This is the “Love”



 建物の外に出ると、気持ちのいい快晴が広がっていた。ここナックルシティの特色でもある、古くからの伝統あるレンガ造りの建物の茶と空の青のコントラストが美しい。すぐに愛する相棒のリザードンに乗ってシュートシティに戻ってもよかったが、こんなにも気持ちのいい景色ならばたまには散歩をしながら街を見て回るのも悪くない。道に迷ったら……その時はその時だ。それにここは、あいつの街だしな。
 ダンデの名の前につく言葉が「チャンピオン」から「バトルタワーオーナー」に変わって早数ヶ月。バトルタワーの運営も軌道に乗ってきて、毎日予想を超える大盛況だ。おかげさまでスポンサーもチャンピオン時代からお世話になってきた先を含め多くついてくれるようになった。今日も長く親交のあるスポンサーのうちの一社との打ち合わせのためこの街を訪れていた。その会社とは今後バトルタワーと絡めたちょっとしたイベントやキャンペーンを予定しており、面白いものになりそうだとダンデも今からわくわくしていた。
 馴染んできた真紅の燕尾服の裾が風にはためく。気の向くまま、風が吹いてくる方に歩いてみる。今日の予定はこれで終わりのため、急いで戻る必要はない。今だって充実しているが、何かに追われるような忙しさは昔ほどではなかった。それを重荷に感じたことはなかったが、チャンピオンとしての日々の最後の方はゆっくりと食事をしたり、こんな風に目的もなく街をのんびり散策する暇もあまりなかったように思う。チャンピオンの名は己の誇りであったし負けたことは今でも本当に悔しいので「チャンピオンでなくなってよかった」なんてことは決して思いはしないが、時代は移り変わるものであることは間違いなく、歴史だってこうやって世代が変わりながら積み重ねられるものだ。こういう日々も悪くはないなと感じている。
 ふと視線を感じて振り返ると、弟のホップよりも小さい少年たちがきらきらとした目でこちらを見ていた。にっこりと微笑み返すと、その大きな目がより輝いて顔を綻ばせた。その表情にこちらも胸があたたかくなる。こうして応援してくれたり憧れてくれたりする人々の存在が今も変わらずたくさんあることは本当に嬉しくありがたい。
 さらに歩を進めると段々と行き交う人が減っていく。街の中心部からは少し外れたようだ。一層歴史を感じる重厚な建物たちが増えてきた。
(……あ、この辺りは)
 見覚えがある。ナックルシティジムリーダーである彼が管理している、この街の中でも特に伝統と歴史の詰まった場所――宝物庫はこの建物でなかったか。
 角を曲がると、遠くに見慣れたシルエットが見えた。目が覚めるようなオレンジ色。なんだ、ここにいたなんていい偶然だ。
 キバナはナックルシティジムリーダー兼ダンデの最高のライバルであり、親友であり、そしてダンデの恋人でもある。一番最後の関係性は、ダンデの肩書きが「チャンピオン」から「バトルタワーオーナー」に変わって間もなく加わった。ずっと好きだったのだとキバナからの告白をダンデが受け入れる形で始まったものだ。正直まだ親友やライバルの延長線上のような関係性のままで、恋人らしい触れ合いをすることはあまり多くない。お互い仕事が忙しいのもあるが、ダンデが恋愛という関係性に正直まだあまりピンときていないこともあって気を遣ってくれているのだろう、とは思っていた。そのことに申し訳ない思いもあるが、ダンデにとってはこの関係性が今は心地が良くて、キバナの言葉にしない気遣いに甘えたまま穏やかで楽しい日々を過ごしている。
 ダンデは彼の名を呼ぼうとして、口を開きかけたところで止まる。彼が誰かと喋っている様子だったからだ。
「――ありがとう」
 そう言ってキバナは垂れた目を更に細めて人の好さそうな笑顔を浮かべる。その視線の先にはキバナよりも少し年下くらいの若い女性が二人。ああ、ファン対応か、とダンデはすぐに納得する。この地方ではポケモンバトルが一種のエンターテインメントショー的に楽しまれていることもあり、チャンピオンやジムリーダーなど有名なトレーナーはある種アイドル的に親しまれている。チャンピオンの座に十年座っていたダンデは誰よりもそのことを身に沁みてわかっていた。ダンデには老若男女本当に幅広いファンがついていたが、キバナはその整った容姿に加えSNSを積極的に利用していることもあってか若い女性のファンが比較的多いようだった。
 彼女たちの目はきらきらと輝いていて、先程の少年たちの顔がダンデの脳内にフラッシュバックする。同じように憧れを湛えたきれいな目――いや、彼女たちの目の中にあるのはそれだけじゃない。ダンデはそういったことにはこっれまで滅法疎かったが、なぜだか分かってしまった。なぜだろう。バトルで相手が何を考えてどういう戦術でくるかを読むことはずっと得意だったが、ソニアにも呆れられるくらい全然そういった機敏は長年分からなかったのに。
 彼女たちがキバナに向けるきらきらとした目線の奥、憧れを纏った中にあるのは、恋情だ。
 彼女たちが何かキバナに話して、キバナは少し照れたように嬉しそうに笑う。その柔らかな表情を見た瞬間、自分の中でなにか、ぱちんと炭酸の泡が弾けるような、そんな感覚がした。
「――、キバナ」
 思考がまとまるよりも、衝動とも言うべき強い感情に突き動かされる方が早かった。ダンデとキバナたちの間には少しばかり距離があったが、ダンデの声はよく通って、キバナと彼女たちにもはっきりと届いたらしい。三人ともほとんど同時にダンデの方を振り返って、驚いたような目がダンデに向けられる。ダンデも自身の行動に驚いていたが、声をかけてしまったものはもう戻せない。
「ダンデ?」
 キバナはぱちくりと目を瞬かせてダンデの方を見る。驚くよな。オレだって驚いてるんだ。思考と感情が分離してそれぞれ勝手に歩き出しているみたいだ。自分の胸中に生まれた正体の見えない衝動と感情の置き所に困ったまま、ダンデはその場を繕うように「元チャンピオン・現バトルタワーオーナー」の微笑みを浮かべて三人の方に歩いていく。
「あぁ、すまない、話し中に」
「あっ、いえ、全然!」
 女性たちは慌てたようにぶんぶんと手を振る。突然のダンデの登場に心から驚いているようだった。脅かしてしまったようで申し訳ないな、と思いながらも、ダンデは勝手に歩き出していく感情に引っ張られるように続けた。
「ちょっとキバナに用があったんだ」
 そう言ってキバナの手首を掴むと、キバナの目線からまたクエスチョンマークが伝わってくる。その視線に若干居たたまれなくなりつつも、彼女たちは気を遣って「そうなんですね、じゃあ私たちはこれで……!」と一礼してぱたぱたと去っていく。……曲がりなりにもガラル最強のジムリーダーと元チャンピオン、この十年世間の注目を浴び続けてきたカードのツーショットだ。これまでもただ二人でいるだけで街中の目線を浴びることは多々あった。だいぶ驚かせてしまっただろうか。気分を害したような表情はしていなかったが、申し訳ないことをしたという良心の呵責が半分、なぜかほっとしている自分がいるのが半分。
(……なんなんだ、これは)
 果たして理性的とは言いがたい感情の動き方に、ダンデは内心動揺していた。彼女たちの背中が見えなくなった頃、隣のキバナがふっと息を吐いた。
「こっち来てたのか。びっくりした」
「……ああ、スポンサーとの打ち合わせでな」
「で、オレに用って? 何かあったっけ」
「……あー」
 キバナの至極当然の質問に、ダンデは言葉に詰まる。咄嗟に口をついて出た方便だったので、用事なんて本当はない。訝しげになっていくキバナの表情に耐えかねて、ダンデはキバナの手首を掴んでいた手をぱっと離して、「何でもないぜ」と言って笑った。チャンピオン時代からのキラキラのスマイルだ。しかしキバナがそんなもので誤魔化されてくれる男でもないことはダンデが誰よりもよく知っていた。
「何でもないって、じゃあなんで」
 答えを探すみたいにキバナはダンデを隅々までじっと見る。見るというか、観察するという表現の方が近いような見方だ。なんで、と聞かれても、自分にも分からないのだから答えようがない。逃げるようにふいと視線を逸らすと、離したばかりの手を今度はキバナから掴まれてぎくりとする。逃がすかよ、と言われているようだった。
「らしくないな」
「……悪いか」
「そうは言ってないだろ」
 キバナの探るような目線がなんとなく居心地が悪い。手首を掴む手の力が、きゅ、と僅かに強くなる。振りほどけないような強さではないけれど、ダンデはそれを振りほどけずにいた。キバナが少し考えるような表情をした後、ぽつりと「……あのさぁ」と口を開く。
「オレさまの自惚れだったら笑い飛ばしてくれていいんだけど」
 綺麗なエメラルドグリーンの瞳が、ダンデの黄金色の瞳をまっすぐに捉える。ダンデはなにも答えず、キバナの言葉の続きを待つ。
「さっきのって、嫉妬?」
 キバナの言葉が頭の中に届いて、意味を理解した瞬間、顔に一気に熱が集まった。
 ――嫉妬。そうか、オレは嫉妬したのか。モヤモヤとした気持ちに名前がついてすとんと納得したのと同時に、恥ずかしくなって顔が熱い。
「……え、うそ、まじで図星?」
 キバナがぱちくりと目を瞬かせて、「まじかぁ……」と呟いて口元を手で覆った。
 ダンデとて、「恋愛感情」というものを知らなかったわけでは勿論無い。身近な人間や友人が恋に胸を焦がしている姿も見てきたし、それを微笑ましく思っていた。ただそれを真に実感を伴って理解はできていなかったし、自分にとっては縁遠い感情だと思っていた。今までも、そしてこれからも。だからキバナに交際を申し込まれたときも、首肯したのは自分も同じ感情を持っていたからではなくて、純粋にその気持ちが嬉しかった、差し出されたその手をとりたいと思ったからだ。キバナとライバル以上の特別な関係になれることが嬉しかった。それでもいいかと聞いたら、キバナはそれで十分だと笑ってくれたから。
 ダンデはそもそもが博愛主義の傾向がある。誰か一人を特別に愛するというよりも、ポケモンとガラルの地とガラルに生きる皆を愛してきたし、これからもそうやって生きるものだと思っていた。誰か一人に恋をして特別に思うなんて感覚、焦がれて、執着して、嫉妬して、愛して。そんな感情知らない。知らなかったはずだったのに。
 突発的に生まれてしまったこの衝動が、未知の感情が「嫉妬」だと言うのなら、オレは。
 不意にキバナの手が伸びてきて、ダンデの額に触れる。手首は掴まれたままなので反対側の手だ。指先がダンデの前髪を避けたと思ったら、背の高いキバナが少し身をかがめて、その唇が額に降ってきた。
 柔らかく熱い感触が一瞬だけ触れて、離れる。ダンデが驚いてキバナを見る。これまで外では特にこんな風に恋人らしい振る舞いなんてしたことがなかったから。
「……ごめん、誰も見てないから、許して今日だけ」
 キバナがそう言いながら手で「ごめん」と示す。キバナの顔はダンデにも負けないんじゃないかというくらい赤くて、そして嬉しそうに緩んでいた。
 ドキリと心臓が音を立てる。愛おしいと思ってしまった。その感情の色は明らかに、ライバルや親友に向けるそれとはまた異なったものだった。
「嫉妬なんかされたって、オレさまはずっとダンデ以外にいないってのになぁー……まあそれはこれから時間をかけてわかってくれりゃいいや」
 呟くように言ってから、「ちょっとわがまま言ってみようかな」とキバナがそのきれいな目を細めてダンデを見た。
「これはダンデの口から聞きたいから聞くんだけど」
 そう前置きをしてから、キバナは再び口を開く。ふは、とキバナが我慢しきれなかったみたいに幸せそうに笑う。
「ダンデ、オレにやっと恋してくれたってことでいい?」
 こんなにもモヤモヤしてぐちゃぐちゃで非合理的で利己的で、ドキドキして幸せで、自分が自分じゃないみたいになって、それが恋だっていうのか。知りたくなかった、でも知りたかった、キバナと知ることができてよかった――ああ、感情がうまくまとまってくれやしない。これまで気付いてこなかった反動か、溢れたものが止まってくれない。答えようと開いた口、変に緊張をしてしまって喉の音がひりつくように乾く。もうずっと知っているはずだった君相手にこんな風に緊張するだなんておかしいなと自分で笑ってしまいそうだ。
 この未知の感覚に飛び込むのは怖さもあって、けれど繋がれたままの手のひらの熱を離したくないと、その幸せそうな表情が向けられるのが自分だということが嬉しいと、この手を伸ばして触れたいとそう衝動が叫ぶ――そう思うオレの唯一が間違いなく君なのだと今この瞬間に分かったこと、それがきっとこの問いへの何よりも確かな答えなんだろう。





(2020年2月16日初出)



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