっくりと目を開ける。


(後略)






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