BRIGHTLY,
部屋に帰ると、電気は点いていなかった。ルームメイトはまだ帰宅していないらしい。そういえば今日は授業の後に補講があるから、寮に戻るのが少し遅くなるかもと今朝言っていたような。そんなことを思い出して、流川は小さく息を吐く。今のはなんとなく、気が抜けての溜息だ。
高校を卒業して、渡米して数か月。寮生活だから仕方がないと割り切っているし、ルームメイトも悪いやつではないし、この数ヶ月で多少この生活に慣れもした。だがやはり流川にとっては、部屋に誰かがいるよりも一人の方が気楽なのが正直なところだ。だから、短くても一人で過ごす時間というのは今の流川にとっては貴重なものだった。
時刻は夕方、もう日は落ちかけている。夜の気配を纏い始めた部屋の中は流石に薄暗い。電気を点けようかと思ったが、なんとなく今日はそれすらも億劫に感じてしまった。流川は窓からこぼれる沈みかけの太陽の光を頼りにカバンを自分の机の脇に放り、そのままベッドに倒れ込むように寝転がる。
――今日は、ちょっと疲れた。
別に体力的にキツいわけではない。むしろ、体力は有り余っている。体力に関して言うならば、高校の頃の方が数倍消耗した。今疲れているのは頭だ。
現在、流川は大学進学のためのプレップスクールに在籍している。いくら日本の高校バスケで成果を上げようと、アメリカの大学に直接進学をするというのはそう簡単なことではない。それに、バスケだけできようとも現実問題として語学力・学力の面での底上げも必要になってくる。そのため、湘北高校時代の監督である安西と何度も相談を重ね、まずは前段階としてプレップスクールに一年程度通うということになった。
アメリカに行けばもっとバスケに没頭できるかと思っていたが違った。これも留学前に安西から話に聞いてはいたのだが、実際のところ現時点ではバスケよりも学業の比率の方が高い。アメリカにおいてバスケで有名な大学に行こうとすればどこもそれなりの学力が必要であり、『バスケだけやっていれば許される』という環境ではないのだそうだ。思い返せば高校時代にだって赤点が四つ以上だとインターハイへの出場が出来ないと言われ、追試に向けてどうにか勉強したということもあったが、こっちはそういうレベルではなかった。
本格的に留学を目指し始めてからは学力、特に英語力の強化が自分の課題であることは自覚していたので昔に比べれば多少の改善はした。しかしそれでも、元々ちゃんと勉強をしてきた人間と比べれば本当に『多少』でしかないことをこちらに来て改めて痛感させられた。
こちらの授業は結構難しい。多分湘北の授業よりもずっとレベルが高い。そのうえ、当然のことだがそもそも全て英語での授業になるため、まず何を言っているかの英語を理解してから内容を理解しなければならないという二段階がある。そのせいでひとつのことに対して二倍以上頭を使う。日常生活だってそうで、クラスメイトと会話をするにも、スーパーで買い物をするにも、全部英語でコミュニケーションを取らねばならない。
留学を目指して日本に居るときからできるだけの準備はしていたから、日常生活で絶望的に困ったことはない。だがどうしても頭を使うし、理解するのに若干タイムラグがかかることも多いし、その他細々としたところで壁にぶつかることは多かった。訛りや早口、知らない単語やスラング――流石に現地では、きれいに整えられた勉強用のリスニングCDのようにはいかなかった。
言葉の壁以外にも、日本とは勝手の違うことがアメリカの生活にはあちこちにあるから、日本にいる時は何も感じなかった日常生活のひとつひとつに少しだけの緊張がずっとあるような感覚だ。そういう細々としたことが積み重なって、こちらに来てから流川は、稀にだが頭がパンクしそうに思う瞬間がある。
日本に帰りたいなんて思っているわけではない。それは一切ない。やめたいとも思わない。アメリカの生活は、それでもずっと流川にとって刺激も学びも多いものだった。
まだバスケに関しては自主練習しかしておらず本格的なチーム練習はできていないが、ストリートに出て少し歩けば日本とは比べものにならないくらいバスケのコートが沢山あった。そしてレベルの高い人間もそこら中にごろごろいる。流川のルームメイトは違うが、プレップスクールのクラスには流川と同様バスケでの進学を目指して留学してきている人も数人おり、何度か一緒にプレーしたが当然彼らのレベルも高かった。バスケの国だ。嬉しかったし、楽しかった。
ただ今日はほんの少し、溜まっていた疲れが出ただけ。
(あー、明日、洗濯しなきゃ……)
明日はオフだから、溜まっている洗濯物をそろそろ洗わなければならない。寮では朝夕の食事の世話などはしてくれるが、洗濯や部屋の掃除などは自分でやらねばならない。日本に居た頃は母親に任せきりだったそれらを自分でやらなければならないことも、流川にとってこちらに来てからの大きな変化のひとつだった。
明日は晴れるんだったか。天気予報を思い出そうとするが、それよりも早く瞼が落ちてきそうになる。このまま寝てしまうか、いやでも、シャワーくらいは浴びておきたい。
……それに、と流川の脳裏に浮かんだのは、今日届いたポストカードのことだった。
受け取って、一旦カバンに仕舞ってそのまま。差出人は確認したわけではないが、確認せずとも分かっていた。こちらに来てから数度、同じような郵便を受け取って、そしてこちらからも送っていたから。
読もうかと思ったが、眠くて体が重い。どうせ、大したことは書いていない。そんなこと読む前から分かっている。だけど。
落ちそうな瞼、ほとんどモノクロームの視界。しんと静かなひとりきりの異国の部屋の中で、頭にちらつく鮮やかなあの色。
「……、さくらぎ」
その名前を口にするのも久しぶりだった。日本の高校バスケ界ではすっかり有名人と言っていいほどだったのに、海を越えてしまえば誰もあいつのことなんて知らない、この場所で。
会いたい。声が聞きたい。触れたい。今まで思い出さなかった、思い出さないようにしていたそんな感情が流川の中に溢れ出しそうになる。
腹が減っているわけではない。なのに腹の別のところが空腹を訴えているような心地になる。この満たされなさは飯が足りないせいじゃないことは、流石の自分でも分かっていた。
自分らしくもない。人恋しいだなんて。そう思ってから、違うな、と流川は自分で否定する。
恋しいなんて思う相手はあいつだけだ。
時差は十数時間。窓の外できらめく月も星も、向こうでは太陽の光に覆い隠されているだろう。時間すらも違う場所にいる元チームメイトであり、好きな男――一応は、恋人、の赤い髪を、ボールを追いかける大きな背中を、花が咲くように笑った顔を。ひとつも忘れたくない気分になった流川は、それらを脳裏に描きながら、瞼を閉じて睡魔に身を委ねたのだった。
◇
「……おーい、いい加減起きろっ!」
声が耳に届いて、流川は目を覚ました。瞼を開けば溢れんばかりに差し込んでくる朝日と白い天井の色が眩しくて一瞬目を細める。
そしてその間に、鮮やかな赤色。
自分を覗き込む、今や見慣れた男の顔がそこにあった。
(――……、夢)
そう少し遅れて流川は気が付く。随分と昔の夢を見たように思った。随分と昔、と言っても実際には十年も経っていないから言うほど昔ではないかもしれない。流川が高校卒業後に単身渡米して、数ヶ月経った頃の話だ。
流川が目を開けたことに気が付いた花道が、お、という顔をして流川を見る。
「よーやく起きたか。はよ、楓」
そう言って、手が伸びてきて流川の頭を軽く撫でるように触れてくる。バスケットボールを簡単に掴めてしまう大きな手だ。
「……花道」
流川は呟いて、ぱちぱちと目を瞬かせた。
なんだか分からないが、花道は機嫌が良さそうだった。寝起きの頭で流川はそう思う。いや、花道は基本的に、日常生活では何もないのに機嫌が悪いということはあまりないのだが。なにかと喧嘩っ早かった昔はさておき――感情がすぐに表に出る癖もバスケのことになると流川に過剰に対抗心を燃やすところも変わらないが――それ以外では花道は随分と穏やかになったように思う。
先程までの夢の余韻がまだ残っている。随分と懐かしくて、リアルな夢をみてしまったから、まだ現実と夢の境界がどこか曖昧だった。普段は夢なんて起きた瞬間に忘れてしまうことがほとんどだから、流川にとって珍しいことだった。
「なんだぁ、まだ寝惚けてんのか? オレはもう朝ランも終えたぜ、ねぼすけ」
そんな流川のまだぼんやりとした様子を見て、花道はおかしそうにくつくつと笑う。
「さっき走ってたら、美味しそうなパン屋見つけたから買ってきた。朝飯に食べよーぜ」
言いながら、花道の手がするりと離れていく。その手のひらの温度と柔らかな感触が離れて、まだ少しぼんやりとした頭で流川は少しばかりの寂しさを覚えてしまった。
ああ、でも、それでも。
「引っ越しの片付けも大体終わったから、そろそろこのへんの店とかも開拓したいよなー。今日買い物ついでに散歩でもするか?」
ベッドから少し離れた花道が、半開きだったカーテンを全開にする。こぼれ落ちそうなほどのきらきらとした朝日が、ふたりの寝室をいっぱいに満たす。振り返った花道は、まだ起きたときのままの姿勢でいる流川を見て呆れたように眉根を寄せた。
「ほら、折角出来たて買ってきたんだから早く起き――、おわっ」
再びベッドに片膝をついてこちらを覗き込んできた花道の腕に手を伸ばして、流川はぐいと引き寄せた。油断していたのだろう、簡単にバランスを崩した花道は流川の方に倒れ込んでくる。その大きな体を流川は抱き留めた。
バスケットをするためにつくりあげられた筋肉、がっしりとした厚い体。さっきの手のひらだけの時よりもずっと強く感じる体温。流川より少し高い。
初めて肌を触れ合わせて知ったときからずっと、いとおしく思っている花道の温度。
「……寝惚けんな!」
「ねぼけてねー」
「じゃあなんだ」
「なんとなく」
「……イチャつくのは後」
「へいへい」
腕の力を緩めると花道はすぐに起き上がって、ベッドから離れていく。仕方がないので流川もようやく体を起こし、ベッドから這い出た。
手を伸ばせば届く距離に、すぐに触れて抱き寄せられる距離に、当たり前みたいな顔をしてこの男がいる。そんな現実に、流川の心の内がじわりとあたたかいもので満たされる心地になる。
あれから数年待って、花道もアメリカに来た時の喜びといったら知れない。それほど嬉しい気持ちになった自分に改めて驚いたことを覚えている。
花道がアメリカに来て、二人で暮らし始めて、二人ともプロチーム入りして。所属チームは違うし、シーズン中はあちこち飛び回っているから会えない期間だって多い。
だけどそれでも、互いにふたりで居ることを選び続けてきた。
まるで引き合う磁石みたいに、離れることを忘れたみたいに。
そうして、流川のチーム移籍を機に、前よりもずっと広く陽当たりのいい新居に越してきたのが最近のことだ。そんな今を、幸福であると思う。
バスケだけあればいいと思っていた。
それだけあれば自分の人生の幸福は足ると、疑いもせず信じていた。実際、高校に入るまでの流川はそうだった。バスケ一色、それで不足はなかった。そのはずだったのに。
流川は少し先を歩く赤頭を見やる。
――それだけじゃ足りないということを、流川の人生に勝手に現れて、何度でも現れ続けて。そして忘れられなくなるまで教え込んできたのはこの男だった。
花道が寝室のドアを開けると、リビングダイニングの方からふっと淡くパンのにおいが香った。朝のにおいだ。花道が出来たてのパンを買ってきたと言っていた。その香りに誘われるように、流川は自分が腹が減っていることを自覚する。
「コーヒー淹れとくから、さっさと顔洗ってこい」
廊下を歩く途中にそう言って振り返った花道が、流川を見てぱちりと目を瞬かせる。何かと思っていたら、花道はぷっと笑って流川の頭に手を伸ばす。
「寝癖」
流川の髪に触れて寝癖を直すその手つきは、その大きな体躯や少し乱暴な口調には似つかわしくないほどに優しかった。
花道の赤い髪が、こぼれた朝日に縁取られるように光っている。鮮烈なほどの赤。流川の世界にさした色。
それを改めて思ったときに、再びこちらから手を伸ばしたのは衝動に近い。
一歩距離を詰めて、もう一度――今度は倒れ込まないくらいの軽い力で引き寄せて、その唇に噛みつくように流川は触れる。やわらかくて、そしてやっぱり流川より少しだけ熱い。
触れて、離れると、花道は頬をわずかに赤くしてこつんと軽い力で流川の頭を叩いた。少しだけ痛い。
「こーら、かえで。……朝にちゅーすんなら歯みがきしてからにしろっていつも言ってんだろ」
「したかったから」
「答えになってねー。おら、とっとと洗面所!」
すぐ横にあった洗面所の戸を開けた花道に、どんと背中を押されその中に押し込まれた。
仕方がないので流川は花道の言葉に従って、大人しく洗顔と朝の歯みがきを終わらせる。口の中をゆすぎ終わって、洗面所のドアを開けると、流川の鼻腔をくすぐったのは今度はコーヒーのにおいだ。
リビングダイニングに入ると、花道は流川の姿を認めて「丁度準備できたぜ」と言いながら二人分のマグをダイニングテーブルに置くところだった。
色違いのマグの中に入った湯気を立てるコーヒー、真っ白な皿の上に乗せられたつやつやのパン、こぼれそうなほどの朝日に包まれた部屋、そして目の前で笑う恋人の姿。ぐう、と小さく腹が鳴った。だけどこれはあの時に感じた、嫌な空腹ではない。気持ちの話じゃない。ちゃんと体が、健全に腹を空かせた結果の空腹だ。
気持ちならもう、とうに満たされている。
食卓について、流川はコーヒーを一口飲んでからクロワッサンにかじりつく。外はカリッといい音がするのに、中は驚くほどふわふわだった。口の中にパンの香りがぎゅっと広がる。美味しい。流川の口元は自然と綻んでいた。
「うま」
「だろ?」
流川の言葉に、花道がなぜか自分の方が自慢げに返す。作ったのはおめーじゃねーだろ、という指摘はしないでやることにした。
「このへんにあったんだ、パン屋」
「おう。あっちの大通りじゃなくて、その脇の細い路地のとこにあった。小さいけど種類多かったから今度別のやつも買いてーな。今度一緒に行こうぜ」
「ん」
またひとつ、約束が増える。それを楽しみだと思った。バスケに関しては今も流川の方が勝っていると思っているが、バスケ以外の世界の歩き方、楽しみ方は、流川は花道に教えてもらってばかりだと気付けたのはつい最近のことだった。
皿の上のパンを二人してあっという間に平らげ、流川は二人分の皿とマグを手に取ってシンクに運んだ。食事の準備に関しては自炊を含め流川はからっきしなので、食事の準備は花道、片付けは流川という役割分担がいつのまにか染みついていた。
花道がテレビをつけると、ちょうど天気予報をやっていた。今日は一日中快晴、今後しばらくは晴れの日が続くでしょう――と予報士が言っている。この新居のキッチンは新しく、リビングの方にシンクが向いた対面型の構造になっていたから、流川も洗い物をしながらその画面をちらりと見やった。
「買い物日和だな」と花道が鼻歌でも歌い出しそうに言う。今日は二人とも完全にオフなので、日用品の買い出しに出向くつもりでいた。
「そーだな」
皿を拭きながら流川が頷く。ダイニングテーブルに頬杖をついた花道が流川を見やって、そして楽しげに笑ったその顔は、やっぱりまるで花が咲いたようだった。