day by day収録「パーフェクト・ホリデー」sample
(前略)
電車に揺られて、一度乗り換えて、合計四十分ちょっと。目的の駅に辿り着くと、自分たちも含めて何組もの人が電車を降りていった。夏休み時期だからか、小さな子どもを連れたファミリー層も多い。目的の水族館は駅を出て少し歩けばすぐのところにあり、初めて行く迅も太刀川も、人の流れに乗っていけば迷わずに辿り着くことができた。
真上に近いところまで昇った太陽の日差しは強く、ほんの短い時間出ただけなのに、じりじりと肌を焼かれるように思った。迅が「あーっつい」とぼやくと、太刀川は「晴れてよかったなー、まあ室内だからそんなに関係ないか」とのんびりと笑っていた。
空調がしっかり効いた屋内に入ると一気に涼しくなって迅はほっと息を吐く。流石に有名な水族館らしく、駅から流れてきた人がそのまま受付に列を作っている。しかしスタッフたちの誘導がスムーズだったおかげか、思ったよりも列の流れは早く、スムーズにチケット売り場に辿り着くことができた。ポケットに入れていたペアの優待チケットを提示して、引き換えに二人分の入場券を貰う。一緒に手渡された館内パンフレットを、太刀川は興味深そうにぱらぱらと眺めていた。
「水族館って子どもの頃以来かも。イルカショーとかは見た記憶あるけど、今はなんか色々すごいんだな。アーチ状の水槽とか、夜はライトアップとか」
「おれもそんな感じ。行ったのもわりとこぢんまりとしたとこだったしな~」
きれいに磨かれた床に、カツ、カツ、と太刀川のヒールの音が響く。その音が隣からすることにどこか慣れなくて、迅はちらりと太刀川の足元を見た。迅の視線に気付いたらしい太刀川が、ちらりとこちらを見る。ヒールのおかげでその視線の高さは、普段よりも少し近い。
迅は慌てて視線を逸らしてから、「そこ、段差あるし気をつけて。薄暗いから」と言い訳じみた言葉を言う。その言葉がどこか早口になってしまったことも少しだけ恥ずかしい。太刀川が「おー、ありがと。……なんか急に紳士みたいだな」と茶化すように言ったことに、迅は「うるさいよ」と軽く返すことしかできなかったのだった。
まったく今日は、出足からああだったせいか、やたらに調子が狂う。隣を歩く太刀川の格好が、いやに可愛いせいもある。もう何年もの付き合いになるというのに、うっかり直視もできないなんて。
先程引き換えた入場券を入口のスタッフに見せて、館内に入る。自動ドアをくぐればさらに照明は絞られ、逆に目の前に現れた大きな水槽の明るさと青さがぐっと鮮やかに二人の視界を覆った。
どこまでも続くかのように思える巨大水槽。凜とした青色の中を、大小様々な魚たちが気持ちよさそうに泳いでいる。その光景に思わず、迅は一瞬目を奪われるような心地になった。
水族館というと魚がたくさんいて、イルカやアシカのショーをやっている、くらいのイメージしかなかったものだから、こんなにきれいなんだなと少し驚いてしまったのだ。
小さい頃に行った水族館の記憶は、幼すぎてもう断片しか覚えていない。その時に見たイルカショーが楽しかったこと、水槽の中にいたサメだか何だか大きな生きものに驚いたことくらいがぼんやりと思い出せる程度だ。その時は水槽の景色の綺麗さなんてものに気付けるほど情緒がまだ育っていなかったのか、それとも技術の進化で今はより綺麗に水槽の中を見せられるようになったとかなのか、そのあたりはよく分からないのだが。
迅のすぐ足元を、後ろから小さな子どもが走って追い抜いていく。一直線に巨大水槽の前に駆けていった子どもを、両親らしい男女が穏やかな歩調で追う。それで迅は自分が歩調を緩めていたことに気付き、はっとする。隣の太刀川を見やれば、太刀川も迅の隣、同じ歩調で並んだままこちらを横目で見ていた。思いがけず視線が絡んで、その見慣れたはずの顔に水槽から反射した青色の光がうっすらとさして、その光と影のコントラストがいやにきれいに思えてしまって、心臓が音を立てる。
「きれいなもんだな」
言われて、またどきりとしてしまう。心を読まれたかのように一瞬錯覚して、いや違う、水槽のことだと慌てて我に返った。「そうだね」と返した声は、いつも通りの自分を装えただろうか。
「もう少し近くで見ようよ」
先程の妙な考えを振り切ろうとするように、迅はそう言って水槽に向かって歩き出す。太刀川はそんな迅に対して特に何も言わず、「うん」と頷き迅と同じ歩調で水槽に向かって歩いた。また、太刀川のヒールの音が隣で静かに響く。
色んな魚がひしめく、どこまでも続くような大きな水槽。特定の生きものに特化した小さな水槽。その次はクラゲのコーナーだ。どんなものかと思っていたけれど、入ってみて大々的に展示コーナーが設けられている理由が分かった。確かに半透明のクラゲがひしめく水槽は、なかなかに幻想的な雰囲気で綺麗なものだった。クラゲは海の月と書くのだと、以前誰かに聞いたことを思い出す。いざ本物を見てみると納得だ。
クラゲ水槽の前には、ゆっくり鑑賞ができるようにと小さなベンチも設けられていた。ファミリー層が多い館内でも、友人同士、あるいは恋人同士のようなグループもちらほらといて、クラゲ水槽の前では恋人同士らしい男女が肩を触れ合わせるようにして座っていた。あっち〝も〟デートか、と思って、そう思った自分に迅は妙に気恥ずかしくなる。同時に、どこか落ち着かないような心地にもさせられた。――デートって、そうだよな、と思わされたからだ。
ただ一緒に出かけるだけ、ならば友達同士でもできるのだ。
「クラゲってこんなに種類いるんだ」と興味深そうに言っていた太刀川とともにクラゲ水槽を抜けると、再び別の巨大水槽が二人を出迎える。それをのんびりと眺めてから、また次の水槽へ。
硬いタイルの床の上で、また太刀川のヒールが音を立てる。静かだけれど賑わった水族館の中ではかき消されてしまいそうなそんな音も、迅の耳にはいやに大きく届くのだった。
すれ違った親子連れに軽く道を譲った拍子に太刀川との距離が近くなり、ふと手の甲が触れそうになる。それに一瞬焦りそうになって、いやでも、と思い直す。
迅は、太刀川のことを横目でちらりと盗み見た。太刀川の視線はすでに次の水槽のほうに向いていて、今度は迅の視線には気付かない。薄暗い館内、ゆらゆらと反射する光に照らされて太刀川の長い髪が淡く光る。
ここは三門じゃない。だから自分たちのことを知っている人も、個人的な知り合いもきっといない。迅の未来視もそれについては沈黙で、誰か知り合いに会う未来は無さそうだった。
だから、遠慮する必要なんてないんじゃないか。
触れかけた手を離すのではなく、そのまま伸ばして絡ませる。迅よりも少し華奢な太刀川の手の柔い感触が触れた。
指を絡ませたまま軽く握ると、太刀川の視線がこちらを向いたのが分かった。だけど今、迅は太刀川の方を見返す勇気はなかった。自分らしくないことをしている、という自覚があったからだ。
(後略)