エバーラスティング




 桜木花道は、思えば流川楓と『約束』らしい約束などしたことがなかったように思う。
 勿論、日常的な小さな約束くらいはあるだろう。明日は買い物に行こうとか、そのくらいのやつは。しかし今となっては長い付き合いになって――そしてこんな海の向こうの遠くの地で、いつか夢に見たコートに立つ人間になって、そうして二人で暮らして、というところまで辿り着いたことを思えば、それにしては自分たちは何かを約束するといったことが極端に少なかったように思うのだ。
 高校卒業後に流川が花道よりも先にアメリカに旅立つときも、ぜってーオレもアメリカに行くという宣戦布告こそしたもののそれは花道にとって約束のつもりもない。流川も待ってるとも言わなかった。互いの関係が変わった時だってそうだった。気付いたら〝こう〟なっていたという感じで、何かその先を約束するような言葉はおろか、言葉にして確かめ合うようなこともなかった。この話をすれば誰も彼もに呆れられるのだが、好きだという言葉ひとつ、互いに口に出して直裁に言えるようになったのはずっと後になってからのことだったのである。
 昔からの友人たちには花道は恋愛に関しては意外なほどロマンチストだ、と評される。自分でもそれは多少、心当たりはないではない。しかし流川に関してだけは少し違った。自分たちには、そんなふうに何かを約束することなんて必要ないように思っていたのだ。
 約束なんてなくても繋がっていると思えた。自分が何も諦めやしなければ。流川が何も手放しやしなければ。そしてそれは有り得ないことだから。互いに同じ思いだと分かっていられれば、何か形のある約束も、言葉も、なくたって構わなかった。そんなふうに自分たちの日々は続いていくのだと、いつしか花道はそう思うようになっていたのだ。

「桜木」
 帰宅して早々流川に呼ばれて、花道は振り向く。ソファの横に適当に鞄を置いて「なんだ」と言いながらダイニングテーブルの近くに立っている流川に近付くと、流川は花道の目の前に黒い小さな小箱を差し出した。そしてその蓋が、流川の花道に負けず劣らず大きな手によってぱかりと開かれる。
 瞬間、リビングの照明に照らされてきらりと光ったその中身――シンプルなシルバーリングが花道の目に入って、花道は思わず大きく目を見開いた。
「な、おま……」
 突然のことに、花道はうまく反応ができなかった。流川はもう一度、「――桜木花道、」と名前を呼んだ。
 低く響く声。普段の愛想の無いそれと変わらないように思えるその声が、ひどく真剣味を帯びているということが花道には分かった。長く、そして浅からぬ付き合いの中で、いつの間にかこの分かりにくい男のわずかな機微が花道には不思議なほど分かるようになっていた。流川の唇が再び動くのを、花道は見つめる。
「オレと結婚してくれ」
 黒く重い前髪の隙間から、流川の鋭い目が覗く。その意志の強い目は、まっすぐに、射貫くように花道を見ていた。
 一緒に暮らしてもう何年になるだろう。すぐには思い出せないくらいの年月をこの男と共に過ごした。今更? いきなり? ――いや、そうではない。花道も、今流川がそんなことを言い出したことに心当たりがないわけじゃなかった。
 花道と流川が暮らすこの州でも、つい先日、同性婚が法的に認められるようになったのだ。それはテレビでもやっていたし、花道はチームメイトからもその話を聞いていた。流川と花道の関係を知っているそのチームメイトは、君たちも結婚するのか? と花道に聞いた。問われた花道は、少し考えてから、適当に笑い飛ばして話題を変えた。流川と今まで、そんな話をしたことがなかったからだ。
 この先もずっと離れることのない相手だろうとはいつからか思っていたし、きっと流川もそう思っているだろうと花道も感じていた。しかしそれを何か、確かめるような言葉など自分たちは今まで交わしたことがなかった。まして、相手はあの流川だ。常に言葉が足りないコミュニケーションド下手クソ極まりないキツネだ。花道自身だって思いや感情を言葉や形にして伝えるのは得意ではない。だから、自分たちはそういうもんだと思っていた。
(……こーいう時だけは行動力あんのかよ)
 オレの指のサイズなんていつ調べたんだとか、いつどんな顔して指輪なんて買いに行ったんだとか、結婚できるようになってソッコーかよとか、そもそもてめーちゃんとそういうこと考えてたんかよ、とか。目の前のすかした顔をした男が裏でこそこそそんなことをしていたんだと思うと笑えてくる。
 笑えてくるのに、こんなにも胸が詰まるのはなぜだろう。
 自分たちに何か約束なんて、必要ないと思っていた。将来の約束なんて交わさなくたって、自分たちは叶えてこられたからだ。
 だけど。
 花道は差し出された指輪を手で摘まみ上げる。
 将来への約束、誓いの形をしたシルバーリング。
 花道にはアクセサリーのことはさっぱり分からないが、光に触れてきらりと輝くそれはきっとそれなりに高価なものなのだろうと思う。花道がそうして指輪を手に取るしぐさを、流川の視線が追いかけてくるのが分かる。
 花道は油断すれば今にもひたひたに零れてしまいそうな気持ちを落ち着けるために、指輪を眺めるふりをしながら音も無くゆっくりと息を吐いた。息を吐ききって、もう一度小さく吸い込んでから、花道は自分の左手の薬指にその指輪を嵌めてみせた。ぴったりだ。
 本当にいつの間に指のサイズなんて調べたんだよと思いながら、花道は顔を上げて流川を見る。初めて花道に触れた時と同じくらいに強い瞳が、花道を見ていた。だから花道も同じようにして、流川のその深い色の瞳を見つめ返す。眼差しは強く、しかし口元はあえて気丈ににまりと笑って。
「――仕方ねーから、おめーの人生オレが貰ってやるよ」
 言えば、流川の瞳がほんのわずか揺れる。その長い睫毛が一度伏せられて、また開いて、そしていつものように可愛げの無い言葉を言ってみせる。
「……こっちの台詞だどあほう」
 距離が詰まる。流川の手が花道の頬に触れたと思った時にはもう唇が触れていた。
 もう何百回と、数え切れないほど触れてきた唇だ。
 指輪の箱をテーブルに置いたらしい流川のもう片方の手が、花道の手の甲に触れた。そして先程つけたばかりの指輪を確かめるようになぞる。いつも自信満々で自己中心的を絵に描いたようなあの流川らしくもない仕草に妙に可愛げを感じてしまって、花道はまた笑いそうになってしまった。そうしたら息継ぎの合間に流川に「余計なこと考えてんじゃねー」と臍を曲げられてしまったが、てめーのことだとはあえて言ってやらない。
 その代わりに今度はこちらから唇を合わせてやる。
 そのつめたそうな薄い唇がこんなに熱いこと、その温度がどんなふうかなんて、この先オレだけが知っていればいい。そしてきっと、そうなるのだろう。
 ――そういう誓いの、約束の印だ。
 触れたままだった指がするりと絡む。花道は流川のしたいようにさせてやる。流川が再び指の腹で触れたその薬指の根元の固い感触に、花道は自分でも自分をおかしく思うほど、心の深いところがあたたかく満たされるような心地になったのだ。





(2023年8月12日初出)
流花webオンリー「流れる川に桜舞う」様のお題企画に参加させて頂きました。
お題「約束」





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