◇ 三月――上旬
(前略)
自分の中の絡まりそうな気持ちを振り切るように、花道は少しだけペースを上げた。短距離走ばりに走りすぎてバテないように気をつけながら。
そうやって無心で走っていたら、気付けばあまり来たことのない通りに出ていた。そう思って、少し遅れてから花道はハッとする。どこからどう走ってきたかを覚えていないから、帰り道が曖昧だったのだ。
(たぶん、あっちの方から来ただろ……あ、鉄橋)
遠くに電車の音が聞こえて花道がそちらを向くと、川にかかった鉄橋が見えた。あの鉄橋ならば、花道の自宅の最寄り駅と隣の駅との間にあるものだ。あれを目印にすれば帰れるだろう。そう結論づけて少しほっとして、もう少しだけ走ろうか、どうしようかと花道が考え始めた瞬間。この三年間何よりも聴き慣れた音が耳を掠めて、花道は反射のようにばっと顔を上げ振り向いた。
ドリブルの音だ。
振り向いた先にあったのは公園だった。道路の向こうにあったささやかなサイズの公園は、敷地の端にバスケットゴールがあるのが見える。こんなところにバスケできるところがあったのか、と花道は思う。それを囲うフェンスもいやに真新しい様子だから、もしかしたら最近できたばかりなのかもしれない。
周囲を植え込みや木に囲まれているから、コートの中の様子は遠くからではあまり見えない。平日の昼間だ、他に人がいる様子もないから一人でやっているのだろう。花道は興味を惹かれて、道路の向こうに渡って公園に近付いた。それにしても、随分速く鋭いドリブルの音だなと花道は思った。こんなドリブルをするのは、湘北だと前キャプテンの宮城リョータか、あるいは――
花道が植え込みの隙間から公園の中を覗いたのと同時に、ドリブルの音の主が地面を蹴り上げて跳ぶ。打点が高い。そしてその手の中のボールは、まっすぐにリングに向かう。
その黒い髪が白昼の太陽に照らされて光る。
(あ、……)
心臓が跳ねた。動けなかった。
目を奪われてしまった。
それはそのフォームの美しさにか、それともあいつの姿を偶然に見られたことに対してか。
多分、その両方だった。
ガン、と音がしてリングが揺れる。ダンクを決めた流川はわずかな間リングに掴まったままぶら下がり、そして手を離してすとんと降りた。先程のダンクと流川の体重を受け止めた余韻で、リングはまだ小さく揺れているように少し遠くの花道の目にも見えた。
ボールを拾いに行くため流川がこちらの方向に振り返ったので、花道は慌てて植え込みの影に隠れる。隠れてから、いや、やましいことをしているわけでは無いのだからこちらが隠れる必要もないのではと思ったが、さっきの今で顔を合わせるのは花道としては妙に気まずい。
まだ花道の心臓の鼓動は速くなったままだった。
隠れながら、ちらりと横目で再び流川の方を見る。流川はボールを拾い上げて、またゴール近くへと戻りドリブルを始めた。どうやら花道の存在には気付いていないらしい。そのことに花道は安堵してほっと息を吐いた。こちらに背を向けてドリブルをする流川の姿を、花道は植え込みの隙間からぼんやりと眺める。
流川の姿を見るのは久しぶりだった。花道も引き続き時々部活に顔を出してはいたし、流川も頻度は減りつつたまに来てはいたらしい。だから単純に、入れ違いになっていたから顔を合わせることがなかったようだった。
流川に、まだあの日の告白の返事はしていない。卒業式はもう、来週に迫っていた。
ゆっくりとドリブルをしていた流川が、不意に地面を蹴って走り出す。一気にゴールまでの距離を詰め、そして今度はジャンプシュートを打った。
あの高速のドリブルからの、踏み切るタイミング、フォーム。どれを取っても完璧なシュートだった。今の花道にはそれが分かる。痛いほどに分かってしまう。だから、目を奪われる。
それはあの時――一年のインターハイの豊玉戦の時以来ずっとそうだ。その前はこんなふうに気付けなかった。いや、節目節目で感じたことは無いではなかったが、悔しいからずっと認められずにいたのだ。
流川は上手い。
本当に悔しいことだが、流川のプレーがどれだけ優れたものであるかは自分がバスケのことを知り、そして上達していくごとに痛感させられるばかりだった。
だからこそ花道は流川のプレーをずっと見てきた。
だからこそ越えたかった。
あの日安西に言われたとおり、流川のプレーを見て盗めるだけ盗む。そしてその三倍練習する。そう思ってあれ以来ずっとやってきた。
流川の放ったボールは何の危なげもなく、まるで最初から決まっていたみたいに綺麗にリングを通って落ちていく。
これからもあの男を追いかけるのを止めるつもりは毛頭ない。流川との決着はついていないと思っているからだ。高校では決定的に流川に勝つことはできなかったかもしれないが、それでもいつか。いつかは――と思って花道は一旦流川とは違う場所になるがバスケを続けることを選んだ。バスケを続けていればまた必ず道は交わると信じていた。信じることで自分を鼓舞した。
だが、少なくとも数年間距離が離れるのは事実だ。
アメリカに行った流川のプレーを見る機会など、ほとんどなくなるだろう。流川をこんなふうに偶然見かけるのも、顔を合わせるのも、そして一緒のコートに入ることだって。
流川が自分のすぐそばから居なくなる。花道の日常の世界から流川が消える。
寂しい、なんて思うつもりはなかった。思わないようにしていたかった。だから冬の選抜が終わるまで、ずっと考えないよう押し込めていた。
流川はバスケにすっかり集中しているのか、こちらに気付く様子はない。だから花道はそのまま、流川の姿をじっと見つめていた。そうしていると、花道の心の内から溢れ出しそうな感情がある。
――流川がアメリカに行けば、その視線が花道を追うこともなくなる。
ボールを拾った流川が、着ていた自分のTシャツで軽く首元の汗を拭った。そして息を吐いて、再びドリブルを始める。
花道がバスケを始めた理由は、晴子のためだった。晴子に振り向いて欲しい一心でバスケを始め、そして続けるうち本当に自分でもバスケのことが大好きになった。
そして、最初はただ嫉妬で張り合っていただけだったが、本心から自分のために越えたい相手ができた。
バスケの試合に出て勝ち進んでいったら、花道は日本国内の高校生だけでもとんでもなく強い相手が沢山いることを知った。悔しいことにその時の自分では歯が立たなかった相手も、だからこそリベンジを誓った相手も一人二人ではない。
バスケを続けていくごとに、世界は広いことを知った。目の前にあったものだけが全部じゃないと気付いた。
それでも、いつだって一番勝ちたい相手は花道にとって一人だけだった。
どうしてあいつだったのか。あいつじゃなきゃダメなのか。今となっては花道自身もそれをうまく説明することができない。だけどあいつじゃなきゃ、とずっと思ってやってきた。
その存在に、その感情に、自分はどんな名前をつけようとしているのだろうか。この三年間、花道の中で大きな存在であったのは晴子だけではないということに、いい加減自分でも気付いていた。
(あー、くっそ……)
花道は心の中で、ぽつりとそう呟く。
認めたくなかった。その感情を認めてしまったら、自分が自分ではいられなくなるような気がして。
(後略)