あたたかな雫
あの頃のあなたが時折見せた、ざらついた空気に、遠くを見る哀しげな横顔に、子どもだった私も気がついていた。けれどそれをどうしてと素直に問えるほど、当時の私は何も分からない幼子ではなかった。それでも、彼の瞳から涙がこぼれる瞬間は一度も見たことがなかった。そんな横顔はいつだって一瞬のことで、振り返った彼が私に向けてくれる顔は優しい笑顔ばかりで、それが嬉しい反面でどこか寂しいようにも思った。
この人の心の奥に、触れる権利がまだないのだと、そう言われているみたいだったから。
あの頃の私は彼の大きな手を握って、彼がどうか幸福に過ごせるように願うことしかできなかったのだ。
◇
熱を帯びた二人分の呼吸が落ちる。薄暗い閨で、触れた肌の温度がどこまでも鮮明だった。
利吉がわずかに身じろぎをすると、その拍子に内側が擦れたようで半助が吐息に混じった小さな呻き声を上げた。彼の中がわずかにうねるのが分かる。言葉を交わすよりも如実に身体が反応を返してくれることに、彼と繋がっているのだと実感する。これ以上熱くなることはないのではないかと思っていた顔の熱がまた上がった。まるで夢の中にいるようにすら思えて、常に冷静であれと自分を戒めているはずの頭は茹だって自分のものではないように思える。
「土井先生」
組み敷いた彼を見下ろしてそう呼べば、「ん」と短く半助の返事が返る。いつもの優しく穏やかな彼の声ではなく、素っ気なくすら聞こえるのにひどく艶っぽいそれに思わず喉が鳴った。普段は頭巾や帽子に仕舞われている彼の長い髪が|床《とこ》に広がって、前髪は汗ばんだ肌に張り付いている。彼は恥ずかしがって手で顔の半分くらいを隠してしまっていたが、手の隙間から覗く頬や耳は利吉に負けず劣らず赤かった。顔を見せてほしい気持ちもあったけれども、今でさえひどく扇情的で利吉はどうにかなってしまいそうに思う。
「ごめん、もうちょっとだけ、待ってね……」
顔を逸らしながらそう言う半助の言葉に、利吉は素直に頷く。本当は、入っているだけでひどく気持ちが良くて、今すぐにでもこの逸る欲望に身を任せて自分勝手に動いてしまいたいという思いもあった。しかしそんな自分の内に湧き上がる衝動を利吉は押し殺す。受け入れてくれている彼のほうが、圧倒的に負担が大きいのだ。
利吉と半助が、家族のような関係を超えて恋仲になったのは少し前のことだ。当初から利吉はこういうことをしたいという意味であなたのことが好きなのだと伝えてはきたし、半助もそれを承知の上で利吉の告白を受け入れた。しかし互いに忙しい身で、しかも二人きりになれる機会もなかなかない。諸々の予定を摺り合わせてどうにか時間をつくって、初めて肌を重ねたのが今夜だった。
優しくしたい。そう、利吉は心から思った。
彼の心も身体も自分のものにしてしまいたいという身勝手な欲望と同じくらい、いや、それ以上に利吉は自分が持ちうるすべてを彼にあげたいと思った。優しさも、恋情も、ぜんぶ。
だって出会った頃から、自分のすべての根っこに彼がいる。あの頃の彼とのことを、利吉は今も大切に思い出していた。あの頃は彼へ向ける思いが恋情であるとは自分では思っていなかったが、確かにその地続きに今の彼に対する思いがある。あの頃ていねいに彼が利吉に手渡してくれた優しさが嬉しかったことも、それに、彼が見せてくれなかった感情が寂しかったことも。
だから利吉は半助の言いつけを守って、彼がいいと言うまでじっと静かに待っていた。はあ、と彼の唇から熱い息が零れる。彼も早く馴染ませようと意識的に深い呼吸をしているのだろうと分かって、利吉は彼のそんなわずかな仕草にすらたまらない気持ちになった。
「先生」
利吉はそんな思いのまま小さく囁いて、彼の頬に手を伸ばす。自分が今持ちうる優しさをかき集めた声だった。そうして、壊れ物を扱うみたいに、そっと丁寧に指先で彼に触れる。今動いてしまえば彼が辛いと分かっているけれど、このくらいならきっと許されるだろう。利吉に呼ばれて、顔を覆う手の隙間から半助の目がゆっくりとこちらを向くのが分かった。眼差しが絡んで、彼の深い色の瞳が利吉を見つめる。それをとても綺麗だと思った。
不意に、彼のうつくしい瞳が滲む。そうしてその瞳からぽろりと一筋、雫が零れるのを見た。
――彼が、泣いている。
一瞬遅れてそれを理解して、利吉はさっと血の気が引いた。茹だっていた頭が瞬時に冷え、動揺で言葉が詰まる。
「どい、せんせ」
だって、この人が涙する姿なんて、初めて見た。
「すみません、苦しいですか。ご無理をさせてしまって――」
利吉は早口にまくし立てる。今彼が涙する理由なんて、それしか利吉には考えつかなかった。だからこそ胸にひどい焦りと後悔が迫ってくる。優しくしたいと、そう思っていたばかりだったというのに。そんな利吉を見て半助は一瞬ぽかんと目を丸くした後、はっとしたように「あ、や、違」と口を開く。瞬きをした拍子に、また一粒その頬に涙が伝った。
「ちがうよ、利吉くん」
そう言って半助は一度短く息を吐く。そうしてその顔を覆っていた手が少しだけ外されて、彼の表情が少しだけ露わになった。その表情に苦しげな色はなく、ただ、少しだけ気恥ずかしそうにまだ口元だけは隠していた。その瞳は、いまだとろりと熱っぽく利吉を見つめている。
そうして、ふっと、彼の表情が柔らかく崩れた。
「……幸福だな、と、思ったんだ」
この人が。
幸福だからと涙する人だなんて、利吉は今まで知らなかったのだ。
(だって、一緒に暮らしていた頃、この人はいちども)
当時彼はどんな理由であれ、利吉の前で一度も泣くことはなかった。きっとそんなふうに利吉を不安がらせるふるまいは、彼自身が己に禁じていたのかもしれない。この子の前ではよい兄であろうと、そう思ってくれていたのだろうと利吉は思う。それが嬉しくて、そして少し寂しかった。
あの頃見せて貰えなかった泣き顔。
目の前で涙を零す彼の姿に、利吉は初めて、彼の心の奥に少しだけ触れさせてもらえたように思えたのだ。
胸がいっぱいになって、くるしくて、それ以上にしあわせで、目頭が熱くなる。
(どうか。どうかあなたが、幸せでいてほしかった)
そして私は、その心を少しでも預けてもらえるようになりたかったんだ。
涙がこぼれ落ちる前に、利吉は半助の肩に顔を埋める。顔は見られはしなかっただろうが、半助も利吉の様子には気がついたようだった。半助の肩が、利吉が零した雫で小さく濡れる。堪えきれなかった小さな嗚咽がほんのわずかにふたりきりの閨の空気を揺らした。
「……どうして君が泣くの」
困ったように、少しだけ呆れたように、しかし笑いながら半助が言う。その手が利吉の頭に触れ、優しく撫でる。そのあたたかな手は、今や利吉の手とほとんど変わらないと思うのに、今なお自分よりもずっと大きなものに思えた。
「……あなたを好きだからです」
そう、利吉は半助の問いに答える。もっと沢山言葉はあった気がするけれど、そのどれも今の感情を表すには足らない気がして、そうして利吉の中に残った言葉がこれだった。
「あなたを好きで、私も幸福だと思ったから」
利吉の声は先程とは違う理由でわずかに震えた。一瞬の間の後に、「そっか」と静かに返事をくれた半助の声も、利吉と同じように少しだけ震えていたような、そんな気がしたのだ。