南向きの大きな窓は事前の不動産屋の話通りに日当たりが良く、明るい春の日差しがリビングをあたたかく包み込んでいた。これだけ明るいリビングだと、気分も明るくなる。やっぱりこの家に決めて正解だったなと花道は自然と自分の顔が綻ぶのが分かった。
最初に二人で住んだ部屋が少し手狭に思えてきたことと、流川がチームを移籍することになったタイミングが重なり、それならばと思い切って引っ越しをすることに決めたのだ。
前の家よりもずっと広いし、それこそ花道が日本で住んでいた家とは比べものにならない。それもこれも互いにプロリーグに所属しまとまった収入を得られるようになったという部分も大きいのだが、流石アメリカはスケールがデケーな、という気持ちに改めてさせられる。それを流川に言ったらてめーアメリカ何年目だと呆れられてしまったのだが、そんなことは花道はもういちいち気にしちゃいない。キツネがかわいくないことを言うのはいつものことだ。
先程引っ越し業者が届けてくれた段ボールの山に花道は「さて」と言って向かい合う。段ボールは業者がそれぞれの部屋でざっくり分けて置いていってくれたから、花道はリビング担当、流川は寝室担当で分担することにした。
花道はカッターを片手に、上から順に段ボールを床に下ろしては中身を開けていく。日用品や雑貨など、共用のものもあれば二人それぞれの個人的な持ち物もあった。花道はそれらをひとつひとつ分類して、棚や引き出しにしまって、空にした段ボールは畳んで適当に壁際に立てかけるように重ねていく。それを繰り返して花道はまた、次の段ボールの蓋を開けて仕分け作業に取り掛かろうとした。
と、その箱の中身は花道にはあまり見覚えのないものだった。花道はひとつ目を瞬かせる。これは流川が詰めた荷物だったかもしれない。中身はいくつかのバスケ雑誌や小物類、そして一番上には小さな四角い缶が乗せられていた。
これはどこに仕舞うつもりなのか、あいつに後で確認した方がいいか。この箱は後回しにするか、中身を適当にテーブルとかに置いておこう。――そうは思ったが、花道はなんだかその荷物に興味を惹かれてしまった。
雑誌類はともかくとして、この一番上にある缶が気になる。花道は見たことがない缶だった。だから当然、中身も知らない。
流川は自分のことをあまり喋る方ではないが、しかし逆に無闇に隠し事をする性質でもない。良くも悪くも表裏がない。だから、相手のことをなんでも知っているとは言わないが、しかし花道が知らない流川の何かがそこにあるということに、花道はいやに興味をそそられてしまったのだ。
(あいつの弱点に繋がる何かがここに! ……なんつって)
勝手に開けるのは悪いか、という思いが花道の頭にも一瞬だけ過るが、それ以上に好奇心の方が圧倒的に勝った。今更そういうことを気にする関係でもないだろう。まあ怒られはするかもしれないが。
だから花道はその缶を手に取って、そしてぱかりとその蓋を持ち上げた。蓋はあっけないほど簡単に開く。一体何が入っているというのだろう。あいつのことだからどうせ大したことのないものかもしれないが。そう思いながら花道は缶の中を覗き込んだ。
「お、……なんだ? これ」
中に入っていたのは数枚のハガキ、と小さな何か。ころころと缶の中を転がったそれを摘まみ上げると、古くなったボタンだと分かる。意外なそれに、なんだ、と花道の頭には疑問符が浮かぶが、しかしそのボタンには見覚えがあった。少し見つめてから、あ、と花道は思い出す。
あれは互いに高校を卒業した時の話だ。
高校の卒業式の日、流川は案の定式が終わるなり大量の女子に第二ボタンをせがまれたそうだ。そのうえ女子だけではなく、なんだかんだと慕われていたバスケ部の後輩部員たちにまでついでにせがまれたらしいが、しかし流川はそれら全部を断った。
正面から帰るのは人だかりもあるし、待ち合わせているのがバレたら恥ずかしいからと、あの日は裏門を通って花道と流川は合流して一緒に帰った。そして花道の家の前に着いて、別れる直前に流川が何やら花道に小さな何かを投げて寄越した。それが何か分からないまま反射的に花道は受け取って、そして手を広げてそれがボタン――おそらく、流川の制服の第二ボタン――だということに気付いたときには流川の後ろ姿はもう曲がり角の奧に消えていた。
いや、渡しっぱなしかよ。何か言えよ。告白の時もそうだけど自分だけ用件終わったからって満足するんじゃねえ。そう花道は思ったから、その翌週、流川が日本を発つ日に空港で花道もその文句の代わりに自分の制服の第二ボタンをくれてやった。勿論、同じく見送りに来ていた他のやつらが見ていないタイミングを狙ってこっそりとだ。
間違いない、このボタンはあの時花道が流川に渡したものだ。
(……まだ持ってたのかよ)
そう思いながら、その下にあったハガキを花道は手に取る。宛先は勿論流川。そしてその筆跡と、裏返して見た絵柄には花道はよく見覚えがあった。海の写真のポストカード。これは海南大の近くの雑貨屋で売っていたものである。
もう一度宛名面を見れば、下の方に数行だけ書いてある、近況とも言えないくらいの最近の試合の話。結果報告と、自分がいかに天才ぶりを発揮して活躍したかという一文。それは間違いなく、大学時代に花道が流川に宛てて書いたハガキだった。
流川に何かしら連絡を取りたい気持ちは無いではなかったが、電話は高いし、手紙だって何を書けばいいかなんて分からない。そんな風に思っていたところに、『ポストカードならそんなに文章書かなくていいからいいんじゃない』と彩子からアドバイスを貰ったことから、何度か流川にポストカードを送ったことがあったのだ。
高校一年の頃、背中の怪我の療養期間中に晴子と文通していた時には手紙の内容にそこまで困ることはなかったのだが、相手が流川となると花道は何を書いていいのかポストカード程度の短いスペースでも分からなかった。だから結局バスケについての近況を書くくらいの素っ気ないものだったが、流川の方も似たようなものだったらしい。結局互いに直近の試合結果を書いた程度の素っ気ないやりとりしかほとんどなく、そのうえ時折思い出したように年に数度届く程度のものだったが。
それでも花道にとってあの頃、自分宛に届いた郵便の中に流川からの物があったとき、すごく嬉しかったのだ。当時は今みたいにケータイもメールもなかった時代だ。自分たちの間を繋ぐバスケへの意思は確かに信じていた。だけど、こうしてこんな不器用な形でも、恋人としての何かを繋いでいたかったのだろうと今になって振り返ると思う。
――それにしたってあいつも、こんなふうにわざわざ缶に入れてまで、いまだ大事に残しているなんて。
花道は思わず、肩をくつくつと揺らして笑ってしまった。自分だって実は、まだこっそりとあの頃のポストカードもボタンも同じように全部手元に残していることは棚に上げる。
よく言えばクール、悪く言えば無愛想。そう言われることが多いヤツだが、意外と、こういうかわいいところがあったりもする。もうすっかり長く濃密になった付き合いを通して、花道はきっと他の誰よりもあの男のそういうところを知っていた。
花道はすっかり楽しい気分になってしまって、これはからかってやらねばなるまいと缶を手に持ったまま立ち上がる。勝手に中身を見るなどあほうと言って眉根を寄せられるかもしれないが、知ったこっちゃない。それよりも今、あいつの顔を見て、こんな思い出話とヤツの可愛げを笑ってやりたくなってしまったから。
寝室の方に足を向けて、花道は恋人の名前を呼ぶ。
「楓! 今見つけたんだけどよ――」
声をかけると、寝室の方から「どうした」と声が返る。聞き慣れた愛想のない低い声。だけど今となっては、花道の一番好きな声だった。
花道は手に持った缶の中身をもう一度ちらりと見て、そして駆けていくように早足で寝室の方に向かう。ドアを開けて廊下に出ると、窓から射した太陽の光が廊下にまで差し込んで、光の絨毯のように花道の歩く先を照らしていた。