for eternity

 公園にドリブルの音が響く。花道は手のひらでボールを確かめるように弾ませながら、すぐそこにあるゴールを仰ぎ見た。いつもより公園はずっと静かで、今は花道しかいない。近くの道路を通る人や車もまばらだった。
 短く吐き出した息はうっすらと白い。今日は快晴でとりわけ寒い一日になるでしょうと、今朝テレビでお天気お姉さんが言っていた。けれど体を動かしていればそんなものすぐに関係がなくなる。
 ぱし、とボールを両手で持って、そのままゴールに向けてシュートを放った。あ、だめだ、とボールから手を離した瞬間に自分で思う。その予感は違わず、ボールはリングのふちに阻まれてしまう。がこんと音を立てて弾かれたボールがあらぬ方向へ落ちていくのを花道が見ていると、背後から聞き慣れすぎた声が飛んできた。
「下手くそ」
 条件反射のように花道がばっと振り返ると、そこにはつい数日前まで同じコートで戦ってきたチームメイトであり、――会いたくて、少しだけ会いたくなかった男が立っていた。いつもの仏頂面で、呆れたような顔で花道を見ている。その顔を見てぐっと胸が詰まりそうになって、しかしそれを気取られないように花道はわざとらしく鼻を鳴らしていつもの調子で流川に返す。
「なにを、この天才に……」
「注意散漫。集中力がたりねー」
「なんだと」
 そうは言ったが、それは自分でも自覚していたところだったので耳が痛い。しかし素直に認めるのも癪だった。花道は眉根を寄せて流川をむっと睨むが、流川は気にした風も無く自分で持ってきたボールを何度か地面に弾ませ、そして花道より少し遠い、スリーポイントのラインからシュートを放ってみせた。
 流川の手から放たれたボールは、まるで魔法でもかかっているみたいに、美しい軌道を描いてゴールに吸い込まれていく。リングのふちにかかることもなく見事にネットをくぐったボールを視線で追いかけながら、花道はそのシュートの見事さへの単純な高揚と、見せつけるようにシュートを放った流川への苛立ちや悔しさが同時に沸き起こって何も言えなくなってしまった。
 流川のボールは地面をころころと転がって、そして花道の足元に辿り着く。爪先にこつんと当たって止まったボールを見下ろして、少しだけそのボールを見つめてから花道は流川に言った。
「オマエさあ、こんな日もひとりでバスケかよ」
「は?」
 花道の言葉に、ボールを拾うためにこちらへ歩きかけた流川は怪訝そうな顔をした。花道はそんな流川に向けて、すうと息を吸って言ってやる。
「今日、正月だし」
 流川の目が花道を見る。そんな流川の眼差しの強さに、一瞬ぱちんと絡んだ視線を花道は足元のボールに向けることで逸らした。ボールを拾ってやりながら、花道は続ける。
「誕生日だろ」
 花道の言葉を受けた流川は、しかし気にした風も無く花道に返す。
「それがどーした」
「……暇人キツネ」
「てめーに言われたくねー」
 拾ってやったボールを流川に向けて投げる。少し強めに投げてやったのだが、流川は難なくキャッチして再びドリブルを始めた。同じ空間に居ながらそれぞれ勝手に練習をするのはいつものことだ。だからそのまま自然に、ハーフコートずつを使ってそれぞれに練習を始めた。違いといえば、場所が学校の体育館ではないことくらいか。流石に正月は学校の体育館も開いていないし、そもそも花道も流川も数日前に部活を引退した身であった。
 今日は正月で、花道も午前中は洋平たちと連れ立って初詣に行っていた。近所の神社に行って、出店で軽く腹を満たした後は、それぞれにバイトなり家族の予定なりがあるのだと言って今日は少し早めの解散になったのだった。そして帰宅しても特にやることがなかったので、花道はこうしていつもの公園に練習に来ていた。正月だろうが努力を怠らない天才である。
 高校三年の選抜――最後まで部活を引退しなかった自分たちの高校最後の大会がつい先日終わり、部活は引退した。しかし練習を休んでいる暇などない。花道はバスケットのスポーツ奨学生として大学進学が決まっていたし、なにより、一年の時に監督である安西から言われた『ルカワの三倍練習しないと到底追いつけない』という言葉がずっとずっと、花道の頭の中にあったのだった。
 リングを通って落ちたボールを拾う合間に、ちらりと反対のゴールを使っている流川の方を見る。ちょうど放たれたボールはやっぱり見事なまでに綺麗にゴールへと吸い込まれていった。その背中を見ながら、花道は一瞬また余計なことを考えてしまいそうになって、慌てて自分の練習に戻った。

 冬だろうが動いていれば体は暑くなるし汗もかく。どのくらいそうしていたのだろうか。額にうっすらとかいた汗を腕で雑に拭うと、不意にすぐ後ろから声をかけられた。
「おい」
「あ?」
 そう言いながら振り返ると、流川がボールを脇に抱えて立っていた。流川の背後から差し込む西日が眩しくて、花道はわずかに目を細めてからもうそんな時間かと気付いて驚いてしまう。流川は休憩していたのだろうか。まあスタミナがないキツネだからな――なんて思っていると、流川は花道を見ながら口を開いた。
「……このあと、てめーんち行っていいか」
 花道は目を見開く。
 思考よりも先に心が勝手に高揚する。嬉しいと、まずそう思った。だけどその直後にぐっと胸が詰まる。気持ちと思考がちぐはぐで、花道はそんな自分に呆れる。嬉しいくせに、期待したいくせに、どうしようもできないまま花道はさりげない仕草でふいと目を逸らした。
 家に来る、という言葉が自分たちにとって持つ意味は、文字通りのことだけじゃない。家に来てそれでなにもなし、なんて関係では自分たちはもうない。そんなことは流川でも流石によく分かっているはずだった。
「……ダメだろ」
「は?」
 ぐるぐるとまとまらない感情の中、口からこぼれたのは結局そんな言葉だった。花道の言葉を受けた流川は、心底意味が分からないといったような顔で眉根を寄せる。
「こういう日は家族で過ごせよ。アメリカ行く前、最後だろ」
 そう言った自分の声の頼りなさに、自分でまた呆れる。
 ――高校最後の大会が終わって、自分たちの部活が終わって、あとは春が来るのを待つだけになった。
 春になったら自分は一旦国内の大学への進学、流川はアメリカへの留学が決まっている。
 部活があった間は、まだギリギリ平気でいられた。だけど部活がなくなって、あとはもうあっという間に卒業式で――と思ったときに一気に怖くなってしまった。
 春になればもう、こんなふうに簡単に会える距離に、こいつはいなくなってしまう。
 これ以上近付くことが怖くなった。気丈に振る舞うのは得意でも、元々自分は寂しがりなところがある。近付いて、すぐそばに当たり前にいるこの距離に慣れてしまったのに、それが急にいなくなったら自分はどうなってしまうのだろう。
 遠距離に自分が耐えられるのか、自信がまったくなかった。それにこいつだって、アメリカに行ってバスケしてるうちにこんなのは一時の熱だったとケロッと忘れてしまうかもしれない。そもそもこいつはずっと、バスケかそれ以外か、という人生を生きてきたヤツなのだ。
 ずっと忘れていたはずだった、中学時代の失恋の痛みを今更に思い出す。好きだから痛いのだ。本気であればあるほどに痛くて苦しい。
 だったら、好きの気持ちを少しずつ手放していけば。これ以上好きになんてならなければ。ただのライバルに戻れるのならそれが一番いいと、ひとりで練習をしながらさっきずっと考えていた。気付いたらなし崩し的に始まって、ここまでずるずると続いてしまった関係だ。
 これからも続けられる保証なんてないのであれば、いっそここで終わらせてしまった方が――とすら。
 今日が流川の誕生日だって、朝起きた時から気付いていた。祝ってやろうかという思いもよぎったのにそれができなかったのは、それほどに、もう近付くことが怖いと思ってしまったのだ。
「知らねーよ。そんな決まりなんてないだろ」
 しかし花道の言葉に対して、すっかり呆れたような口調で流川が言う。花道のこんな繊細な葛藤すら流川には理解できないものなのだろうとその口調に勝手に思わされて、じわりと苛立ちとむなしさが花道の中に湧き上がった。
「てめー、ほんとそういう……」
「午前中に誕生日プレゼントも貰ったし、家族で初詣も行った。それだけじゃ不満か」
「っ……」
 元々何か言葉や理屈を用意していたわけではない。勿論、家族と過ごした方がいいと思う気持ちは嘘ではないが、自分の感情のままにそれっぽい理由をつけたという部分が大きかったから花道は流川に対して咄嗟に何も言い返すことができない。
 花道の手首を、ボールを持っていない方の流川の手が掴む。「じゃあ」と流川の薄い唇が動いた。ボールばかり掴んできたせいで固いその手のひらに、にわかに力が込められる。
「家族だったらいーんか」
「は?」
 その言葉の意味を捉えかねて、花道は思わず聞き返してしまった。
 何を言ってるんだこいつは、と少しの間考えてから、まさか、と思って花道は動揺する。かっと顔が熱を持った。流川の目が、いつもの迷いのない強い目つきで花道を射るように見つめている。
 この目が好きだった。いつからかずっと。この目が他のやつを見ることなんて、絶対に嫌だって思うくせに、自分は。
「……キツネ、おい、意味分かって言ってんのか」
「……分かってるに決まってるだろ、どあほう」
「いや、……ヒヤクしすぎだ」
「てめーが頑固なのが悪い」
「そーいう話じゃ、……」
 こんな喧嘩の延長みたいな、一時の感情で軽はずみに言っていい言葉じゃねえ。将来を誓うには早すぎる。そう思うのに、これから先これ以上の相手が現れることはないだろうと嫌というほどの確信が花道にはあった。
 言葉が出てこない。気が付いてしまえば、体の中でわっと膨らんだ感情が言い訳の言葉を喉の奥でせき止めてしまった。
 遠距離恋愛なんて、苦しいに決まってる。オレたちには――とりわけオレには向いてない。そんなの自分が一番分かっていた。だからこの手を離したい。だけど、離したくない。相反する自分の感情が渦を巻く。
 花道の手首を流川は掴んだまま離さない。わずかな苛立ちすら含んで、問うようにその目は花道を鋭く見続けていた。
 手に入れられないものなんてないと、その目が真っ直ぐに信じている。その目がずっと眩しかった。一度だって本人に言ったことはないけれど。
 花道のことを慮って、一緒にしゃがみこんで慰めたりなんてしない。ただ目の前に立って、花道が何かに迷ったときにはこの男は不思議なほど気付いて焚き付けた。流川というのは思えば最初からそうういうやつだった。同じ目線に降りてくることなんてない。手を伸ばして引き上げることもしない。同じ目線に立つなら立てと、傲慢で純粋なその目が花道にそれだけを求める。花道が本当に欲しいものを、時々自分以上に分かってるみたいな顔をして。
 ――これ以上好きにならなければ。好きの気持ちを少しずつ手放していけば。そう自分に言い聞かせようと必死だった時点で、そんなこともう簡単にできやしないのだと本当は分かっていた。
 オレはもう、こいつのいない世界を知らない。
「泣き虫」
「ッ……泣いてねえ」
 泣いていないのは本当だ。目は潤んじゃいない。だけど、自分がひどい顔をしているであろうことは悔しいかな想像がついてしまった。こんな顔、こいつには見せたくないのに。いや、今更か、色々と。
「……つーか、できねえだろ、男同士だと。ケッコン」
「知るか。オレは形とか名前とかどーでもいい」
 ただ、互いにこの手を離す気がなければそれでいい。
 離すわけがないだろう、と流川の目はそう信じていた。
 しばらくの間、互いに何も言わなかった。奥まった場所にあるこの公園はしんと静かで、今日は車の通る音すら聞こえない。一度だけ二人の間を音もなく駆けていった風が、きんと冷たかった。冬だ。こいつと出会って三度目の冬。付き合い始めてからは、最初の。
「……オレも」
 そんなに静かだから、花道の呟くように言った声がいやに小さくても流川の耳には届いたようだった。流川はその長い睫毛に縁取られた目を一度だけ瞬かせて、花道の言葉を待つように見つめる。
「オレも、今日、会いたかった」
 だって、特別な日だ。好きな相手の、恋人の誕生日なんて。そんなの、当たり前の感情だ。
 それを祝う権利が欲しかった。そんなもの最初から、自分の手の中にあったはずなのに。
 花道の言葉を受けて、流川はその眼差しだけで呆れたみたいにわずかに笑う。
「だったらうじうじ悩んでんじゃねー、どあほう」


 ◇


「――あ~~……終わったな」
「ん」
 そう言いながら、連れ立って役所を出る。先程までの緊張がそこでようやく解けたような感覚になり、花道は大きく伸びをした。そんな花道に対して、流川は最初から最後までさっぱり変わらない表情である。肝が据わっているのか、何も考えていないのか。多分その両方だと長くなった付き合いゆえ花道は思う。
 一月一日だというのに役所は混んでいて――いや、一月一日だからかもしれない――思ったより時間はかかったが、どうにかつつがなく手続きを終えることができた。手続きをしたからと言って、その瞬間に何かが劇的に変わるわけでもないから、まだなんだかふわふわとした気持ちが強いけれど。
 少し歩いて大通りに出れば、街は新年ムードで賑やかだ。歩く人もみんな楽しげな顔をしている。パーティ大好きな国・アメリカということもあり、こういう日は日本よりもお祭り感が強いかもしれない。文化の違いというやつだ。こちらで暮らして数年、花道は結構こちらのこういう空気も好きだった。楽しい雰囲気につられて、こちらもなんだか楽しい気分になってくるから。
 前から歩いてくる人を避けるために、花道は流川の側に少しだけ寄った。その拍子に手と手が触れる。流川の左手薬指、その付け根に固くて冷たいリングの感触。少し前から付け始めたそれは、勿論花道の左手の薬指にも同じものが嵌まっていた。
 ――そういえば、と不意に高校生の頃のことを花道は思い出す。高校三年の頃の今日、あの日のやりとり、流川に言われた言葉。懐かしい思い出だ。青かったし若かったと思う。
 きっと流川はすっかり忘れているだろう。だけど花道にとっては今日まで、とりわけ日本とアメリカで離れていた時期にはお守りのような記憶だった。流川にはそんなこと言ったことがないし、今後もわざわざ言うつもりはない。このバスケ以外はぼんやりのキツネが忘れていても、この天才が覚えていれば、それでいい。
 流川がちらりとこちらに視線を向ける。身長はあれからも伸びて追い越されては追いついて、結局いまだほとんど同じくらいの高さで視線が絡んだ。
「この後、どーする」
 楽しい気分だから、美味いメシを食べに行ってもいいし買い物なんかをするのもいい。そう花道は思ったけれど、しかし流川は違うことを口にする。
「さっさと帰ろーぜ」
 先程一瞬触れた手が、流川の手に掴まえられる。そうしてから、流川は言葉を続ける。
「昨日花道が作ってた雑煮食いてえ。んで、食ったらバスケする」
 そしてそんなことを流川が言うものだから、花道は小さく笑ってしまった。どこまでもバスケバカだ。何年経っても。今やプロとして、毎日バスケ漬けの生活になっても。それは花道だって似たようなものではあるけれど。
「じゃ、帰るか。帰ったら親御さんにちゃんと電話しろよ? 誕生日と、報告」
「ん」
 流川の手のひらから、指先から、伝わる体温があたたかかった。
「あと雑煮食ってバスケでもいいけど」
 花道が言いかけると、流川の視線がこちらを向く。続きの言葉を促すように花道を見た。その強い視線は、昔からずっと変わらない。この瞳がオレのものであるということをもう世間に大手を振って言えるのだと思うと、むずむずとした嬉しさが湧き上がる。だから、花道は素直に思ったことを口にすることができた。
「……オレはちょっとイチャイチャしたい気分、かもしんねえ」
 言ってから、じわりと恥ずかしくなる。自分は今、浮かれているのだという自覚はあった。だって、当たり前みたいに今日この日を隣で過ごすことができるのが嬉しかった。別にそれに書面上の名前なんてなくたってよくて、それは毎年思うことで、だけど今日はとりわけ自分たちにとって特別がひとつ増えた日でもあったから。
 花道を見つめた流川が、ふ、と短く唇から息をこぼす。神奈川よりずっと寒いアメリカの空気がふわりと白く染まるのを花道は見ていた。
 当然みたいな口調で「じゃ、そうするか」と言った流川の言葉がなんだか今日はどうしようもなく嬉しくて、やっぱり浮かれてんなあ、と思いながら花道は繋がれたその手をこちらからも握り直した。


(2024年1月1日初出)





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