スタートライン
利吉が初めて半助にバレンタインのチョコレートを渡したのは、利吉が小学生の頃だった。バレンタインとは好きな人にチョコレートを渡すイベントである。それを認識した利吉は、それなら自分は彼に渡したいと迷いなく思った。小学生の微々たる小遣いをかき集めてコンビニに行き、小遣いで買える中で一番大人っぽく素敵だと思ったチョコレートを買って半助に渡した。それは利吉の紛う事なき本命チョコであったが、半助はそれを友チョコの類いだと勘違いしたようでニコニコと「ありがとう、利吉くん」と言いながら受け取ってくれた。
しかし、半助が喜んでくれた、それだけであの頃の利吉は嬉しかった。
あれから数年。バレンタインデーの利吉の本命チョコは、今なお毎年半助に贈られ続けている。
◇
(思ったより遅くなっちゃったな)
そう心の中で呟きながら利吉はアルバイト先の塾を出た。外はとっぷりと暗い。二月半ばになってもまだまだ寒さは緩まず、刺すように吹く風に利吉は思わず体を縮めた。
とりあえず、半助さんに連絡をしよう。そう利吉は考える。今日彼の家を訪ねることについては、事前に約束を取り付けていた。
昔は本当の家族同然に一緒に暮らしていた半助だったが、彼は大学進学と同時に独り立ちをしなければと言って家を出てしまったのだ。しかし利吉はそれからも、毎年この日は欠かさずに彼のもとを訪れてバレンタインのチョコレートを渡していた。
本命だ、ということは、中学生くらいの頃から本気で伝えるようになった。彼は毎年その言葉を躱す。しかし利吉は諦めることはしなかった。脈がなくたっていい。ただ、毎年渡し続けることで、自分が本気であることだけは彼に伝わってほしいと思った。もちろん、チョコを渡すという口実のもとに彼に会えるという打算も利吉の中にはあったのだが。
利吉も昨年の春に大学進学を機に上京したおかげで、半助が一人暮らしをする家とかなり近い場所に暮らすようになった。電車で数駅、自転車でも行ける距離。彼は現在は小学校教員として忙しい日々を送っているが、この時間であれば流石にすっかり家に帰っているだろうか。
利吉は駐輪場に留めていた自転車の前カゴにカバンと、それと可愛らしいパッケージの箱がいくつも入った紙袋を入れる。紙袋の中身は全部今日という日の貰いものだ。大学のゼミやサークルの仲間、バイト先の同僚や生徒たち。大体は何の気のない友チョコの類いではあるが、いくつかはそうでないものも混じっている。
そうして利吉は自転車に乗る前に、ポケットからスマートフォンを取り出す。半助に、今からそちらを訪ねる旨を連絡しようとしたのだ。しかしスマートフォンのスリープモードを解いて画面の通知を確認した利吉は、思わず「え」と声を上げてしまいそうになった。
通知の一番上、半助からのメッセージ。それを見た利吉は急いで自転車に跨がり、帰路を急いだのだった。
「半助さん!」
辿り着いたのは半助の家ではなく、利吉が一人暮らしをするアパートだった。利吉の部屋の前に佇む細長い人影を見つけ、利吉は近所迷惑にならない程度の声量で彼の名前を呼ぶ。利吉の部屋の扉の横の壁に凭れるように立っていた半助は、呼ばれてぱっと顔を上げた。「利吉くん。お疲れさま」とこちらを呼ぶその声は、いつもの優しい彼のものだった。しかしそんな彼に向かってずんずんと歩きながら、利吉は勢い込んで言う。
「おつかれさまです、……いや、じゃなくて! こんなところで待つなんて、この寒いのに……! 元々、私のバイトが終わり次第半助さんのアパートに行くという約束でしたよね?」
利吉の言葉に、半助はなんでもない風に返事をする。
「そうだったけど、私の仕事の方が早く終わってね。いつも来てもらってばかりで悪いから、たまには私から行こうかと思って。びっくりした?」
「……びっくりしましたよ……」
こんなところでお茶目さや妙な優しさを出さないでほしい。利吉はなんだか脱力して、大きく息を吐いてから改めて半助に向き直る。
「ごめんなさい。寒かったですよね。今鍵開けますから、上がっていってください」
利吉はコートのポケットから部屋の鍵を取り出す。半助は「大丈夫だよ。そんなに長いこと待ってないし」と言うが、利吉は「……LINEの履歴見ればいつから待ってたかは分かりますし、鼻の頭赤いですよ」と呆れ半分で返した。その言葉に反論ができなかったらしい半助は、はは、とただ苦笑いしたのだった。
「はい、鍵開きました。どうぞ」
そう言って利吉がドアを開く。その表紙に、利吉が手首に引っかけていた紙袋がガサリと音を立てて揺れた。半助は「ありがとう」と言って、それから、利吉が下げている紙袋にその視線を向けた。
「……利吉くん、その紙袋は?」
半助に聞かれて、利吉は「? ああ」と返事をする。
「貰いものですよ。全部。バレンタインですからねえ」
自分で言うのもなんだが、利吉はモテる方だった。本命も貰うし、交友関係も狭くはなく女友達もいるものだから、友チョコも結構貰う。中学や高校に上がる頃には、利吉はバレンタインの日にはチョコを持って帰る用の手提げが必要なほど毎年チョコレートを貰っていた。もう慣れたものだ。だから利吉は何の気なしにそう返事をした。その言葉に半助は一瞬の間の後、「――そっか」と言った。
その反応が妙に気になって、利吉は半助を見る。しかし半助は目を合わせず、部屋の中にするりと入っていった。
おかしくないといえばおかしくない。でも、おかしいといえばおかしい。そんな違和感。利吉は半助がコートのポケットに手を入れているのを見つけた。半助は普段、寒くてもあまりコートのポケットに手を入れて歩くようなことはしない人だった。それも、ひとつの違和感。利吉は思ったことを、そのまま半助にぶつけてみることにした。
「半助さん。……ポケットの中に何か入れてます?」
「え」
利吉がそう指摘すると、半助はぴたりと動きを止めた。そんな露骨な反応をされてしまえば、それは正解だと言われているようなものだった。
ばたん、と部屋のドアが閉まる音がして、それからしんと二人の間に静寂が落ちる。
「……、見せて頂けますか?」
利吉の言葉に、半助は「……いやだ」とかぶりを振る。
「何でですか」
「なんでも!」
「半助さん、」
ぐ、と半助がポケットに入ったままのその手首を掴んだ。しかしここまできても、無理矢理引っ張り出すことは利吉にはできなかった。ただその状態のままにじっと半助を見上げると、半助の表情が次第に困ったように歪む。
ここで引いては後悔をする気がした。理由はうまく説明できないけれど、いつもの半助と何かが違ったからだ。利吉は、隠さないでほしいという気持ちを込めてただ半助を見つめた。無言の攻防の末、半助は静かに大きく息を吐いた。そうして、半助は呟くような小さな声で利吉に言う。
「……そんなに貰ってるなら、私のなんて渡さないほうがいいかと、思ったんだ」
「…………、は?」
半助の言葉を思わず利吉は聞き返す。あまりに予想外の言葉が飛び出してきて、一瞬理解が遅れたのだ。半助の視線が利吉が下げている紙袋に向いているのに気付いて、利吉は〝そんなに貰ってるなら〟の部分の主語が何であるかにようやく合点がいく。
掴んでいた半助の手首が動く。ポケットから出された半助の手、その中に握られていたのは小さなかわいらしい箱――一目でバレンタインのチョコレートだと分かる包装に包まれていた。利吉はそれを見て、思わず瞬きをする。
「もし。君が、今年も私にチョコレートをくれるのなら、……今年は私からも渡そうと思って」
半助の視線が動く。利吉の目を見てから、少しだけ逸らして、けれどもう一度半助は利吉を見つめて言葉を続けた。
「ずっとはぐらかしていてごめん、利吉くん。君が大学生になった今年も、もし変わらずにチョコをくれるのなら、……いい加減観念して返事をしようと思ってたんだ」
それって。
それって、どういうこと。利吉は自分の鼓動がどんどんと早くなるのを感じていた。それはこの数年間のバレンタインで一度も味わったことのなかった、期待の気持ちのせいだった。
「……、あなたからのチョコを、渡さない方がいいなんてこと、あるわけないでしょう」
利吉が小さく言うと、半助は眉を下げて「……うん、ごめん」と言う。
利吉は毎年、半助にチョコレートを贈っていた。そのお返しとして、半助からはホワイトデーにささやかなお返しの菓子は貰っていた。
けれど半助からチョコレートを貰う、というのは、今までに一度たりとなかった。初めてだ。そう思えば、体がじわりと熱を持つ。
利吉は、自分のカバンに手を入れる。そして前々から準備していたそれを取り出し、半助の前に突き出した。小学生の頃に精一杯のお小遣いで買ったものよりもずっとオシャレで贅沢な、一目で本命と分かるチョコレートの包み。利吉が人生でただ一人に捧げ続けている、本命チョコレート。これからも一生、利吉はこの人以外に本命チョコを渡すつもりなどなかった。いくらチョコを貰おうと、利吉が自分で渡すのはこの世でただ一人だけだ。
「今年も用意してきました。半助さん」
すう、と息を吸って、利吉は毎年口にしているその言葉を今年も彼に手渡す。
「あなたのことが好きです」
胸が高鳴る。心臓の音がうるさい。どうか受け取って欲しい。そして。いつもは軽く流されるこの言葉に、すぐに返事が返らない。
「……返事を、頂けませんか?」
利吉は意を決して、そう言葉を続けた。見つめた半助の顔は、今の利吉と同じくらいに赤い。それは、この後彼がくれる返事を、一足先に利吉に伝えてくれているようだった。
mixi2 二次創作字書きコミュ内ワンライ 第1回【バレンタイン】