ベイビーブルーサマー

 アメリカに行く前に後悔を残したくなかったと、そう桜木に対して言ったあの気持ちは本心だ。
 だからあのとき、自覚した自分の感情を桜木に言うことに決めた。言わずに燻ったままでいるのは座りが悪くて、だからそれこそが自分にとって重要で、その先のことをあまりちゃんとイメージしていなかったというところは今にして考えればあったのだと思う。
 それでも、伝えれば。手に入れば。
 それで自分は満足できると、そう思っていたのに。

 青空の下、ガン、と大きな音を立ててリングが揺れた。流川のダンクシュートは見事に決まり、リングへたたき込まれたボールは地面に落ちて転がる。これで流川の五点先取だ。瞬間、フェンスの外からわっと歓声が届いていつの間にかギャラリーが集まっていたことに流川は気が付く。着地した後にほんの一瞬だけそちらを見て、しかし興味がないので流川はすぐに視線を足元のボールに向けた。ボールを拾い上げてから、渾身のブロックを躱されて息を吐いた男を見て言う。
「オレの勝ち」
 流川の言葉に彼は悔しげに、しかし小さく笑いながら肩をすくめた。
 とはいえ、トータルの戦績ではまだ負けの割合も少なくない。どうせまだ帰るには早い時間で、流川もまだ練習をするつもりでいた。輪郭を伝った汗を手の甲で軽く拭ってから流川が「もう一回――」と言いかけたところで、しかし「次のゲームやる前に、一旦休憩しようよ」という言葉に阻まれる。
「暑いから水飲まないと」
 もう夏に入りかけのような気温の中、直射日光の屋外コートである。確かにそれはそうで、そういえば喉も乾いていることにそれで気が付いた。流川は疼く闘争心をどうにかおさえて「……ッス」とその提案を承諾する。。

 流川のアメリカ留学の一年目はプレップスクールという、大学進学の準備のための学校のような場所に通うことになった。とにかく英語力と学力の底上げが今の流川にとっては必須事項で、バスケはどちらかと言えば空いた時間の自主練習がメインだ。バスケのために留学したとはいえバスケ漬けの生活が送れるわけではないのだと思い知らされた。それに正直歯がゆい思いも抱えながら、しかし安西からも事前に聞いていて、必要なことなのだと繰り返し言われていたからとにかく目の前のことに食らいついていくしかないと必死に足掻いているうちにあっという間に数ヶ月が経っていた。
 そんな日々の中でも、しかし合間を縫ってストリートコートでバスケをしていれば自然とバスケをする知り合いは増えていった。日本よりもバスケ人口が圧倒的に多いのもあったし、こっちは日本人よりもずっとフランクな人間が多い。
 流川はそもそも人とのコミュニケーションは得意ではなかったし、英語も早口だとまだ聞き取りにくい。そのうえこちらのバスケットプレーヤーとしてはたいして大きいわけでもないアジア人だ。だから最初は舐められたり変につっかかられたりすることも少なからずありはしたが、それでも実力を見せていけば、たまに会ったらバスケをするくらいの仲の奴はできた。
 この男もそんな一人だ。名前はオリバー。日系アメリカ人の何世かで、ひとつ年上、流川が進学を目指している大学の二年生。日系人といっても純アメリカ育ちだから日本語はほとんどできない。だから会話は他の奴と同じくほぼ英語だが、まあ日本人に対して変な偏見がないというだけでもやりやすかった。別にどう見られようが流川自身は気にしないが、妙な突っかかられ方をするのは面倒ではあったから。

 ゲームを始めた時よりもすっかり真上に昇った太陽の日差しは、確かにじりじりとした暑さを感じる。しかし日本の夏よりもからっとしていて過ごしやすいように流川は感じていた。
 木の陰になる公園の隅、フェンスに凭れて二人並んで水分補給をしているとオリバーがちらりと横の方のフェンスの向こうに目を向ける。そして流川に視線を戻して、小さく笑いながら言う。
「カエデとバスケしてると女性の見物人が多いんだよな。モテるだろ」
 そう聞かれたが、しかし流川自身は何も思うことはない。日本にいるときだって似たようなものだった。日本の時の方がこれよりもずっと見物人は多かったが、やっぱりそれに対して何かを思うことはなかった。バスケの邪魔をしてこなければなんだっていい。
「興味ねーっす」
 流川が本心からそう返事をすると、オリバーは「うわあ、言うねえ」とまた肩をすくめた。
「興味ないのはさあ、コイビトいるとか?」
 そう茶化すようにオリバーは続ける。どうやらこの軽口をまだ続ける気らしい。別に元々流川は、見物人が多かろうが少なかろうがモテようがモテまいが全く興味はない。が――
 コイビト、という言葉を聞いて、流川の頭の中にちらりと過った色があった。
 髪の色も肌の色もさまざまなこちらでだって探せない、一度見たら忘れられないほどの、目が覚めるような鮮烈な赤。高校時代、流川とバスケのすぐそばにしつこいくらいにずっとあったもの。
 その赤色を思い出した瞬間、心臓が疼くみたいに小さく鳴った。久しぶりに真正面から思い出してしまった。あいつのことを思い出すと沸き起こるこの感情は、他の時にはない、流川にとって初めて知る感情だった。
 手の中のスポーツドリンクの缶を傾けて一口飲み込んだ後、流川はオリバーの質問に答える。
「元々興味ねーっすけど……まあ」
 流川がそう言って小さく頷くと、そんな流川を見たオリバーは目を丸くして驚いてみせた。「え、カエデが恋バナに乗ってくるなんて……!」と言った後、興味津々といった目で少し早口になって流川に再び質問をする。
「恋人は日本にいるの?」
「ッス」
「遠距離か~。カエデの恋バナ、興味あるなあ。どんな子か聞いてもいい?」
 どんな子。流川は考える。そこで、あいつのことを人に説明するなんて今までしたことがなかったなと気が付いた。こっちに来てから、あいつの話をすることも全くなかった。だって誰も――こっちに来てから一度だけ会った宮城や沢北たち以外――ここではあいつのことを知らない。まして、自分たちの関係性も。
 だからなのかもしれない。普段なら乗らないこんな話題に、たまには乗ってやろうかという気分になったのは。自分の中にしか存在しなかったそれを、確かめるみたいに、自分の外に出してみたくなったのか。
「赤頭で」
「うん。……日本人?」
「ニホンジン。んで、うるせえ」
「なにそれ」
「あー、あと、……高校ん時のチームメイト」
 そこまで不思議そうな顔をしたりおかしそうに笑ったりころころと表情を変えていたオリバーが、その言葉を聞いてぱちくりと目を瞬かせる。そして少し考えるように顎に手をやった後、「高校のバスケって、男女混合……じゃないよね?」と流川に聞く。
「……恋人ってもしかして、男?」
 言葉を選ぶように、彼にしては珍しいほどゆっくりとした口調で続けられた言葉に流川は頷いた。それを見て、オリバーはまた驚いた顔をする。さっきから表情が忙しい男だ。
 とはいえ、それもそうか、と流川は思う。流川はそもそも興味がないからそこを大して意識していなかったが、世の中のマジョリティは異性との恋愛だ。だから――と流川は思ったが、しかしオリバーは流川の予想とは少し違う驚き方をしていたようだった。
「……カエデもゲイだったの?」
「……、も?」
 おや、と思う。その言い方が気になって聞き返すと、オリバーは「ああ」と言って顎にやっていた手を顔の横に広げて流川に説明した。
「オレもゲイ……っていうか正確にはバイだね。女の子も、男のことも、性別関係なく好きになるってやつ。まあ最近は男のほうが多いんだけど」
 言われて、なるほど、と思う。
(だから、『も』か)
 バスケをしているときに集まってきたギャラリーの女性に対してへらへらしていたりと女好きのイメージがあったから少し意外で驚きはしたが、まあそういうこともあるかと思う。
「……オレは男だからとか女だからとか、正直わかんねーっす。あいつしか好きになったことないし、他に興味ねー」
 流川がそう返すとオリバーは小さく笑った後に、ヒュウ、とやたらに上手い口笛を吹いた。
「ゾッコンなんだ、いいねえ」
「……まあ」
 人から改めて言われると若干の気恥ずかしさは覚えるが、しかし否定するほどのことではない。今ここであいつが聞いているわけでもない。だから流川はオリバーの言葉を素直に肯定した。
 そんなことよりも、オリバーの言葉を聞いて流川の胸中ではある別の思いが渦巻き始めていた。
 流川は日本にいた頃、周囲に男同士で付き合っている奴の話を聞いたことがなかった。
 もしかしたら流川が知らなかっただけか、そういったことに興味がなさすぎて聞いたそばから忘れてしまったという可能性もゼロではないが、とにかく思い返してみれば誰も思い当たる人がいなかった。テレビなどで見かける恋愛の話も、異性同士のことばかりだ。まあそれも興味がないから具体的な内容もまったく覚えていないのだが。
 とにかく、だから、男同士の恋愛のことが分からないということに流川は最近今更に気が付いたのだ。この先どうすればいいのか、その進め方も、調べ方すらも分からない。
 だけどこの男なら、何か知っているかもしれない。

 ――あの夜のこと、あの夜に見た桜木のことを、こっちに来てからも折に触れて流川は思い出していた。
 それは高校の卒業式の直前。告白の返事を桜木から貰って両思いとなった後、勢いのままに桜木の家で触れ合った時のことだ。あの時は何の準備も知識もなかったから、ただ唇や肌を触れ合わせて、手で形を確かめるように桜木に触れて、そのくらいしかできなかった。勿論、それでも十分すぎるくらいに満たされた。嬉しかったし、気持ちがよかった。だけど。
 あの夜の桜木の、普段のうるさくて無駄に偉そうなあいつとは全然違う顔――熱っぽい目や蕩けた表情、流川を呼ぶ甘く緩んだ声を思い出すたび、たまらない情動が流川の内側を駆けた。
 もう一度触れてみたい、もっと知りたい、この男のもっと深いところまで触れてみたいという欲が沸き起こった。そんな自分に驚いた。もっと深くまで、なんてできるのか知らないけれど。
 流石に男女のことであれば知識として何となくは分かる。だけど男同士のことは流川にはさっぱりだった。
 伝えれば。手に入れば。それで満足できると思っていた。
 それが叶ったはずなのに、そうしたらまたその次を欲しがって欲張る自分がいることに気付かされてしまった。
 自分がこんなふうになるなんて、まったく考えたこともなかった。しかしそれはもう、気付いた時にはもう無視できないほどの大きさになってしまっていたのだ。

(けど、どうすればいいかなんて分からなかった)
 そうやって燻っていた。しかしこれは、思いがけないチャンスなのかもしれない。そう流川は思う。
 知り合ってまだ数ヶ月の相手に対して踏み込んだことを聞きすぎかもしれないという思いも一瞬よぎりはしたが、しかしこのチャンスを逃すわけにはいかないという気持ちの方が勝った。
 初夏の日差しに滲んだ汗をタオルで拭ってから、流川は、遠くにいるギャラリーに聞こえない程度の声量で口を開く。
「……あの。ちょっと聞きてーんすけど――」



(2024年1月7日初出)





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