きみにいわない内緒話

 長屋の暖簾に手をかけて、ひょいと顔を出しながら「土井先生」と呼んだ。玄関のすぐ近くにいたきり丸が「あ、利吉さん。こんにちはー」と言うのとほとんど同時に、部屋の奥から顔を出した土井が「利吉くん、おつかれさま! ごめん、もうちょっとだけ待ってて」と返事をする。そんな土井にきり丸は呆れ半分の眼差しだ。「相変わらず苦手なんすよ、掃除とか、荷物まとめるとか」ときり丸は利吉にぼやいてみせる。

 土井半助の失踪と奪還。あの大きな事件が無事に解決をみせた後、土井と利吉、そして伝蔵の三人で久しぶりに山田家に帰ろうという約束をした。とはいっても利吉はまだ雇い主への報告諸々の仕事が残っていたし、土井も自身の――天鬼としての己であるが――行いで崩れかけたパワーバランスの均衡を保つべく、学園に戻ってからも少しの間各所の動向を注視していた。そうしてそれぞれの後処理や手持ち仕事が片付き、学園の休みも重なり、ようやくあの約束を果たす日となったのが今日である。
 といっても、伝蔵はあと少しだけ仕事が残っているからと言ってまだ学園にいる。まったく仕事人間である――利吉だって人のことは言えた義理ではないが。とはいえ、今回は普段以上に口酸っぱく一緒に帰りましょうと言っておいたから、伝蔵もちゃんともうじき学園を出る頃だろう。伝蔵とはこの家と学園の中間地点で待ち合わせることになっていた。
 目の前のきり丸も外出の準備は万端といったところだが、しかし目的地は自分たちとは異なる。土井が山田家に〝帰省〟している間、きり丸は乱太郎とともにしんべヱの家に泊まりで遊びに行くという話になったらしい。
 あの一件以降。
 土井が一人でいなくなると、きり丸は少し不安げな顔をするという。それは少し前に学園に立ち寄った際、土井自身から利吉は話を聞いていた。無理もない、不安な思いをさせてしまったからね、と土井も瞳をわずかに揺らして苦笑していた。利吉もそれは想像に易いことではあったが、彼と生い立ちの近い土井には利吉が頭で理解できること以上に、より強く感じるところがあるのだろう。
 ならば、三人で山田家に帰るのはもう少しきり丸が落ち着いてからでも良いのではないか。もしくはきり丸も土井にとって家族と言っていい存在であるのだから、きり丸も誘うのはどうだろうか。そんな話になって、きり丸にどうかと誘ってみたのだが、きり丸は頑として頷かなかった。一家団欒にお邪魔する気はないっすよ、もうしんべヱの家に乱太郎と一緒に遊びに行く約束もしちゃいましたし、となんでもない風に肩をすくめて。それがきり丸なりの気遣いであることはよく分かって、だから、じゃあ次の機会にねと約束をする代わりに今回はきり丸のその気遣いに甘えさせてもらうことにしたのだった。

 利吉はすぐそばに立つきり丸をちらと何気ない仕草で観察した。飄々とした横顔は、一見いつも通りに見える。しかしその表情に、普段にはない色――ほんの少しだけ寂しさや、不安といったものが混じっていることが利吉には分かった。人のごくわずかな機微にも気がつくのは忍びとして培った技術であるし、そして同時に忍術学園に通ううち見知った仲となったきり丸という子のことを知っているからこそ、利吉はより確信をもってそう思う。
「……きり丸」
 そっと名前を呼べば、きり丸が顔を上げ利吉を見た。利吉は小さく微笑んでから、しゃがんできり丸と視線を合わせる。同じ高さできり丸の目を見た利吉はすうと息を吸って、土井に聞こえない密やかな音量できり丸に言った。
「土井先生は、私がお守りするよ」
 だから大丈夫だと、安心していてほしいのだと、きり丸に伝えたくて土井あの人の小さな家族を利吉は見つめた。
 それはきり丸を安心させるための方便などではなく、利吉の本気の言葉だった。
 ――あの日、雑渡に手も足も出なかった奴が何を言っている。
 ――お前には力不足だろう。
 心の内で、もう一人の自分がそう冷や水を浴びせてくる。しかし、そんなことは重々承知だ。
 足りないのならばもっともっと、強くなるまでだ。
 利吉は決意が本物であると、この一生をかけて証明してみせるつもりだった。
 利吉の言葉を受け取ったきり丸はその丸い目を見開いて驚いた表情をみせた。そしてその後、くっと小さく眉を下げて笑った。安心してくれたのか、それとも笑われてしまったのか、どちらともとれない絶妙な表情で。けれどその表情は少なくとも、とても嬉しそうなものに見えた。
「分かりました、利吉さん」
 きり丸は利吉を真似るような密やかな声で、そう利吉に返事をしたのだった。

「何ふたりでこそこそ話してるんだい」
 上から声が降ってくる。荷物をまとめ終えたらしい土井が、二人を見下ろして不思議そうにそう言った。利吉はそんな顔を見上げて小さく笑い、そして立ち上がってから土井に返事をする。
「ふふ、きり丸とちょっとした内緒話を」
「えー、なにそれ」
 利吉が隠すと土井はわざとらしく拗ねたように唇を尖らせた。歳上だというのに、随分子どもじみた表情だ。利吉は横目できり丸を見れば、目が合って二人で小さく笑う。
「まあいいや。じゃあ、そろそろ帰ろうか」
 そう言う土井に、利吉は「はい。もう父上も待ち合わせ場所に到着する頃だと思いますし」と頷く。二人で玄関に並び立って、暖簾をくぐって一歩外に出れば気持ちの良いほどの晴天が眩しく思えた。玄関先まで見送りに出てくれたきり丸に、土井は柔らかく笑って手を振る。
「いってきます」
 土井の言葉に、きり丸が「いってらっしゃい」と返す。その言葉に滲む色は、この青空を照らす太陽よりもずっとあたたかく響く。
 利吉は目を細めて、それから小さな声で「約束は守るからね」なんてきり丸に言ってみせると、きり丸はふっと笑った。「りょーかいっす」と返ってきた声は、あの日岩屋で聞いた彼の声よりも、ずっとずっと軽やかだった。




(2025年1月18日初出)





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