はるのうた sample




 雨上がりのにおいがする。
 ゲートが開かなければ人によってはいっそ不気味と思えるほどに静かな夜の警戒区域の中は、自分たちの靴音と遠くの市街地の喧噪くらいしか聞こえなかった。夕方に降った通り雨のせいで、まだ警戒区域のアスファルトは乾ききっていない。その上に貼り付いている淡い桃色をした数枚の桜の花びらをうっかり踏んでしまいそうになって、おっと、と心の中で太刀川は呟いて足を退けた。もう散って地面に落ちてしまった花びらとはいえど、しかし踏んでしまうのはなんだか忍びないように思えたのだ。
 いつものように配置された支部の周りを適当に見回っていたが、今日はほとんどゲートも開かず静かなものだった。ゲートは決まったタイミングで決まった量が開くような性質のものでもないから、日によって何度もゲートが開く時もあればほとんど開かない時もある。今日は後者だ。つまらんなあ、だなんて言う人を間違えれば不謹慎だと眉を顰められてしまいそうなことを心の中で思いながら、そろそろ防衛任務の時間も終わるため担当の支部の方へとのんびりとした歩調で戻っていく。
「太刀川さん、つまんねーって顔に出てますよ」
「お、出てたか」
「そりゃもう」
 出水が太刀川の顔を見ておかしそうに笑う。しかしつまらないものはつまらないのだから仕方がない。その奥で唯我は、今日はほとんど戦闘にならなかったからあからさまにほっとした顔をしていた。
 支部の建物の前まで辿り着くと、次のシフトらしい荒船隊がもう到着していた。
「お、次のシフトは荒船隊か」
「太刀川さん。お疲れさまです」
 荒船が軽く頭を下げながらそう言ったところで、国近から通信が入る。
『みんな、ちょうど時間だよー。うちのシフトはこれで終了ー』
『お、そうか』
 国近にそう返してから、荒船隊の面々に向けて再び口を開く。
「じゃ、後頼むな」
「はい」
 そう言って荒船がキャップの鍔に手をかけて、きゅっと被り直す。「ま、今日はあんまゲート開かなかったから暇かもしれないけどなー」なんて付け足すと荒船や穂刈には苦笑されてしまった。
 荒船隊が先程までの自分たちと同じように見回りを始めたその背中を見送ってから、太刀川は再び隊員たち専用の回線に通信を送る。
『よーし、そんじゃ今日の防衛任務は終了だ。お疲れー』
 そう言うと、おつかれさまー、おつかれさまです、と口々に返ってくる。出水が大きく伸びをしながら、「あー、帰ったら英語の課題やんなきゃ、めんどくさ」なんてぼやく。
「大変だなー高校生」
「太刀川さんだって学生でしょ。まあ今年も無事進級できたみたいでよかったっすけど」
 少し前、今よりまだ肌寒かった頃に、太刀川が進級できるかどうかで同じ大学に通う隊員たちを巻き込みながら結構てんやわんやになったことを出水も知っている。どうにかこうにか試験や提出物をさばいていき、最後のレポートの提出次第で進級できるかどうかが決まるギリギリのところを締切十分前でどうにか提出し、教授の温情も込みでどうにか単位が貰えるかのボーダーラインに滑り込んだのだった。
 あの時は流石の太刀川でもヒヤリとしたが、しかし何とかなったので今はそのこともなっはっはと笑い飛ばすことができる。巻き込まれた一人である風間あたりが聞けば、眉根を寄せて「お前はもっと反省しろ」と睨まれることだろうが。
「ってことなんで、じゃ、お疲れさまでしたー」
「お疲れさまでした」
「おー、おつかれ」
 そう言って出水と唯我が換装を解き、通りをまっすぐに歩き始める。出水と唯我の家はここからだと太刀川の家とは別の方向なので、ここでお別れだ。
 支部から二人の家の方に続く道には桜並木が立ち並んでいるけれど、その花はもうすっかりまばらになっていた。柔らかな夜の風が僅かに残った桜の花をちらちらと揺らす。ひらり、と花びらが一枚風に浚われるように離れて太刀川の目の前を通り過ぎていった。
 今年の桜は、開花して早々に大雨でほとんど散ってしまった。それを太刀川はなんだか妙に残念に思っていた。別に特別に桜が好きというわけでも、花見をするのが好きだというわけでもないと思うのだけれど――。太刀川は自分でもこの感情の理由をうまく見つけられないでいた。まあ、別に見つけられなかったからといって何だというわけでもないのだけれど。
 無機質な街灯に照らされた葉桜を眺めながら、任務が終わったのだから自分も帰ろうと換装を解こうとする。と、その直前、『――太刀川さん』と聞き慣れた涼やかな声で名前を呼ばれた。生の声ではない。トリオン体同士の通信だ。
『迅?』
『はーいこちら実力派エリートですよ。おつかれー』
 特に任務を一緒にしていたわけでも、この後何か合流の予定があった訳でもない。突然の通信を不思議に思った。しかし迅の口調はいつもと何も変わらず、なんならどこか上機嫌なくらいなので、近界民ネイバー絡みの急ぎの用事があるわけでもなさそうだった。
『お疲れ。どうかしたか?』
『うん。そっち、今防衛任務終わったとこだよね?』
『ああ』
 そう答えると通信の向こうで迅が楽しげに口角を上げた、ような気がした。勿論姿は見えないので、迅の纏う雰囲気からのただの勘だ。しかし付き合いが短いわけでも薄いわけでもない相手――むしろその真逆の、他でもない迅である。きっとこの勘は合っているだろうと、何の証拠もないけれどそんな気がした。
『今から玉狛来ない? いいもの見せてあげる』
 迅の言葉に、ぱちくり、と太刀川は目を瞬かせる。
『いいものってなんだ?』
 まず、ランク戦か、なんて反射的に思ったけれど玉狛ではランク戦は出来ない。本部同様に仮想戦闘用のトレーニングルームはあるそうだから模擬戦なら出来るだろうが、そもそも「見せてあげる」という話だ。何だろうか、と思って迅に聞くも、迅はふっと小さく笑う気配をさせてから太刀川に返す。
『それは来てのお楽しみ』
 そう言ってくる迅のしたり顔が目に浮かぶようだった。この勿体ぶり方がまた迅らしい。
 焦らされること自体は太刀川の流儀ではないが、迅が何かこうやって企んでいるのは太刀川も好きだ。迅が企んだ面白そうなことであれば、太刀川に乗らない手はなかった。それは今に始まったことではなく、昔から、ボーダーに入って迅とよくつるむようになってからずっと。
 自分でも無意識のうちに、太刀川も口角がにまりと上がっていた。
『わかった。今から向かう』
 二つ返事でそう返せば、迅がくつくつと笑いながら『さっすが太刀川さん、話が早い』と言う。今日の迅はやっぱり不思議なほどどこか楽しそうだった。
『じゃ、待ってるねー』









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