幸福を告ぐ
「そういえば昔、利吉くんが私に花をくれたっけね」夕焼けに照らされた野原を眺めて、隣を歩く土井がふとそう口にする。忍術学園からの帰路、土井が利吉を途中まで送っていくということを口実にした、短い二人きりの逢瀬――これは彼と恋仲になってからの常套手段である――の最中のことだ。
小川の近くにあるその野原では、ぽつりぽつりと咲いた花が風に小さく揺れていた。その花の姿を見て土井は思い出したのだろう。確かに、幼い頃土井と一緒に遊んだ野原と、少しだけ似ていなくもなかった。
「よく覚えていらっしゃいますね」と利吉が言うと、土井は当たり前みたいに返す。
「そりゃあ覚えてるよ。嬉しかったもの」
ふふ、と土井は昔を懐かしむように柔らかく笑ってから続けた。
「利吉くんはさすがに、覚えていないか」
その言葉に利吉はかぶりを振る。
「そりゃあ、覚えていますよ。あなたに喜んで頂けて嬉しかったので」
わざと先程の土井の言葉を真似て返せば、それがおかしかったのか土井はまた目を細めて笑った。
土井が忍術学園で教鞭を執るようになる前、彼が山田家で利吉たちと共に暮らしていた頃の話だ。ある日、彼と一緒に野原に遊びに行った時のこと。利吉が彼に、野で摘んだ一輪の花を贈ったことがあった。
あの頃の利吉は、彼のことをほとんど何も知らなかった。
いや、今だってそうだ。だが、当時の彼は呼ばれるべき名すら持ち得なかった。あの頃の彼の事情は、詳しく聞くことはなかったが、しかし大きな事情を抱えていることと彼が置かれている状況は当時の利吉にもなんとなくは察することはできた。曲がりなりにも忍びの子で、自らも忍びを志す身だ。だから利吉も彼に事情を問うことはなかったし、名前も聞かなかった。ただ、彼が彼で在るのならば、利吉にはそれだけでよかったからだ。
しかし当時の彼は、時折物思いに耽るような横顔を見せることがあった。
ほんの一瞬。利吉が声をかけようとすればそんな表情はぱっとすぐに仕舞ってしまう。しかしそれに気付かぬほど利吉も幼くはなかった。その日の彼も、利吉がふと視線を逸らしていた隙にほんの一瞬だけ表情を翳らせる瞬間があった。
お兄ちゃんに、笑ってほしかった。喜んでほしかった。
そう思っても非力な子どもだったあの頃の自分が彼に手渡せるものはあまりにも少なくて、だから、その野原に咲いている一番かわいらしくて綺麗だと思った花を贈ることが、あの頃の自分にとって彼に手渡せる精一杯の〝一番良いもの〟だったのだ。
利吉は、目の前に咲く花々を眺める。もう一度小さな風が吹き、利吉の髪を柔く揺らした。
今の自分ならば。
もっと〝良いもの〟を彼に渡すことだってできる。例えば美しい宝飾品でも、仕立ての良い着物でも、ちょっといい食材でも。自立して、一人のプロの忍びとしての立ち位置を築き上げ、金持ちとは言えずとも多少の贅沢はできるくらいの大人になった。
(――けれど、多分、そうじゃない)
隣に在って良いのだと言って貰えた今、そうじゃないことくらいは、きっと自惚れても良いのだと思う。
利吉は野原に一歩踏み出して、その場にしゃがみ込む。そしてすぐそばに咲いていた黄色い花の茎に触れ、それを丁寧に摘んだ。
あの日と同じ花が咲いていたのも、不思議な縁というやつだろうか。
利吉は手の中の花をちらと眺めてほんのわずか懐かしい気持ちに浸ってから、立ち上がって土井に向き直る。土井はそんな利吉を見てぱちりと目を瞬かせていた。
大好きなお兄ちゃんに、笑っていてほしい。
かつての日に、この花を彼に手渡した私はただただその一心だった。
利吉は手の中の花を土井に差し出して、ふっと微笑む。
(あの頃はそうだった。でも、今は――)
「土井先生。受け取ってくださいますか?」
――今は。愛しい人の幸福が、ひとつでも多く在るように。
ずっとずっと同じようでいて、けれどいつしか少しだけ違う形になった思い。
差し出された黄色の花を見つめ、そして利吉に視線を移した土井の口元が、ふっと綻ぶ。
「ありがとう、利吉くん」
花を受け取った土井が幸せそうに笑って、それがあの日の笑顔と重なって、けれどそれと少しだけ違うようにも思えた。夕焼けの朱に照らされたその表情が美しくて、愛おしいと思って、眩しさに利吉も思わず目を細めるのだった。
名残惜しいけれど、完全に日が暮れてしまってはいけない。あともうほんの少しの道を、穏やかな歩調で再び歩き始める。
先程利吉が渡した花を持っていない方の土井の手に、利吉はそっと自分の手を重ねるように触れる。肩が触れあうほどに近づいて、利吉は彼にだけ聞こえる声でそっと囁く。
「……お慕いしています」
思いを込めてそう言えば、土井は驚いたような、あるいは照れくささをどうしていいか分からないような、そんな表情で利吉に視線を向ける。
「なあに、改まって」
土井の言葉に、利吉はふっと目を伏せて笑う。
「お伝えしたくなったので」と言えば、土井は小さく息を吐いて「そっか」と言う。その頬に朱がさしていたかどうかは、夕焼けの眩しさのおかげで、結局判別がつかないままだった。