クラッシュ・オン・ユー
桜木花道と流川楓は付き合っている。しかしそのことを知っているのは、水戸や宮城など二人にごくごく近しい一部の人間に限られる。それだって悩みに悩んで、隠し通すことのほうが憚られて言っておいたほうがいいだろうと判断した――あるいは相手に既に何となく察されていて流れで伝えたというような形だった。言わないでおこうと言い出したのは花道の方だ。告白をして、付き合うということになってすぐに流川にその話をした。それは互いにアメリカの大学リーグで活躍し、プロになる直前というタイミングだった。
なにかと理由をつけて流川を説得したが、結局のところ本心では花道自身が周囲にやたらに知られるのを気恥ずかしく思ってしまったからだ。好きな相手と付き合う、ということが花道は人生で初めてだったから、どういう振る舞いをすればいいのか分からなかった。その時の流川は、花道の提案を聞いて少しだけ考える素振りをしたあと、「……いーけど」と頷いた。
――それから数年。互いに憧れのNBAでプロになってそれぞれ別のチームに所属し活躍している現在も、たまに喧嘩をすることはあれど想像よりもずっと順調に、花道と流川の秘密の付き合いは続いている。
人が多いということもあるが、軽く見渡しても部屋の全容が把握できないくらいに大きなパーティ会場に花道は改めて感嘆する。こっちに来てもう何年も経つが、改めてアメリカというやつはなんだってスケールがデカい。日本で自分が住んでいたボロアパートのあの部屋が一体何個分入るんだろうな、なんてくだらないことを考えていると後ろから「よう、ハナ!」と声をかけられて花道ははっと振り返った。
「おう、スティーブ! ……お、なんか美味そうなもん持ってんじゃねーか」
声をかけてきたのは花道のチームメイトだ。気さくな挨拶にこちらも笑顔で返したあと、花道の視線はその手の中の皿に行く。皿の上にたっぷりと盛られた肉とほんの少しの野菜、それらはどれも美味そうで見ているだけで花道は腹が鳴ってしまいそうになった。
「ああこれ? あっちにあったよ」
花道の言葉を受けたスティーブが、向こうの壁際のテーブルを指さす。きっとにわかに人だかりができているあたりがそうなのだろう。普段はプロとして食事にもある程度気を遣ってはいるが、シーズンオフに入ったばかりの今は多少好きなものを食べてもいいだろう。そう思って、花道はスティーブに礼を言って、スキップでもしそうな浮かれた歩調でビュッフェコーナーへと向かった。
つい先日昨年から続いたシーズンが終わり、その慰労会のような形で開かれたパーティが今日だ。花道のチームだけではなく、色んなチームの関係者を呼んだ大きな規模のものだと聞いてはいたが、それにしたってデカい。金持ちってすげーな、なんて花道は皿の上にめいっぱい乗せた料理を食べながら思う。すれ違う顔ぶれは、花道の知っているヤツも知らないヤツもいる。多分ほぼバスケ関係者ではあるはずだが、その知り合いだの家族だのも呼ばれているようだからなんかもうごちゃ混ぜだ。
とはいえ花道は賑やかなことが好きなので人が多いのは楽しいし、最近はプロとして多少名が知れてきたのもあってか、こういう場に出ると知り合いかどうかも関係なく話しかけられることが多い。さすが天才、世間が放っておかない男、と思ってその度に花道は嬉しい気持ちになるものだった。
それに今日は――。会場に向いた花道の目は無意識に一人の男の姿を探していた。
スポーツ選手らしからぬ白い肌に真っ黒な髪、身長は日本であればどこにいたって頭一つ抜けて高かったが、アメリカで、しかもバスケット選手が多く居る中ではさほど高い方でもないから少し探しにくい。ぱっと見渡した中では見つけられなかったが、だけど今日はあいつも呼ばれているはずだ。先日電話をしたときにそう言っていた。
だから来ているはずなのだが、……まさか寝坊して遅刻したわけじゃあるまいな、なんてことを花道が思いかけた時に花道の目はその男を捉えた。見つけた瞬間、花道の目はまるでそれ以外が認識できなくなったみたいにその男だけにフォーカスする。心臓が小さくドキリと音を立てた。
もう何万回も見ている顔のはずなのに。だけど、ここしばらく互いに忙しくてまともに会えていなかった。試合の録画なんかでは見ていたし電話やメールはたまにしていたけれど、直接あいつの姿を見るのは久しぶりのことだった。
顔を見ただけでドキドキしてしまうなんて、そんな自分が少し悔しい。ヤツに対しては普段以上に発揮される負けん気のせいで花道はそんなことを思ってしまうが、しかし同時に顔を見られたことへの嬉しさのほうが勝った。
(アイツ、一人かな)
人波の隙間から見える流川は、マイペースに壁際に凭れて手の中のグラスを軽く煽っていた。それだけでもむかつくくらい絵になるやつだが、とにかく誰かと話しているような様子はない。ならば、チャンスかもしれない。そう思って花道の胸は高鳴る。
自分たちが付き合っていることは、公表していない。この後に会う約束もしているから、別に今わざわざ話しかける必要なんて本当はない。
しかし久しぶりに会えた嬉しさと会えなかった期間に積もった寂しさが花道を突き動かした。勿論、公衆の面前でベタベタするつもりなんてない――例え公表していたとしたって花道は恥ずかしくてできないだろう――けれど、少し声をかけるくらいなら。ようキツネ一人で寂しそうだななんてからかって、軽く立ち話をするくらいなら誰も怪しまない。流川と花道が同郷の出身であり花道が流川をライバル視していることは、二人を知っている人間にとっては周知のことであったから。
流川の方に歩いていきながら、どう話しかけるか花道は脳内でシミュレーションをした。なんでもないふうに話しかけて、適当にどうでもいい話をして――。別にヤツに話しかけるくらいでそんなことをする必要もないとは思いつつも、慣れない場所で、久しぶりにアイツと話すということに妙に緊張していたのかもしれない。
流川との距離が段々近付いてくる。流川はまだ気付かない様子だ。あともう少し、そろそろ声が届くくらいの距離だろうか。そう思って花道が「よう、キ――」と口を開きかけた瞬間。
「ハナ~~! こんなところにいた!」
後ろからどすんと思い切り突進され、花道は思わず「おわっ!?」と大きな声を上げてしまった。
元々の体幹に加えてバスケットのために更に鍛え上げた天才の体はそれでよろけることすらなかったが、相手がこの天才じゃなかったらこの勢いで突進されてはすっ転んでしまったところだろう。振り返らなくてもその声で犯人は分かる。
「トニー! あっぶねえよ、相手がこの天才じゃなかったら事故るとこ……酒くせえ!」
振り返った瞬間鼻につんときた酒のにおいに花道は顔をしかめる。既に相当飲んだなコイツ。花道に抱きつくような格好になった男は、怒られてもまったく気にした風もなく赤い顔でへらへらと笑っている。
トニーは花道のチームの新人だ。チームの中では比較的小柄だがすばしっこく、ドリブルとシュートが上手い。大学リーグでもなかなかの活躍をしたという。良くも悪くもお調子者な性格だが、そういう明るさが花道と妙に馬が合い、花道が弟のように可愛がっているチームメイトだった。
「あっちでスポンサーが呼んでたよ。ハナに会いたいって」
「ぬ……」
そう言われて、花道は酔っ払いの後輩に気付かれないように一瞬だけ流川の方に視線を向ける。流川はまだ一人でグラスとお友達のようだった。
会いたいと言ってもらえるのは嬉しい。なんといっても今期も驚異のリバウンド率と窮地を救うスーパープレーをたたき出した天才バスケットマンだからな、それは大人気だ。会いに行ってやらねば――と思う反面、ようやく見つけた流川の姿に少しだけ後ろ髪を引かれる思いはあった。
しかし、今優先すべきはスポンサーだろう。それが終わってから、賑やかなパーティで一人寂しくしているキツネに話しかけてやればいい。
「わかった、あんがとなトニー! 天才は引っ張りだこだからなあ」
そう大人の判断をして、花道はくるりとトニーが教えてくれた方へ方向転換する。「いってらっしゃ~い」というトニーの若干ろれつの怪しい返事を背中に聞きながら、花道は一旦その場を後にした。
(あ~~……、結構長かったな)
その場を立ち去ったスポンサーの姿を見送りながら、花道はそんなことを思ってしまった。
というのも、軽く立ち話くらいのつもりでいたのだ。しかし盛り上がって、なんだかんだと長いこと話し込んでしまった。
花道も人と話すのは好きだし、褒められれば嬉しい。今日のスポンサーは花道のことを大絶賛だった。だから話している最中もずっと楽しくはあった。しかし今日ばかりは、先程話しかけられなかった流川の姿がふとした瞬間に頭の中を掠めて、あいつ今どうしてんのかな、話してえな、と焦れるような気持ちが湧き上がってしまったのだ。
そんな自分が妙に恥ずかしい。でも本当のことだった。
このところ会えていなかったせいだ、と思う。こんなことを思ってしまうのは。どうせこの後会えるっていうのに。
(……こんな賑やかなパーティ会場でずっと一人でいるなんてさすがのキツネでも寂しかろう)
花道は言い訳みたいに、そんなことを心の中で呟く。足は自然と先ほど流川を見かけた方に向かっていた。
きょろきょろと視線を彷徨わせてヤツを探す。と、大柄な男たちの隙間から流川の姿を見つけた。先ほど見かけたのと同じ場所だ。どうやら花道がスポンサーと話し込んでいる間も移動もせずぼんやりしていたらしい。さすがのぼんやりキツネである。
今度こそ話しかけてやろう。そんな決意を胸に、さりげなくさりげなく、と心の中で唱えながら花道は人波をかき分けて流川へ近付く。と、そこで流川が誰かと話している様子であることに花道は気が付いた。
(誰だ……? チームメイト?)
そう思ったところで、人の合間を掻い潜って視界が少し開ける。そうすると、流川が誰と話しているのかも花道は捉えることができた。
(……ッ、うお)
見た瞬間、花道は足を思わず止めてしまった。花道の急ブレーキに、横を通り過ぎようとした誰かが腕にぶつかる。慌てて「ソーリー」と短く謝ってから、花道の目はすぐにまた流川へ戻る。
流川は大人っぽいドレスを着た数人の美女に囲まれていた。彼女たちの姿は花道もなんとなく見覚えがある。確か偉いさんのお子さんだかお孫さんだか。話の内容までは聞き取れないが、どうやら彼女たちが積極的に話しかけて流川も一応それにぼそぼそと返答はしているらしい。
こういう場面、昔のヤツであればさっさと彼女たちを切り捨ててどこかに行ってしまったところだろうが――そして花道が『女性に冷たくすんじゃねーこの冷徹ギツネめ!』と怒っていたところだっただろうが――今日のそれをしないのは、さすがにスポンサーの身内の女性たちだと分かっているからだろう。特に楽しそうでもないということは遠目の花道にも分かったが、しかし適当に合わせて多少の会話を付き合うくらいの社会性はキツネにもできたらしい。
いい成長だ。話しかけてくる数多の女性を、無視するか斬って捨てるような態度しか取らなかった高校時代とはえらい違いである。ヤツも大人になったということだ、と思って感慨深い。
そのはずなのに。
「……」
先ほどまで軽やかに動いていたはずの足が止まって、まるで根っこが生えたみたいに動かなくなる。うまく飲み下せないようなモヤモヤとした気持ちが腹の奥に溜まって渦巻く。
高校時代にも、女性にキャーキャー言われている流川を見て面白くない気持ちになることは多々あった。それは単純にモテている流川への幼い嫉妬と流川に対する対抗心ゆえだった。今回もそれと同じものなのだろうかと一瞬思って、しかしそれが違うということは自分でも気が付いていた。この、今の面白くなさの理由は。
なかなかいい反応を示さない流川に焦れたのか、流川の斜め前立っていた女性が流川に一歩近付く。真っ赤な高いピンヒールを履いてもまだ届かない身長を埋めるように少し背伸びをしながら、流川の腕にその手を絡めた。
「ッ、!」
瞬間、先ほど抱いたモヤモヤとした気持ちが自分の中でぐんと大きく膨らんだことを痛いくらいに自覚する。花道は思わず、グラスを持っていない方の手をぎゅっと握りしめた。その場に飛び出していきたい衝動を抱いて、しかし飛び出したところで何を言えばいいんだと思って寸でのところでそれを抑える。
いや、待てって。何を言えばいいんだ。――オレがこの状況で何を言う権利があるっていうんだ。
(コイツがモテんのなんて今更じゃねーか)
こんなことは多分いくらでもあったし、これからもあるだろう。この天才には敵わないまでも今期それなりの活躍をみせた流川楓という選手は、年々バスケット界でも大きな注目を集め始めているから尚更だ。
そして別に、花道は流川の浮気を心配しているわけじゃない。
現に流川は全く興味のない、それどころか段々とあからさまに面倒くさそうな顔をし始めていた。元々が仏頂面だから初見の人間には分からないかもしれないけれど。
そんなことを心配しているわけじゃなくて、オレが、……オレが今衝動的に思ってしまったのは。
花道がそんなことを思っている間にも、彼女たちはぐいぐいと積極的に流川にモーションをかけていく。見たくない。見たくないけれど、どうしようもできないまま体が動かない。
「……ハナー? どうかした?」
後ろから話しかけられて、金縛りが解けたみたいに花道ははっとする。振り返れば、花道よりも少しだけ低い位置から不思議そうにこちらを見ているデイビットがいた。彼は花道とは別のチームだが、何度か試合をする内に妙に馬が合って親しくしている選手の一人だ。
「あ、……なんでもねえ! それよりデイビットも来てたのかよ」
花道はぱっと体ごとデイビットの方に向け、そう明るい口調で言う。視界から流川と女性たちは消え去り、気の置けない仲間の笑顔が目の前にくる。物理的に見えなくなれば、モヤついた気持ちがほんの少しだけ落ち着く。花道はそのことに少しほっとした。あのままでいれば自分がよくない方に思考が行ってしまうと自分で分かっていたからだ。だから花道は、「あっちに美味いメシがあったんだ」と言ってデイビットと一緒にさりげなくその場を離れることにした。
歩きながら最近のチームのこと、バスケットのこと、練習のことなど他愛のない雑談をすれば気は紛れる。デイビットの軽口に花道がけらけらと笑っていたところで、ふ、と背中に視線が刺さったような気がした。
「――……」
ほんの一瞬、ちり、と焼け付くような鋭くて強い視線。敵意以外でこんな視線を向けてくる相手は、花道は一人しか知らない。
気のせいかもしれない。だってアイツはあっちでオネーサマ方とよろしくやってたじゃねーか、と思う。だけど。
花道は振り返ろうかわずかに迷う。だけど、……今はデイビットとの話の途中だから。そう言い訳のように思って、花道は後ろを振り返らないままその場を後にしたのだった。
◇
玄関のチャイムが鳴って、花道の心臓はどきりと小さく音を立てた。そろそろだろうとは分かっていたから、インターフォンをろくに確認もせず玄関へと向かう。どうせ同じ場所からここに来るのであれば一緒に来た方が色々と楽なのではないかとは思うが、一緒にパーティを出るなんて流石にあからさますぎるだろうと思ったから、別々の時間にパーティを出てからうちに来いというのはヤツに事前にしっかり言い含めておいた。
玄関のドアを開けると、想像通りの男――流川がそこに立っていた。このあたりは街灯も多くないから、流川の真っ黒な髪が夜の闇に溶け込んでしまいそうだとすら思う。パーティ会場で羽織っていたジャケットは邪魔だからか脱いで手に持っている。すらりとした白いシャツに黒いパンツ姿が嫌になるほど絵になっていた。
勿論先ほどパーティでも姿を見かけはしたものの、ここまで間近で真正面から流川と相対するのは久しぶりのことで、目の前に立っている流川を見てまたうっかり心臓が脈打つのが分かる。これだけで高揚する自分の気持ちに気が付いて、付き合いたてかよ、と自分で自分に呆れた。だって久しぶりなんだよ、仕方ねえだろ。
そんな花道の繊細な心情も知ったことではないとでもいうふうに流川は「何突っ立ってんだ、どあほう。邪魔するぞ」と言ってずかずかと家の中に入ってきた。その態度と言い草に咄嗟に少しだけムカっとこないではなかったが、しかしずっと外にいられても誰に見られるか分からないからさっさと入ってもらったほうがいいのは確かだ。
それに、そんな些細なムカつきよりも二人きりで会えた嬉しさの方が勝った。だから花道はそんな文句は飲み込んで、「……おう」と言って流川を通して家のドアを閉めてやる。ガチャリ、と重そうなドアが閉まる音がして、花道が鍵を締めたのとほとんど同時にぐっと腕を掴まれた。そのまま強く腕を引かれて振り向かせられて思わず「なんだよ!」と言いかけた文句は、熱い唇に塞がれて口に出すことは叶わなかった。
「……ッ!」
唇が触れたと思えばすぐに舌が伸びてきてわずかに開いた唇の隙間から侵入してくる。花道の舌に流川の舌が押しつけられて、その熱くてざらついた感触にぞくりと花道の背中が震える。流川の突然の行動に油断した一瞬の隙を突かれ、花道はあっという間に壁に押しつけられるような形になっていた。
「っ……、ふ」
唇の隙間から小さく声が零れる。互いの唾液が擦れて、混ざり合って、煌々と明かりの点いた玄関には似つかわしくないような淫猥な水音が耳を犯した。それに今の行為が現実であると自覚させられ、花道はかっと自分の体温が一気に上がったような気がした。
流川にやられて、そのままやられっぱなしを許すような花道ではない。手を伸ばして流川の後頭部を掴み、こちらからも舌を絡ませる。そうすれば流川だって、花道の口の中すべてを貪り尽くしてやろうとするみたいにさらに口付けを深くした。互いに引くことを知らない負けず嫌いで、そしてバカで単純だ。直接的な刺激を与えられて、こんなふうに一度火が点いてしまえば止まれない。息をすることすら忘れて、目の前の熱を食らう。
ふ、と花道の鼻孔をアルコールのにおいが擽った。それとほとんど同時に、いやに甘ったるい人工的なにおいもわずかに香る。これは香水の類だろう。流川がこんな香水をしていた覚えはない。というか、今日のようなパーティという場であろうとそもそも流川は香水をつけるようなタイプではないし、こういう香りは流川が好むとも思えなかった。明らかに女物のにおいだった。
じゃあ何の――と花道は酸欠気味の頭でぼんやり考えて、今日のパーティでの流川の様子が頭の中にフラッシュバックした。セクシーな女性に囲まれ、世間話と言うにはやたらに近い距離で話しかけられていた流川の姿を思い出す。あ、多分あの時だ。腕を絡ませたり身体的な接触もしていたから。しかし、腕を絡まされたくらいで匂いが移るものか? よっぽど彼女らの香水のにおいがきつかったか、それとも花道がその場を去った後にもっとべたべたと触られていたのか。
そのさまをつい想像してしまって、花道は反射的に深く眉根を寄せた。天才の想像力の豊かさを今ばかりは少し恨んだ。あの時に感じたモヤモヤが腹の奥でまた目を覚ましかけているのが分かる。一度思い出してしまえば天秤がネガティブな方に傾いてしまいそうになって、ダメだ、という思いが頭の隅でちらつく。今はンなこと思い出している時じゃないだろ――
そう花道が思った瞬間、股間に硬いものが押しつけられて花道の思考が現実に引き戻された。
「、ッ……!」
花道が思わず薄く目を開けると、至近距離で流川もこちらを見ていた。長い睫毛に縁取られた鋭い眼光に射すくめられ、パーティの最中に背中に感じたあの視線を思い出す。思考が現実に引き戻されれば、いい加減呼吸が苦しくなってきたことも一緒に思い出してしまって、そろそろと思ったところで流川も限界だったのかようやく唇が離れた。
互いに乱れた呼吸の音が玄関に落ちる。唇は離れても、ほとんど密着した体は離されないままだった。下半身にまだ流川の硬くなったそれは押しつけられたままだ。しかし花道のそれだって負けず劣らずの状態であることも、流川には当然バレているだろう。
男の体というのは単純だ。下半身への直接的な刺激と、相手も興奮しているのだと分かれば頭が茹だるみたいにかっと性欲に頭を揺らされる。流川は恥ずかしがる様子も悪びれる様子もなく、そんな花道をさらに煽るみたいにその鋭い眼差しで花道をじっと見ていた。
その態度に、花道がこんな即物的な行動にも煽られると分かっていてわざと押しつけてきているのだろうと想像がつく。それが少し悔しいが、しかしまんまと煽られてしまったのは事実だった。久しぶりだからもっとゆっくりとか、情緒をもってとか、そういうことはこの流川という男には関係ない。花道が色々考えていることを流川は全部蹴っ飛ばして殴り込んでくる。昔からそうだ。
もっと触りたい。深いキスがしたい。ぜんぶオレのものだって確かめるみたいにセックスがしたい。突きつけられるみたいに湧き上がる欲望に喉が渇く。花道がごくりと喉を鳴らすのとほとんど同時に、流川が口を開く。
「ベッド行くぞ」
くいと顎でしゃくるように流川がベッドルームを指し示す。そんな恥じらいも可愛げの欠片もないいつもの尊大な態度にすらひどく興奮を煽られる自分は、この男を好きになってどこか頭がおかしくなってしまったのかもしれないと花道は頭の隅で思うのだった。
「……っは、……」
中から自身を引き抜いて、使い終わったコンドームを外す。もう流石に慣れた手つきで花道は中身が零れないよう袋の口を縛り、ベッドサイドの小さなゴミ箱へ放った。どうせ一回では終われないと互いによく分かっている。シーズン中ならともかく、明日は互いにオフだということは今日の約束を取り付けた時点で確認済だった。
箱から新品のコンドームを取り出して装着し、花道は再び流川に覆い被さる。見下ろした流川は達した後の余韻に浸るように体は弛緩し、まだ呼吸も整いきらずどこかぼんやりとした表情をしていたが、花道が再び乗っかってきたことに気付けばその視線はすぐにまた花道へと向いた。長い睫毛に縁取られた黒い目がまっすぐに花道を見る。全身どこも汗ばんで、顔もうっすらと上気しているというのに、こんな時ですらこの男は挑むような目つきで花道を見据えた。その目にひどく欲情した。心臓がぎゅうと掴まれたみたいに苦しくなる。悔しいくらいに花道の心はこの男にとらわれているのだと、理屈より感情よりこういう体の反応が何よりも雄弁だった。
こんな目をした流川に対して、もう一回していーか、なんていちいち許可を取るのも野暮だ。最初の頃、加減も何もかも分からなくて酷くしたくなくていちいちあれをしていいかもう一回やっていいかと聞いていたら最初こそ流川もひとつひとつ答えてくれていたが、あんまり花道が毎度お伺いをたてるものだから最終的にしびれを切らしたようで『いちいち聞くなどあほう』と怒られてしまった。だから今はもう、分かっているときはいちいち聞かない。慣れてくれば、視線の温度で今なにを流川に強請られているかどうかくらいは分かる。
再び流川の脚を抱え上げて腰を押し進めると、すっかりぬかるんだそこは碌な抵抗もなく花道を迎え入れる。「ッ、……」と流川が息を詰めて小さく体を震わせた。鋭い目つきが僅かに緩み、熱を滲ませて揺らぐ。そのさまを見下ろして、流川に受け入れられているという実感が花道を何度でも高揚させた。
奥まで挿入して、は、と花道は熱い息を吐き出した。一回目はろくにキスや愛撫もせずに余裕なくがっついてしまったけれど、二回目は多少の気持ちの余裕が生まれて、キスがしたいと流川の顔を見下ろしながら思った。だから花道はぐっと顔を近づけて唇を重ねる。流川は拒まずにそれを受け入れる。唇が触れる直前、ふっとまた少しだけアルコールのにおいがした。そういえば今日パーティだったな、ということを熱に浮かされた頭の隅で思い出す。
ちょっと深めのキスをして、離れて、今度は首筋に唇で触れた。流川の汗のしょっぱい味とにおい。そしてその奧にほんのわずか、先ほどよりも幾分薄くなった甘ったるい香りが花道の鼻孔に届く。その瞬間に今日のパーティでの、流川が女性たちに囲まれている姿が再び花道の脳裏に過ってしまった。興奮し高揚していた気持ちが、それでわずかに萎むような心地になる。
(……あ~くっそ、今思い出すなよ)
あれは仕方のないこと。流川も好き好んでああされていたのではなく、流川なりに考えて無下にできなかったのだということも分かっている。浮気の心配なんぞをしているわけでもない。だけど、それでも。
唇を離して、再び流川を見下ろせば正面から視線が絡む。花道を見上げた流川の眉根がぴくりとわずかに動くのを見て取って、何かは分からないが本能的な部分がそれにどこか居心地の悪さを感じて花道はその視線からさりげなく逃げるみたいに目を逸らした。しかし流川というやつは、その程度で誤魔化されるようなやつではないことを花道は長い付き合いの中でよくよく知っている。
「おい。何か言いてーことあんなら言え」
なんでこの男は気付くのか、花道にはいまだにわからない。花道は、昔から流川に何かを隠したり誤魔化したりといったことがなぜかできなかった。こうやって目ざとく気付かれてしまうからだ。普段はバスケ以外の何事にも興味がなさそうな顔をして、花道が揺らいだり不安になったり悩んだりしている時、なぜか察してこんなふうに逃がそうとしてくれないのが流川だった。
「……別に」
「別にってカオじゃねーだろ」
ほら、今もだ。視線でこちらを貫こうとでもしているんじゃないかというくらいにまっすぐに、鋭い眼差しで流川は花道を見ながらそんなことを言ってくる。これは絶対に逃がさないつもりの目だ、と花道は自分でも嫌になるほどに分かっていた。何でこいつはこういう時ばっかり妙なこだわりとしつこさを見せるのだろう。そう半分やけになった頭で思いながら、花道は数秒の逡巡の後に小さく息を吐き、そうして再び口を開いた。
「別に、……ちょっと面白くねーって思っただけだ。てめーが女の人にべたべた触られてんのが」
そう言ってから、どの口が言うのだろうと花道は自分でもさすがに思う。
彼女たちがただのファンということではなく、そういう意味で流川を狙っていたのだろうということは花道も気付いていた。あんなにべたべたと近い距離でアピールするというのはそういうことだろう。
表向きには流川はパートナーはいないということになっている。もし流川と花道が付き合っていることを公表していたら――それでもいいと狙ってくる人がゼロではないかもしれないが――しかし多少の牽制にはなっただろう。だけど、付き合っていることを公表しないでおこうと言い出したのは他でもない花道自身だ。
大嫌いなヤツで、絶対に勝ちたいライバル。そう思っていたはずなのに何の間違いかうっかり好きになってしまって、どうしようもなくなって告白をしたらなぜか流川もオレのことが好きだと言って、そして流川は今自分の腕の中にいて。
それでいいと思っていた。こうしてふたりきりで触れることができればそれでよくて、自分たちのこの関係は自分たちが知っていればそれで十分だと思っていたはずだ。それで自分はもう満足なのだと、そう思ってきたはずなのに。
(こいつがオレのもんだって堂々と言えればいいのに、なんて)
誰に強制されたわけでもなく、そんなルールを決めたのは自分だ。だというのに今更そんなことを思ってしまう自分に呆れる。
自分に対して呆れてしまえば、じわじわと先ほど言ったことへの恥ずかしさが改めてこみ上げてくる。どうせこいつもいつもみたいに呆れてんだろ――そう思って花道は流川の顔を恐る恐る見やると、流川は呆れたというよりもむっとしたような顔をしていた。こっちは素直に言ったっつーのにこの野郎。
「てめーがそれ言うのかよ」
流川にそう言われて、花道はぐっと言葉に詰まる。
……そうだ、自分で公表はしないと決めたくせに勝手に嫉妬するなんてどうしようもない。流川に不機嫌そうな顔で見上げられてじわりとそんな自分に対しての羞恥を感じながら、花道は短く息を吐いて再び口を開く。
「だからっ、オレだって分かってるよ! 自分で言い出したことだって――」
「てめーだって今日ずっと色んなヤツに囲まれて、ベタベタ触らせて、へらへら楽しそーに笑ってたくせによ」
「ちょっと思っただけだ。出来心っつーか、ついっていうか、そういうのあるだろ。だから……、ん?」
あれ、なんだか話の流れが違う気がする。そう思って花道ははたと言葉を止めるが、なおも流川は言葉を止めない。
「んなこと、こっちは高校ん時から思ってんだよどあほう」
「……、高校?」
花道がオウム返しのように呟くと、流川はその細長い目をはっとしたように見開いた。
(いや、高校ってなんだ)
高校の時の自分たちには、まだ一切何もなかったはずだ。
ただの同級生、同じ部活のチームメイトで、高校三年の時にはキャプテンと副キャプテンで、そしてライバル――と流川の方は花道をそう思っていたかは定かではないが、少なくとも花道は流川のことをそう思っていた――自分たちの関係を表す言葉はそのくらいで、恋愛感情なんてあの頃の自分たちの間にはなかった。自分たちがこういう関係になったのは、アメリカで再会して花道が流川への恋情を自覚して、花道から告白をしたからだ。あの頃の自分たちには、まだ何も。
……いや、でももしかして、そう思っていたのは。
虚を突かれたような顔をする流川を思わずじっと見つめてしまえば、その視線に耐えかねるみたいに流川の目が気まずげに逸らされた。
「……、喋りすぎた」
流川の顔が、目元がじわりと赤く染まっていく。それは先ほどまでの行為のせいだけではないということは、流石の花道でも分かる。いつもバスケ以外のことには淡々として無愛想な男にそんな反応をされてしまえば、今の言葉が流川の本心であることに嫌でも気付かされてしまう。
高校の時からそう思ってた。話の流れからしてつまり、流川が今日の花道と同じように嫉妬していたということで、それが高校の時からってことは――
(いや、おい、待て。……んなことてめー一言も言ったことなかったろ)
嘘だろ。そう心の中で呟きながら、今度は花道が一気に顔を熱くする番だった。多分今の自分の顔は流川のことをまったく笑えないくらいに赤いだろう。
告白をしたのは花道からで、色んな葛藤や不安を抱えながら一世一代の気持ちでした花道の告白に対してそれを受けた流川は平然とした顔をしてその告白を受け取った。オレも好きだなんて言った声はあんまりいつも通りだったから、自分の耳がおかしくなったのかこいつが意味を分かっていないのかと疑って危うくケンカになりかけたくらいだ。
だから、とにかく、ずっとこっちばかりが追いかけているのだと思っていた。バスケでも恋愛でも、だ。それがずっと少し悔しかったくらいだった。
確かに思い起こしてみれば、高校の時からふとした瞬間に流川からの強い視線を感じてはいた。しかし流川から向けられるそれは、もっと練習しろとか、フォームが悪いとか、そういうバスケを介した何かなのだとずっと花道は疑いもしなかった。だって自分たちの間を繋ぐものといったらやはり、バスケだったから。それだけだと思っていたから。
(いや、……いやいやいや、嘘だろ)
しかし目の前の流川のらしくない表情こそが、それが嘘ではないということをなにより物語っている。
――もっと早く言え、そういうことは。そう思うけれど、しかしその時の自分はまだ全然、この感情につける名前をちゃんと自覚していなかったから言われたところでどうなっていたかなんて分からない。だけど、とまた自分の中でぐるぐると考え始めてしまう。流川のことが好きだと自覚してから告白をするまでの悩みに悩んだ日々を返しやがれという気持ちすら生まれてくるけれど、しかし今一番大きな感情はそんな不満や動揺よりも、もっと単純な。
「……ッでかくすんな」
「仕方ねーだろ!」
どうしたって、嬉しい、と思ってしまう自分が悔しい。だけど自分の好きな相手に、もっと昔から想われていたなんてことを知って嬉しくならないやつがいたら教えてほしい。先ほどまで自分の中で渦巻いていた嫉妬や不安もどこかに飛んでいってしまった。単純王、と頭の片隅で洋平たちが笑う。単純で悪いかコノヤロー。
なあ、ルカワ。そう、もっと詳しく話を聞こうとしたところで流川の腕が伸びてきてぐっと頭を引き寄せられる。油断していたからそれに抗う余裕もなく、唇を塞がれた。しかもすぐに舌がねじ込まれて、その感触とじっとりとした熱に触れてしまえば花道は何も考えられなくなってしまう。
それと同時に脚で腰までホールドされて、中を強く締め付けられたのは多分わざとだ。突然の強い刺激に息が詰まる。花道が呼吸を忘れた隙にも流川の舌は遠慮なく花道の口内を貪ってくる。単純な男の体は、上からも下からも与えられる刺激に簡単に熱を上げ、脳をくらりと揺さぶられる。キスで口をふさがれて、酸素が足りなくなったせいもあるのかもしれない。頭がぼうっとして、流川に触れている場所が中も外も全部熱くて気持ちいいことと、目の前の男へ抱く熱情以外のものは手のひらからこぼれおちていく。
深く合わさった唇が離れた後、再び見下ろした流川の唇はどちらのものか分からない唾液ですっかり濡れそぼっていた。照明を絞った薄暗い部屋の中、ベッドサイドの淡い照明に照らされたその唇がいやらしく光るさまから、花道は目が離せなくなる。コートにいるときのこの男からは、絶対に、まったく想像ができないほどの淫猥な恋人の姿は何度肌を重ねたって新鮮に花道にとっては劇薬のようなものだった。
その唇が薄く開いて、短く息を零した。その吐息にこもった高い熱と湿度すらも肌で感じられるほどの距離で、流川の唇が花道に囁く。
「早く動け、どあほう」
この声に自分は弱い。低くて熱を帯びたその声が、自分の身体の内側に作用するみたいに火を付ける。はぐらかされたことは頭の片隅では分かっていて、それが悔しいのに、しかし花道は目の前の熱とこの男が自分を呼ぶ声にはどうしたって抗うことができなかった。
売り言葉に買い言葉――の代わりに花道が予告なくぐんと強く腰を打ち付けると、流川の体がびくんと快楽に震えた。普段は最中になかなか声を零さないその唇から、「あ……ッ」とどこか甘ったれたような響きの声が零れ落ちる。その鋭い瞳が快楽にじわりと緩み、熱を帯びる。
――今年全米中を熱狂させた東洋のスーパープレーヤー。
誰より美しいフォームでシュートを放つその腕が、窮地にも鋭く切り込むドライブを可能にするその脚が、悔しいかな多くの女性を惹きつけるその整った顔が、いま全部花道の腕の中にある。その体が、花道がほんのわずか動く度に翻弄されるようにびくびくと震えて下肢を物欲しげにまた硬くする。それを見下ろしながら花道の中に湧き上がったのは、紛うことなき優越感だった。
熱を帯びた目が、過ぎた快楽にうっすらと水分の膜を張り始める。しかしそんな状態でも、瞳は花道のことをまっすぐに見上げていた。まるでなにひとつ見逃さないようにするみたいに。それに気付かされれば花道は気恥ずかしくて首の後ろが熱くなってしまうのに、しかしこの男のそんな強欲さが、どうしようもなく好きだと思った。
欲しいものは全部手に入れてしまう男だ。アメリカ行きの切符も、プロのバスケット選手になるという確信めいた目標も、NBAでプレーするなんていう大それた夢すらも。
首の後ろに回された流川の腕に力が込められる。今のは意図的なものではなく、快楽ゆえに思わず体に力を込めてしまったというような動きだったけれど。眉根を寄せた流川の、熱いくらいの息に混じって「さくらぎ」とこちらの名前を呼んだその言葉尻が、じわりと溶けるように甘くなっていく。
その目が、声が、体が。目の前の男と触れ合った場所のすべてが、花道のことを好きだと言う。
(……あ、どうしよう)
言ってやりたい、と思ってしまった。
この男は、オレのものなんだって。全世界に言ってやりたくなってしまった。ひどく茹だった思考のまま、花道はそう思う。公表しないでおこうと言ったのは、今までずっと躊躇ってきたのは自分のくせに。
それは、恥ずかしいからだと自分で思っていた。それが本心だと自分を騙してきた。
だけど本当はもうひとつ――心の底では、自分は怖がっていたのだ。いつか終わりが来てしまったら、と。そうなったときに自分が立ち直れるか分からなかった。だって、好きな相手と付き合うなんてこと、自分は初めてだったから。自分がどうなるか分からなくて怖かった。
だから予防線を張っていた。自分たちだけの間で完結する関係性ならば、別れたときの影響や痛みも最小限で済む。自分が忘れられれば手放せる。全てを無防備にしないように。本気で深入りしすぎなければ、なんて、心の底で一線を引いたふりをして。
だけど、今この瞬間に、そんな言い訳も自分自身にきかなくなってしまった。
自分はもうとっくに本気の本気になってしまった。目の前の男に対して。もうそんな小手先の予防線なんてきかない。怖いからとか、恥ずかしいからとか、そんなものでもう誤魔化せはしない。
(それに、……)
見下ろせば、流川と視線が絡む。そのうっすらと潤んだ鋭い黒い目の中に、自分だけが映っているのを見つけてしまう。今、自分たちはそれほどに近い距離で互いだけを見ているのだ。そのことが、花道の心を喜びと満足と優越感でひたひたに満たす。
――もっと、信じてもいいのかもしれない。
流川と付き合い始めて、今が一番そう強く思った。
もういい加減、……いやもしかしたら最初から、自分は終わりを勝手に想像してひとりで怖がらなくたっていいのかもしれない。
腰を押しつけて、流川の一番奥までを穿つ。そして何度か流川の好きなところを擦り上げてやると、内側がきつく締まった。もう流川も限界が近い証拠だ。搾り取られるようなその刺激に、花道も息を詰める。
「……ッ、でる、」
そう言うと、流川は絡ませた腕と脚の力を強くした。今度は意図的なやつだった。全部寄越せと言われているかのようなその動きにこの男の我儘ぶりと強い熱を感じて、花道はそのことが、どうしようもなく嬉しいように思ってしまう。
再び二人で果てた後に、花道はふっと体の力を抜いて流川の上に倒れ込むように寝転がった。流川は「重い、どあほう」と口ばかりの文句を言いはしたが、そんな花道を突き飛ばしはしなかった。
◇
窓の外は見ていて気持ちが良くなるくらいの快晴、絵に描いたような爽やかな朝だ。今日は事前に確認していた通りお互いにオフなので、少し遅めの朝食を二人で摂った後のリビングはのんびりとした穏やかな時間が流れている。流川は相変わらず料理はからきしなので、朝食をつくるのは花道の担当、その代わりに洗い物は流川の担当というのがいつからか二人で迎える朝の定番になっていた。
ざあざあ、カチャカチャ、とカウンター型になっているキッチンから洗い物をする音が聞こえる。その心地良い生活音をリビングのソファに座って聞きながら、テレビを見ているポーズを取っている花道はじっと考え込んでいた。昨夜から思って、そして考えていたことだ。
自分から言ったくせにそれを自ら反故にするようなことは少し恥ずかしい。しかし、それ以上にそうしたいという気持ちが勝った。またあんな思いを抱えるのは嫌だし、それに、――あいつにあんなふうに言われてしまっては。
キッチンからの水音が止まる。それを合図にして、花道は「……なあ」と口を開いた。横目で流川の方を見やれば、流川は花道の言葉に顔を上げる。そして手に持っていた皿やコップを水切りカゴに置いて、手を軽く拭いてから「なに」と返した。リビングに戻ってきた流川は、花道が座っているソファの右側にぼすんと我が物顔で座る。いつもの流川の定位置だ。ソファの座面が人ひとりぶん、深く沈むのを感じながら花道は言葉を続ける。
「相談、なんだけどよ」
流川の目がこちらを見る。いつもの、長い睫毛に縁取られた鋭い目だ。高校生の時であれば何ガンつけてやがると怒ったところだったろうが、言葉は足りなくともその眼差しは続きを促しているのだと今は分かる。それが分かる程度の時間は、こっちに来てからこの男と共有してきた。
流川の視線に背中を押されるようにして、花道は続きを口にした。
「付き合ってること……公表するか?」
「ん。オレは最初から言いたかったし」
花道にとってはそれなりの緊張と覚悟を持って言った言葉だったのに、流川はあっさりとそう頷くものだから拍子抜けのような気持ちになってしまう。思わず「てめー、そんなあっさりと……」と漏らすが、流川はまったく意に介する様子もなくその大きな体をソファに凭れさせた。
「これで変な虫がてめーに寄りついてもオレのもんって言える」
いつもの低い声、平坦な口調で言われたその言葉を受け取った花道は、その意味を噛み砕いてじわりと耳が熱くなってしまう。
「……なんだよ変な虫って。浮気なんてしねーよ」
「別に心配はしてねーけどオレがムカつく。てめー女にはよえーし、男もちょっと優しくされるとすぐへらへらすっから」
「へらへらとかしてねーよ……」
女性に弱いのはまあ、自分でも否定はできないからともかくとして男に対してへらへらしているなんて自覚はなかった。そりゃあ好感を向けられれば嬉しくなるし、チームメイトたちとはそれなりに仲良く楽しくはしていると思うが、――それにすら流川は内心でムカついていたとでもいうのか。
いやマジでてめーそういうのはちゃんと言えよ。わかんねーだろ。いや言われたところでどうしようもないが。そもそもそんなこと、思うのか、てめーが。オレに。考えるごとに段々と深まってきてしまう混乱の中、流川は更に畳みかけるように爆弾発言を落としてくる。
「いっそ、結婚でもするか」
「……は!!?」
あまりに脈絡の無いことを流川が言い出すものだから、花道は思わず大声を出してしまう。流川が「声でけー」と呆れたように花道に言った後、ふんと鼻を鳴らして続ける。
「オレは高校ん時から思ってた」
そうこちらのせいだとでも言いたげな態度は、相変わらず天上天下唯我独尊流川楓だ。昨日、「喋りすぎた」と悔しげに言って頬を染めていた男と同一人物だとは思えない。
「コイツ開き直りやがった……」
「それが一番分かりやすいだろ。オレはてめーのモンで、てめーはオレのもんって伝わる」
まあ、分かりやすさで言えばそうだ。そうだけれども。話の展開があまりに飛びすぎて、頭がついていってくれない。結婚っておまえ。交際公表通り越して結婚発表する気かよ。
「ああもう、待ちやがれってんだよ! だいたいそーいう話するにしてもなあ、ちゃんと指輪用意して、ロマンチックなっところでだな……っ、ロマンがないキツネめ!」
自分が幼い頃から夢想してきた理想のプロポーズ像ががらがらと音を立てて崩れていくのが分かる。この男のせいで。こんな、家のリビングで、文句混じりで口論寸前のやりとりの中で言うことじゃない。絶対に。
「知らねー、なんだって同じだろ」
「同じじゃねえ!」
「だったら、てめーが見本見せてみろよ」
流川の顔が、花道の顔を覗き込むようにずいと近付いてくる。首を軽く傾げた拍子に、その真っ黒な前髪が小さく揺れてその意志の強い瞳に影を作る。
「待っててやるから」
言っていることはやっぱりいつもの自己中俺様流川楓節だというのに、その煽るようでどこか楽しげな声色に、花道を見つめるそのまっすぐな表情に、ぐんと心を掴まれてしまった自分が悔しい。
「ふぬ、……ッ!」
絆されている。いつだって、何度だってそうだ。こんなにムカつくのに、だって、自分はこの自己中男の突拍子もない提案――もとい情緒もクソもないプロポーズ要求を断るという選択肢が更々ないのだと気付いてしまう。
「この……、っ、首洗って待っててやがれキツネ!」
「タイマンでもする気かてめーは」
流川は心底呆れたといったような口調で言った後、その口元をわずかに緩ませ思わずといったように小さく笑う。流川の笑う顔というのは、ものすごく貴重だ。今日の流川は機嫌がいいのかもしれなかった。
「まあ、待ちきれなくなったらオレのほーからするかも」
そんなことを本気めいた声音で言う流川に、また焦る。宣言をしたからには、カンペキなプロポーズで流川の度肝を抜いてやりたい。
――それに、高校の時から待たせていたのであれば、その十年分。
それだけの時間に見合ったものを渡してやろうと思ってしまう自分は、やっぱり、どうしようもなくこの男に絆されてしまっているのかもしれない。
とにもかくにも、まずは指輪をどこで調達したものか。そもそも流川の指のサイズはいくつなのか。そんなところから花道は、こちらを試すように見据える男をぐっと強く見つめ返してやりながら内心で算段を始めたのだった。