ひかりのひと
肉を裂く感触が、吹き出した血が肌に触れた熱さが、いまだこの身に残っているようだった。利吉は音も立てずに木と木の間を飛び移り、夜の深い闇の中を駆けた。追っ手の気配はない。彼らの周囲には、やはり他に仲間はいなかったようだ。利吉は引き続き周囲に意識を張り巡らせながらも、一旦はそのことに静かに安堵した。
この夜半とはいえ、流石にこの格好では人の居る場には出られまい。万一姿を見られてしまえば、私が何をしてきたか、幼い子どもでも分かるだろう。無用な騒ぎを起こさぬよう、途中で服を着替えてから依頼主の城へ報告に向かおうと利吉は算段した。
複雑な地形をしたこの森もあともう少しで抜ける。木々の隙間から月が覗いて利吉の姿を照らした。誰に見られているでもないはずなのに、何となく利吉は赤黒く汚れた胸元を月から隠すように少しだけ屈んで次の木へと飛び移った。
人を、二人殺めた。敵方の忍びだった。
忍務で人を殺めたのは、これが初めてのことではない。利吉もプロになって一年と少しが経つ。仕事にはもう慣れたものだが、唯一、これだけは慣れることができない。こういった忍務の後に波立った感情を飼い慣らすこともまだ利吉にはうまくできなかった。
命のやりとりをする瞬間には、どうしたって常の感情ではいられなくなる。
忍びであれば、時に避けて通れないことだ。自分だって忍びとして生きる上で、いつこの命が奪われ、消えるか分からないことなどとうに覚悟は決めている。
だから、この程度のことで動揺すべきではない。自分の感情を飼い慣らし、排することができてこその忍びだ。利吉はそう思う反面で、そう思って納得し感情を揺らすことのなくなった自分を想像すると心のどこかで恐ろしかった。
その瞬間に、何か大事なものを手放してしまいそうで。
恙なく仕事の報告を終えた利吉は、このあたりの拠点としていた小さな小屋に戻った。血と汗で汚れた体を拭い、忍び装束から寝間着に着替える。ようやく一息ついて、布団に体を横たえて眠ろうとしたが、どうにもうまく寝付けなかった。
ひどく気を張り、体も使った忍務の後だ。肉体は疲れ休息を欲しているのは分かるのに、昂ぶった感情が睡魔を阻害する。体に染みついた血のにおいが、あの瞬間の感触が、今なお残っているように思えてしまうせいだった。
それでも無理矢理目を瞑ってしばらく待てば、流石に疲れが勝って段々うつらうつらとしてくる。しかし結局熟睡はできないままに、気がつけば窓の外の空は白み始めていた。
評判が評判を呼び、利吉が〝予約必須の売れっ子忍者〟だなんて誰からともなく呼ばれ始めたのも最近のこと。次の仕事ももう前々から入っていたが、前の仕事が少し早めに終わったために数日の空きができた。つまり今日は、利吉にとって久々の休日であった。
空は雲一つない晴天。それに反して利吉の頭はまだ少し重かった。昨夜うまく寝付けず、単純な睡眠不足もあるのだろうと利吉は思うことにした。特に予定はないが暗い小屋にこもっている気にもなれなかった利吉は、あてもなく町に降り散策をする。適当なうどん屋で昼食を摂り、そのままぶらぶらと歩いていると、いつの間にか利吉にとっても馴染み深い大きな門扉が目に付いた。どうやら利吉は、無意識のうちに来慣れた場所――忍術学園へと足を向けていたようだった。
塀の向こうからは、忍たまたちの賑やかな声が聞こえてきた。もう放課後の時間だろうか。無邪気で楽しげな子どもたちの声に、利吉の強ばっていた心がほんのわずか和らいだ気がした。
――このあたたかな塀の向こうには、あの人がいる。
そう思えば、利吉は無性に彼の優しい笑顔が恋しくなった。思い出しただけで、胸がきゅうと小さく音を立てるようだった。
けれど。
このままいつものように忍術学園の中へと入っていきたい気持ちの反面、利吉の足取りは段々とゆっくりになる。普段であれば軽く叩けるこの門を、今は、どうしても叩きたい気持ちと躊躇う気持ちとでせめぎ合った。
(プロとしてこんな顔を、父上に、そしてあの人に見られるのは――)
……、今からでも引き返そうか。
利吉がそう思って完全に足を止めかけたその瞬間、不意に目の前の門がギイと音を立てて開いた。そして勢いよく出てきたのは、学園に通ううちすっかり顔見知りになった忍たまたちだった。
「あれ、利吉さんだ」
山田先生に会いに来られたんですか。子どもらしい高い声でハキハキとそう問われ、利吉は思わず言葉に詰まった。しかし、こう正面からキラキラした目で見つめられれば利吉は今更下手に躱して逃げるわけにもいかなかった。プロの忍びとなった利吉は、忍たまたちから自分たちもこうなりたいという憧れの存在として慕われるようになっていた。
「ええと」と利吉が言ったところで、開いたままだった門の向こうから長身の黒い影がこちらを覗き込む。
「利吉くん?」
穏やかな、優しい声。こちらを覗いた丸い目と視線が絡む。それは利吉が今どうしても会いたくて、そして同じくらいに今は会いたくないようにも思った、彼の姿だった。
山田先生はちょうど、今日明日と出張に行かれていてね。土井がそう申し訳なさそうに言うので、いえ、と利吉はかぶりを振った。ちょうど授業が終わり、立ち話もなんだからと案内された土井と伝蔵が使っている職員室に二人で向かい合って座っている。襖の向こうでは、やはり忍たまたちの賑やかな声があちらこちらと聞こえてきていた。それに対して、この部屋の中はひどく穏やかな空気だった。この部屋の中では、時間がゆっくりと流れているように錯覚する。
伝蔵が出張中であるということに、常ならば肩を落とす利吉も今日ばかりは正直なところほっとしていた。父上にこんな顔を見られたらなんと言われるか、と思っていたからだ。伝蔵は息子である利吉に対しても、忍びとしての術や心得のことになれば厳しい人だった。
「今日は父上に用があったわけではなく、……」
利吉はそこまで言って、一瞬言い淀んだ。土井になんと言えばいいのか迷ったからだ。しかし迷いは一瞬で、利吉はなんでもなかった風に言葉を続ける。にこりと笑顔を作るのは、忍びとして持っている簡単な技術だった。
「昨日、直近でかかっていた忍務が終わりまして。今日はお休みで時間があったものですから、何となく足を向けてみたのです」
嘘を言っているわけではない。これも本当のことだった。
ただ、全てを言っていないだけで。
利吉が言うと、土井は一旦は納得したように「そっか」と返す。そこで会話は途切れ、部屋には静かな沈黙が落ちた。
その沈黙が、利吉はどこか落ち着かなかった。土井と過ごす時間に気まずさを感じることなど、昔は一度たりとなかったというのに。それは、土井が何かに気付いていることに利吉も気付いてしまったせいだった。
「……利吉くん」
その沈黙を破ったのは土井からだった。しんと、まるで夜の森のように静かな声だった。土井のいつも優しい眼差しがにわかに真面目なものになる。
「昨日の忍務で、何かあったんじゃないのかい」
決して問いただすような声ではない。しかしその真剣さが、利吉の逃げを封じる。まっすぐに向けられたそれは、ただただ利吉を慮る、深く優しい声音だった。
ぐ、と、利吉の胸が詰まる。繕った表情が解ける。
昨日から薄らとこの胸の内で凍っていた心が、まるで陽の光に照らされた雪のように、ゆっくりと溶けていくように思った。
この人に話してしまいたい。
この胸のうちに秘する黒く渦巻くものを、彼に素直に見せられたなら楽になるような気がした。そんな思いと、プロとしてこのくらい耐えられなくてどうするという思いがせめぎ合う。しかし利吉の言葉を待つその瞳に、じっと見つめられれば利吉はたまらない気持ちになった。
この人はきっと、自分の言葉を受け止めてくれる。
それを絶対的に分かっていたからこそ、甘い誘惑に利吉の心は揺らいだ。土井はそんな利吉をただ静かに見つめている。彼がその優しさからくる心配の気持ちで利吉に問いかけてくれたことも、こういうときの彼は驚くほど意思が固く辛抱強いことも知っていた。
利吉は、静かに息を吐く。そして居住まいを軽く正し、畏まって軽く頭を垂れる格好になる。それは、彼からさりげなく視線を逸らすという意図も利吉にはあった。
「昨日の忍務で」
と、利吉は口を開く。一呼吸置いて、利吉は潜めた声量で続ける。ここが忍術学園であることを思い出し、万一にでも子どもたちに聞かれれば余計な動揺を与えてしまうと思ったからだ。
「……敵方の忍びを二人、殺めました」
自分で思っていたよりも、色をもたない声だった。事実だけを述べる言葉。そんな声色になったのは、そこに余計な感情を乗せてはならないと内心で自分を戒めていたからかもしれない。
利吉のその言葉を受け取った土井は、ゆっくりと睫毛を伏せて、「そうか」とただぽつりと呟いた。
殺すことが主目的の忍務だったわけではない。依頼は盗まれた密書の回収と敵方の諜報。しかし、邪魔をする者、そして依頼主にとって知られては不都合な機密情報を知ってしまった者がいれば始末すべし、とも言われていた。そしてその依頼に従い、利吉は彼らを殺めた。襲ってきたのは向こうからで、そうしないともしかしたらこちらが殺されていたかもしれなかった。
仕事だった。自分の身を守るために致し方なかった。そんな言葉を並べてみても事実は今口にした通りで、それ以上でも以下でもない。プロになってから忍務で人を殺めるのも、慣れているとは言えないが、決して初めてというわけでもなかった。今後もきっと、プロとして生きる限り数え切れないほどそんな場面を経験することになるだろうということも、利吉は分かっていた。
分かっていてプロになった。そのつもりだったのだ。
部屋に再び静寂が落ちる。先程よりもしんと空気が重いものになったような気がした。遠くに聞こえる忍たまたちの無邪気な声とこの部屋の静けさがまるで別の世界のものに思えて、利吉は段々とそれに息が詰まるような心地になる。言葉にしてしまったこと、こうやって口にすることでこの人にも背負わせてしまったということを、利吉は後悔した。問われたとはいえ、口にしたのは間違いなく利吉の土井に対する甘えだった。俯いたままの利吉は眼前の床をじっと見つめた。床についた指先が冷たい。
利吉は耐えきれず、再び口を開いた。
「すみません、こんな話。忍びにとっては珍しい話でもない……。プロであれば、このようなことでいちいち感情を揺らされるべきではないと分かっています。申し訳――」
「利吉くん」
早口になった利吉を制するように、利吉の冷えた手に土井の手が重ねられた。利吉は思わず顔を上げる。手の甲に土井のあたたかな体温が触れ、滲むようにその温度が利吉にじわりと移っていく。
「このようなこと、なんて、自分の感情を蔑ろにしちゃ駄目だ」
見上げた土井は、いつになく真剣な表情で利吉を見つめていた。利吉は目を見開く。利吉が何も言えずにいると、土井は利吉をじっと見つめたまま言葉を続ける。まるで利吉の心の奥底までを見つめてくれるような、そんな瞳だった。
「確かに、忍びにとっては珍しい話じゃない。だけどね、だからといって自分の感情を蔑ろにして、見なかったふりをして無視し続けていたら、……いつか、心が壊れてしまうよ」
土井の言葉が、最後だけほんのわずか揺れた気がした。
「その心は、手放さなくていいんだよ、利吉くん」
この人に会えば、この言葉にしきれない胸の内を口にしてしまえば、彼に甘えてしまいそうで嫌だった。
そうしたら利吉は、プロとして張っていた気持ちも緩んでしまいそうで怖かったのだ。私はもう幼子ではない。一人前として仕事を果たすプロの忍びなのだから、と。これしきのことで甘えてしまっては、感情を排し仕事に徹してこその忍びのプロとは呼べない。人としての感情がこの足下をあまりに脆く崩してしまいそうで、利吉はそれをひどく恐れた。
それでもこの人は、私に、人であれという。
人としての感情を手放さずに、忍びをしろと言う。
(……まったく、難しい課題を与えてくれる先生だ)
それでも、利吉はなんだか少しだけ泣いてしまいそうだった。鼻の奥がツンとする。それがばれないように、利吉は一度瞬きをして、利吉をあたたかく見つめる彼を見つめ返した。
それは確かに、利吉が本当は一番欲しかった言葉だったのかもしれなかった。
不意に、土井の指が伸びてきたと思えば利吉の目元にそっと触れた。土井は指の腹で、利吉の目の下をそっとなぞる。
「昨日、あまり眠れていないだろう?」
「……お見通しでしたか」
「見れば分かるよ」
土井にそう言われて、利吉はふっと肩の力を抜いた。もしかしたら、薄く隈でもできていたかもしれない。
「私もまだまだですね」
利吉がわざと冗談めかした調子で言うと、土井は「そんなことはないさ。私が利吉くんをよく知っているから、見抜けただけだよ」と笑った。この人は、やはり、どこまでも優しいと利吉は思う。
「今日は休みなんだろう? 時間があるなら、ここで仮眠をとるといい。私も今日はもう授業はないから、ここにいるよ」
そう言ってあっという間に布団を敷かれ、そこに寝かせられる。部屋はまだ明るく、こんな時間にいきなり眠れと言われてもと利吉は最初こそ思ったが、昨夜あまり眠れなかったことは事実だった。目を閉じれば、昨夜の寝付きの悪さが嘘のようにすぐにとろりと眠気が降りてくる。
土井はどうやら、試験の採点か何かを始めたようだった。紙を捲る音、その上に筆を滑らかに走らせる音。土井が立てるそんな穏やかな音と、襖の向こうに聞こえる忍たまたちの賑やかで楽しげな声を聞きながら、利吉は気付けば眠りに落ちていたのだった。
◇
すぐそばの呼吸の音が、すうすうと規則正しい寝息に変わった。土井は筆を止め、部屋の隅に敷いた布団に視線を向ける。どうやら利吉はすっかり眠ったようだった。
出会った頃よりもずいぶんと大きくなり、今をときめく立派なプロの忍者となった利吉だが、そのあどけない寝顔はあの頃の面影を感じさせた。ふ、と土井は思わず笑みを零す。あの頃は利吉くんにせがまれて、よく一緒の布団で眠ったっけ――そんな懐かしいことをつい思い出してしまった。
朱色の○と×が交互に踊る答案用紙と向き合うことを一旦止めた土井は、筆を机の上に静かに置く。そうして少しだけ利吉の方ににじり寄って、その手を伸ばした。利吉を起こさないように細心の注意を払いながらも、土井はそっと指の背で利吉の頬を撫でる。触れた頬はあたたかくて、利吉が今日も生きているということを、当たり前のように土井に伝える。その温度を愛おしく思った土井は、口元を小さく緩ませた。
(忍びでありながら、人であれ、なんて。……まったく、我ながら君に難しいことを課す)
それでも。君には手放してほしくなかったのだ。自分が一度、手放しかけてしまったからこそ。
壊れかけた心は簡単には戻らないことを、自分こそが知っている。心を捨て、人ならざるものになれたならどれほど楽だったろうと想像する。けれどそれは、今にして思えば、なんと恐ろしいことだったのかとぞっとする。
果てなどないと思っていた闇を抜けた先、あてもないまま光のさす方へ必死に逃げた先。あの日、どこの誰とも知れぬ、名乗る名前すら持たぬ自分を拾ってくれた。今、自分が生きてここにいるのは山田先生と奥方、そして君のおかげだと、ずっと感謝している。
先程触れた、利吉の手を思い出す。その手は常よりも冷えているように感じられたけれど、しかし、確かに体温を宿したその手。土井が手を重ねれば、その温度が段々と見知ったそれに戻っていくのが確かに伝わってきた。
――血で汚れた、この手を。もう何にも触れる資格などないと思っていたこの手を、あのときひとつの躊躇いもなく取ってくれたのは。
眩しい笑顔で、私に優しい感情をもう一度教えてくれたのは。
「……私を人に戻してくれたのは、君なんだよ、利吉くん」
私にとって、ずっとずっと眩しい子。
その光が眩しいままであってほしいなんて、この子の心が損なわれないように守りたいだなんて、私のただの身勝手なのかもしれない。この時代に生きる上で、しかも忍びという職業を矜持を持って生業に選んだ彼にとっては余計に、難しいことなのかもしれない。こんな思いは自分を救いたいだけの、自己満足なのだとも薄々感じている。
それでも、どうしても、願ってしまうのだ。
土井は、利吉を起こさないように触れた指をそっと離す。彼を生かすその温度は、指を離してもしばらくの間指先に残っているように思えた。穏やかな寝息を立てる青年を見つめ、土井はそっと目を細める。
傾き始めた夕日の赤が、襖越しにふたりだけの部屋の中を柔らかく染めていく。土井は利吉が目を覚ますまでの間、そばで眠る彼のことを飽かず眺めていたのだった。