首輪のない忠犬
告白まがいのことを口にしたのは、ちょっとした気の緩みだった。二人での視察の後に、直帰だったからと流れで二人で夕飯を食べに行って、会話も弾んで楽しくて気分がよかった。だからだ。育ち始めていたその感情を、ストッパーもなしにうっかり言葉にしてしまったのは。
目の前のオモダカが目を丸くしたさまを見て、チリの心中に浮かんだ感情は、まずは後悔。そして同時に、どこか胸のすいたような心地にもなったのだ。――この人も、自分の言葉にこんな風に動揺し、戸惑い、感情が揺らされることもあるのだと。自分の何十分の一かでもいい。自分のことを考えて悩めばいい。
この人の心の中に、自分だけの爪跡を残せるのなら。
「チリ。残業ですか」
涼やかな声に呼ばれ、チリは事務仕事用のパソコンから顔を上げる。デスクの横に立ってこちらを見下ろすオモダカの長い髪が、彼女が顔を傾げた拍子に小さく揺れた。電灯がうっすらと逆光になってオモダカの輪郭を照らす。もうチリ以外の職員は退勤したフロアは節電のためと不要な電気は消灯され、チリのデスクの周りだけが明るかった。
「ああ、トップ。お疲れ様です」
そう言ってから、チリはわざとらしい口調で「ちょっとねえ、人使いの荒い上司がおりまして」と肩をすくめてみせる。言われたオモダカはいつもの調子で「おや、すみません」と微笑む。
「やはりこの仕事は、チリに任せるのが一番質が良くて」
「……ご期待いただき光栄です。ま、もうすぐ終わるんで大丈夫ですよ」
「そうですか。ならよかった」
オモダカはそう目を細めてから、ずっとチリ頼みも良くないと分かってはいるんですけれど、と苦笑する。言われてチリは思わず、別にいいですよ、と返したくなった。――彼女に有用な部下として頼られるのは嬉しい。そして、彼女の側に己を繋ぎ止める理由のひとつになるのであればこんな事務仕事のひとつくらい、なんてことはないのだ。
(……我ながら、どんだけ絆されとるやら……)
そんなアホらしい思考をしてしまう己にチリは思わず呆れる。しかし、自分でどれだけ茶化そうとそれだって本心であると気付いてしまっていた。
一度芽生えた、上司と部下だけの言葉にはおさまりきらない類の感情や執着は、一度口に出せばそれが自分にも跳ね返ってきてしまったみたいに、あの日からさらに加速度的に大きくなってきてしまっている。
あの日以来、互いにその話はしていない。一度も。あの一夜のことは幻だったのかもしれないと思うほど、何事もなかったかのように自分たちの日常は続いている。それでもあの時のオモダカの表情は瞼の裏に焼き付いているから、幻などではないと分かる。
自分たちの日常は変わらない。変わったのは、自分の感情の大きさばかりだ。――いや、ひとつだけ変わったのは、あれ以来二人でプライベートで食事などに行っていないことか。
それはまあ、そうだろう。自分に上司と部下以上の感情を抱いている相手に、わざわざ期待をもたせるようなことをするものでもない。オモダカがそのつもりならば、チリだってそれで構わなかった。今のチリにとっての最優先事項は、彼女にとって一番の有用な部下であり続けることだったから。
「トップ、ジャケット脱いでるの珍しいですね。まあ、この時間でも暑いか。今の時期は」
雑念を振り払うように、チリはがらりと話題を変える。オモダカは普段黒のジャケットをきっちり着込んでいるのだが、今はジャケットは脱いで畳んで腕にかける格好になっている。もうすっかり日は落ちているが、夏の入口に立ったこの季節ではまだ外も昼間の名残で蒸し暑いだろう。そういえば今朝の天気予報でも、今夜は熱帯夜になるでしょう、なんて言っていた。
「ええ。ですがこの季節は街も賑やかでいいですね。先程テーブルシティに行っていたのですが、期間限定のビアガーデンなんかも開かれていて楽しそうでしたよ」
「ビアガーデン! いいですねぇ、蒸し暑い夜にはうってつけの響き」
魅力的なその単語に、チリは目を輝かせる。チリは酒については人並み程度に好きだが、蒸し暑い夜にきんと冷たいビールを喉に流し込むことを想像すればそれは美味いことだろうと口元が緩んだ。今日の帰りに、この残業の自分へのご褒美がてら軽く一杯飲んでいこうか。チリがそんな計画をひとりで立て始めたところで、オモダカが再び口を開く。
「今夜、一緒に行きますか? チリ」
「……へ」
オモダカの言葉に、チリは目を丸くしてオモダカを見上げる。ぱちりと目を瞬かせるが、オモダカの瞳は逸らされない。変わらずこちらをじっと見るオモダカの表情に、今の言葉は自分の聞き間違いではないのだと知る。
「……それは、二人で、っちゅうことですか」
チリが恐る恐る確認を取ると、オモダカは当然のように頷いた。
「ええ。二人で。嫌でしょうか」
「嫌ではない、ですけど」
あんた、あれ以来プライベートで二人きりになるの避けてたんやないですか。
チリは思わずそうオモダカに問いたくなる。
確かにそれはチリの勘違いではなかったはずだ。今までだったら軽く食事に行っていたような流れの時も、あれ以来行かなくなっていた。そんな些細な違い。
もしかしたらもうオモダカの中ではあれはすっかり消化して、以前と同じような心持ちで純粋に気の置けないひとりの部下としてチリを誘ったのかもしれない。オモダカと二人でのビアガーデンはそれはチリにとってとても魅力的な響きではあるが、しかし、あの瞬間にわずかにでもこの人の中に残せたかもしれないと思った爪跡はもう彼女の中では消えてしまったのかと、それを悔しく寂しく思うような気持ちもある。こっちはずっと生傷だっていうのに。
――この人はどういうつもりで?
そう思って改めて見つめたオモダカの表情、その瞳の奧に、チリは自分の知らない色を見つけた。
いつも通りに見えて、チリを探るような瞳。トップチャンピオンとして、あるいはリーグ委員長、アカデミーの理事長として人前に立つ時には決してみせない色。その色の意味は、なんだろうか。チリはごくりと唾を飲み込む。
今分かるのは、オモダカはあの夜のことを、あの夜に零したチリの言葉をきっと忘れてはいないのだということだった。
(分かっとるでしょう。二度目は言い訳がきかないって)
それでも、こうしてチリを誘うつもりなのか。
前言撤回。生憎こちらは育ちの良い生きものではないから、期待をかけさせられて大人しく自分の内にある言葉を押し込めていられる保証などはない。もう一度、同じようなシチュエーションで、同じ言葉を口にしても構わないと?
「ええんですか、オモダカさん」
さまざまな意味を込めて、チリはオモダカにそう問いかける。そうするとオモダカはふっと目を細めて、チリだけを見つめて微笑んだ。それはこの短くはない付き合いの中で、チリが見たことのない類の表情だった。
涼やかで、低く、しかしどこか甘やかな声で彼女は言う。
「――、そういう気分なんです」
ああ、本当にずるい人だ! チリはそう叫びたくなる。そんな動揺を悟らせないようにこちらからも微笑み返したのは自分なりのプライドだ。
「分かりました。行きましょう」
仕事、ちゃっちゃと終わらせますんで待っといてください。そう少し茶化すような口調で言えば、オモダカは頷き「楽しみにしています」と機嫌良さそうに笑うのだった。
チェズモクワンドロワンライ 第12回【熱帯夜/そういう気分】