空を染める
息をすることすら難しいくらいに吹きすさぶ砂嵐を抜けると、今度は眼前に眩しいほどの快晴が広がった。一人でワイルドエリアを自由に動き回れるようになって少し経つが、この天候の変わりやすさには改めて驚いてしまう。詰めていた息を吐き出して新鮮な空気を吸い込むと、無意識に入っていた体の力が少し抜ける。それにしたってあの砂嵐の中でも一切怯むことなくすこぶる安全な飛行をしてくれたフライゴンは改めて流石だ。優しく背を撫でてやると、フライゴンは嬉しそうに小さく鳴いた。
ナックルシティに隣接するこのあまりに広いワイルドエリアでは、天候が変わりやすく、また強い野生のポケモンも多く生息しているため、ある程度の実力のあるトレーナーでないと入ることは危険とされている。さらに、まだ十分な調査がされておらず安全面が保証できないという理由から、一般人の侵入が条例で規制されているエリアもあった。そのためガラルのほとんどの人は、ワイルドエリアを越えて移動をしたい場合安全なアーマーガアタクシーか鉄道を使う。
そんな中でキバナは自らのポケモンの背に乗ってワイルドエリアのどこにだって行ける――そして先日からワイルドエリアの見回りと調査も任されるようになった数少ない人間である。なんといっても昨年のジムチャレンジ初参加にしてセミファイナルトーナメント準優勝者、来期からはナックルシティのジムリーダーに就任することが正式に決まっている。ワイルドエリアに面している街のジムリーダーは、ワイルドエリアの安全管理と調査もその責務のひとつだった。今キバナは、ようやく少し慣れてきたワイルドエリアの巡回を終えてナックルシティに戻る途中である。ジムリーダー就任もいよいよ間近に迫り、ここ最近は引き継ぎやら書類やら研修やらでドタバタしている。今日も戻ったら書類や資料と格闘しなければならない。その街の実質的なリーダーであり、象徴となるのだ。やらなければいけないこと、覚えるべきことはいくらでもある。通常のジムリーダー業だけでなくワイルドエリアの管理、さらに宝物庫の番人も兼任することとなる栄誉あるナックルシティジムリーダーならば尚更。
ジムに戻ってからどう仕事を片付けていくかと効率的な方法を思案していると、フライゴンの動きが一瞬驚いたように鈍った。ほんの僅かではあったが、その一瞬の変化をキバナは見逃さず再びナックルシティに向かって飛行を続けようとするフライゴンに問う。
「フライゴン。どうした? 何かあったか?」
キバナの質問に、フライゴンはキバナの方を見た後目線でそれを指し示す。フライゴンの目線の先を辿ると――青々と茂る新緑の中に、ぽつんと鮮やかな紫色。小さなテントのそばに座っている紫の髪の少年とその側にいるリザードン、それを他でもないキバナが見紛うはずがない。
「……ダンデ?」
ジムリーダー就任が決まってからの研修で頭に叩き込まれた地図を思い起こす。そこは調査が終わっていないエリアで、特に強いポケモンの出現の恐れがあるため一般人は立ち入りができないよう規制がかかっているはずだ。立ち入り禁止エリア、それも最高ランクで等級としては一級と指定されている。そこにいるのはダンデとリザードンだけで、見渡す限り他に人は確認できなかった。
フライゴンがどうするかと問うようにキバナの様子を伺う。キバナが頷くと、フライゴンはダンデたちが居る方へと方向転換をした。飛びながら徐々に高度が下がっていき、空から見ていた時は小さかったダンデの姿がどんどん大きくなっていく。まずリザードンが近付いてくる影に気付いた瞬間構える様子を見せたが、キバナとフライゴンだと気付いた様子ですぐに緊張を解いてくれた。そして一瞬遅れてダンデもこちらに気付いて、驚いた顔をする。
「キバナ!?」
目を見開くダンデの前にフライゴンが優しく着地をする。キバナはフライゴンから降りて軽く頭を撫でてやった後、ダンデに向き直る。
「ダンデ。久しぶりだな」
「びっくりしたぜ……。どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だって。オレさまはワイルドエリアの巡回帰り」
キバナがそう言うと、ダンデは合点がいったようだった。ワイルドエリアの巡回はナックルジムが代々担ってきた仕事であることはダンデも知っているはずだ。
「ああ……! もうすぐジムリーダー就任だもんな。おめでとう」
「ありがとう。で、わざわざこんな一級立ち入り禁止区域でキャンプ? まぁ、強いポケモンが出ようがダンデなら心配ないけどさ」
ガラル最強のトレーナーたるチャンピオン・ダンデはキバナ同様立ち入り禁止制限の対象外である。だからダンデがここに居ようと何ら問題はないのだが、チャンピオンとして毎日あちこち飛び回って忙しそうにしているダンデがこんなところで一人でキャンプをしているのが純粋に不思議だったのだ。トレーニングをしに来たか、新しいポケモンを捕まえにきたのかとも思ったがどうもそんな様子でもない。
「……あー」
キバナの言葉にダンデは言い淀む。少しだけ迷った様子を見せたので、キバナはすぐに「言いたくないならいいよ」と言う。ただの自分の興味本位の質問なのだ。困らせるつもりはない。するとダンデは慌てて首を横に振った。
「別に言いたくないわけじゃないぜ!」
そう言った後、ダンデが小さく息を吸う。そして言葉を続ける。
「なんていうか……、少し、一人の時間が欲しくて」
――そう言ったダンデがキバナの知らない表情をしていたので、キバナは一瞬答えに詰まってしまう。
「……そっか」
胸の奥が、僅かにざわめく。その表情は、この感情は、何なのだろう。ダンデの表情にも、自分の胸中に生まれたざわめきにもキバナは戸惑った。その戸惑いを表に出さないように、できるだけ穏やかな表情のままでいられるように務める。
「確かにここは大抵のトレーナーは入れないから一人になるには丁度良いもんな。……っていうか、それなら邪魔したな。ごめん」
一人になりたくてここに来たというならば、自分が居るのは邪魔だろう。ただ気になって話しかけただけだから、悪いことをした。
「次に会うのは……ジムチャレンジの開会式か? じゃあまたな、ダン――」
キバナが踵を返そうとした瞬間、手首をぱしりと掴まれる。その力があまりに強くて、キバナは思わずつんのめりそうになってしまった。
「あっ、ごめん!」
ダンデは慌てた様子で謝る。しかしキバナの手首を掴む手の力を緩める気配はない。
「いや、いいけどさ」
何で。先程の言葉と矛盾するようなダンデの行動の意図が分からず、キバナは目を瞬かせる。問うべきか。問うていいのか。キバナが逡巡していると、ダンデがぽつりと零すように言う。
「……一人になりたいって言ったけど、キバナならいいんだ」
ダンデは長い睫毛を僅かに伏せた後、ぱっとキバナの目を見て再び口を開く。
「ここに居て欲しい。ダメか?」
まっすぐに、けれど僅かに揺れるダンデの黄金色の瞳がきれいで、目が逸らせない。
バトルで相対した時からキバナはダンデの目が好きだった。けれど今のダンデの目の色は、相手の手を読み合い勝利をもぎ取りに行く獰猛さや、バトルの楽しさにきらきらと輝くあの瞬間の色ともまた違う。知っているけど、知らない色だ。また、キバナの胸の奥がざわめく。十年と少し生きてきた中で知らない感情だ。自分の感情にまた戸惑いながらも、キバナは首肯する。ダンデにそう言われて断る理由などキバナにはなかった。なにより、ダンデにそう言われるのがどうしようもなく嬉しいと思ったのだ。
キバナが頷いたのを見て、ダンデの表情がぱっと明るくなる。ドキリと胸が跳ねた。ダンデに掴まれた手首からじわりと伝わる体温が、キバナの温度も僅かに上げている気がした。また、知らない感情だ。
ダンデに気付かれないように手早くスマホロトムを呼ぶ。それだけでロトムは察してくれたようで、ジムに戻るのが遅くなる旨手早く連絡を入れてくれた。本当に、オレさまのポケモンたちは優秀で助かる。次期ジムリーダーとしてやるべきことは山積みなので本当は早く戻った方が明日以降の自分のために良いのは頭では分かっているが、今日中に必ずやらなければいけないことは終わっているし、ずっと真面目にやってきたから今日くらいは許されたい。明日からまたちゃんとやるからさ。なによりキバナは、ダンデに掴まれた手首を振り払うことなんてできなかった。したくなかった。
少し早いけれど、ダンデに聞くと今日の夕飯は決めていないというのでカレーを作ろうと提案した。ダンデよりも早く彼のリザードンが嬉しそうに鳴いたので、「決まりだな」とキバナは笑った。リザードンとフライゴンには近くの木からきのみを採ってきて貰って、ダンデとキバナは手持ちの食材を見せ合う。ダンデが持っていたモーモーチーズを使ったカレーをキバナは食べたことがないと言うと、「じゃあそれにしよう!」とダンデは楽しそうに言う。その無邪気な表情はガラルチャンピオン・ダンデではなく、ごくありふれた、等身大の一人の少年に見えた。
ダンデとキバナが出会ったのは一年前のジムチャレンジの時だ。と言っても試合で相対するまでほとんど面識はなく、「チャンピオンカップまで進んだ数少ないチャレンジャーの一人」同士だった。
開会式には数十人いたジムチャレンジ挑戦者は最後は数人となり、迎えたチャンピオンカップ。その中で勝ち上がってきたダンデとキバナはセミファイナル決勝戦で戦うことになり、長時間に及ぶ一進一退の試合、お互い最後の一体であるリザードンのキョダイゴクエンとジュラルドンのキョダイゲンスイがぶつかり合う。激しい衝撃の後、砂煙の中で立っていたのはリザードンだった。その瞬間の、身を焼かれるほどの悔しさと熱く燃えたぎる興奮で体中がびりびりと痺れるような感覚、真正面に立つダンデの目が宝石みたいにきらきらと光っていたこと、呆気にとられたような静寂の後のスタジアムの熱狂。きっとこれからも忘れることはないだろう。唯一無二、溺れそうになるほど苛烈で濁流のような感情と眩しすぎるほどの景色、そして何よりあまりにも熱くて刺激的なバトル。一度知ってしまったら忘れられるものか。
その後ダンデはファイナルトーナメントも破竹の勢いで勝ち進み、遂にはチャンピオンも倒し新チャンピオンの座をも勝ち取った。久方ぶりとなるチャンピオンの交代、そしてわずか十歳の少年の鮮やかな勝利に、ガラル中は沸きに沸いた。ガラル地方が、そしてダンデとキバナの世界が大きく変わったトーナメントだった。
それからあっという間に一年が経ち、もうすぐ次のジムチャレンジが始まる。ジムチャレンジで実力が認められたキバナは、その開催に合わせてナックルシティ新ジムリーダーに就任する運びとなっていた。今年はジムチャレンジャーとしてダンデに挑むことはできない代わりに、ナックルシティジムリーダーとして必ずファイナルトーナメントを勝ち進みダンデに挑む。そしてこの一年鍛え上げてきたポケモンたちでダンデへのリベンジを果たす。キバナはそう心に決めていた。
あの試合直後、ダンデはキバナに駆け寄って「キミは、……すごいな!」と興奮を抑えきれない様子で話しかけた。長い睫毛に縁取られた大きな瞳は爛々と輝いている。キバナの碧色とは違う、眩しいほどの黄金色だ。
「キミはオレのライバルだ、キバナ! キミに負けないようにオレももっと強くなる!」
同じくらいにポケモンを愛し、ここまでポケモンバトルを愛する同世代の相手はお互いにとって初めてで、同じ熱量でしかし違う視点から熱く話せる人間がいたのだと知った。二人は最高のライバルになると同時に、あっという間に良き友人にもなった。とはいえチャンピオンになったばかりのダンデは、そしてキバナも次期ナックルシティジムリーダーに内定してからは忙しく、最近はあまり会ったりバトルをしたりということはできていなかったのだが。ジムチャレンジの次期が近付けば尚更だ。
友人としての時間が取れなくなるのに反比例するように、テレビや街中の広告なんかではダンデの姿を毎日のように見かけていた。だから、こんな風に生身のダンデに会うのは久しぶりだ。降って沸いたような友人との時間に、キバナは少なからず高揚していた。
まだまだ謎と危険の多いワイルドエリアに入る時は万一の急激な天候悪化や遭難に備えて簡単なキャンプ用品は持って行くように、というのはガラルの人々の常識だ。当然巡回だけの予定だったキバナも、ふらっとやってきたダンデも最低限のキャンプ用品は持ってきていた。
鍋や薪の準備を終えて一息ついたところでリザードンとフライゴンが小さな手いっぱいにきのみを採って戻ってきてくれた。ダンデは早速全部を切ろうとしていたが、全部を入れると味がごちゃごちゃになりすぎそうなのでその中からいくつかをチョイスすることにする。ダンデに何味が好みか聞いたけれど全くこだわりは無いようだった。
「キバナは何味が好きなんだ?」
「オレさま? オレさまは結構辛口が好きだな」
「よし、じゃあ辛口にしよう」
言うが早いか、ダンデはきのみの中から辛口カレーに合いそうなものを選び始める。クラボのみ、フィラのみ、マトマのみ。モモンのみは甘いから今回は使わないでおこう。ダンデに「いる?」と聞いたら、「ありがとう! リザードンが好きなんだ!」と嬉しそうに笑った。自分の味の好みはよく分かってないのに、リザードンの好物は熟知してるんだな。それもダンデらしくてキバナが思わずふっと笑ってしまうと、ダンデは不思議そうにしていた。
二人で適当に食べやすい大きさにきのみを切って、鍋の中に落としていく。誰かに見せるでもないので、特に見栄えにはこだわらない。ルーを溶かして煮込みながらあおいで、かきまぜて、そしてまごころ。最後に入れたモーモーチーズがとろりと蕩けて、そろそろかなとキバナは火を止める。米の様子を見ていたダンデも「できたぜ!」と言う。タイミングばっちりだ。あたりに良いにおいが漂って、ボールから出して遊ばせていたお互いのポケモンたちもそれにつられて集まってきた。
ポケモンたちの大きさに合わせてカレーを皿によそっていく。最後に塊の大きなチーズをトッピングするのを忘れずに。そして最後に余った分を均等に分ける形でキバナとダンデの分のカレーを皿に盛った。ふわりと香るカレーのにおいに、ダンデの腹が鳴るのが聞こえた。
「……聞こえたか?」
「ばっちり」
「……恥ずかしいぜ」
そう顔を赤くするダンデがおかしくて、「いいじゃん、腹が減るのは健康な証拠だぜ」と笑ってやる。
二人同時にカレーを口にすると、「美味しい!」と声が揃った。
「モーモーチーズのカレー、初めて食べたけど美味しいな!」
「オレも久々に食べたぜ! 実家にいる時はよく食べたんだけどな」
「そうなのか。ダンデの出身はハロンタウンだったよな」
モーモー牧場といえばジョウトだったよな、行ったことないんだよなぁ、と呟くと、「母方の遠い親戚にジョウトに住んでる人がいるんだ。そこから送ってもらってるらしい」とダンデが返す。
「へぇ! いいな、そういうの。オレは先祖代々ガラルだからなぁ」
言いながらキバナはまたカレーを一口食べる。辛口のきのみとまろやかなチーズの相性が抜群だ。辛口にしたのは正解だったなと思う。このあたりで売っているチーズよりも味が濃厚なのに繊細で美味しい。ナックルシティにもあるバトルカフェのオーナーはたまに他地方の食材も仕入れに行っていると聞くから、今度モーモーチーズが入荷しないか聞いてみようかな。まだ見ぬジョウトにキバナは思いを馳せた。
「あっちの方にはガラルにはいないポケモンも沢山いるらしいよな」
「らしいな。映像や文献でしかまだ見たことはないが」
「ジョウトもいつかは行ってみたいけど……」
キバナはそこまで言って、一度言葉を切る。フィラのみの角のある辛さが、ぴりついて舌に僅かに余韻を残す。
「まぁオレさまはガラルでダンデを倒す方が先だな」
キバナがそう言うと、ダンデの目にきらりと光がさす。嬉しそうに、しかしチャレンジャーを待つチャンピオンのぎらついた色も纏っている。キバナは試合の時の高揚がフラッシュバックして、ぞくりとした。
「ああ、待ってるぜ! 勝つのはオレだけどな!」
「言ったな。去年のオレさまと同じと思うなよ、今年こそ勝つから楽しみに待ってろ」
今にもバトルが始まりそうな熱を宿した瞳を交わした後、少ししてダンデがふっと笑う。
「……今日はありがとう、キバナ。付き合ってくれて」
「? おう、いいけど、どうした急に」
気付けば空になっていた皿を前に、ダンデが小さく伸びをした。ダンデ、相変わらず食べるの早いな。キバナはまだ三分の一ほど残っているカレーを咀嚼する。
「一人の時間が欲しかったって言っただろ」
そのワードに、キバナはドキリとする。気にはなっていたが、キバナが触れられなかったこと。
「――嫌なわけじゃないんだ」
今の環境も、周りの人たちも、チャンピオンとしての責務も。思っていた以上に忙しいけど、みんないい人だし、バトルのことを好きなだけ考えて試せる環境もローズさんたちに整えてもらった。ガラルのみんなで強くなりたいって夢もできた。何不自由ないんだ。そうダンデはぽつりと落ちるように呟く。
「ただ、この一年での環境の変化に、ちょっと気持ちがついていっていなかったのかもしれない。……ハロンタウンに居た頃の数十倍の、ものすごいスピードで、ものすごい濃度で日々が流れていくから」
そう口にするダンデは、キバナの知らない表情をしていた。長い睫毛を僅かに伏せて、憂いを帯びた、すぐ目の前にいるはずなのにキバナの手の届かないところに居るような。
それがたまらなく寂しくて、ひとりきりみたいな表情なんてさせたくなくて、衝動のままに手を伸ばして触れてしまいたくて――。
(……う、わ。まただ)
何だ、今の。また知らない感情がキバナの中に生まれる。ライバルとも、親友とも形容しがたい、おさまりどころの見つからないこの感情は何だ。
少し前まで抜けるような青に染まっていた空は橙に色を変えつつある。すぐそばのナックルシティでは今日も忙しなく日常が動いているはずなのに、あまりに静かで穏やかなこの場所は世界から切り取られたみたいで、世界で二人きりみたいな、そんな錯覚にとらわれてしまいそうだった。静かで、穏やかすぎて、自分の心臓の鼓動がいやに響く。
「衝動だったんだよな。一人の時間が欲しいって。そう言ったらオリーブさんが無理矢理今日の午後の時間を空けてくれたから、ここでぼーっとしてたんだぜ。そうしたらキバナが来た」
オリーブさんも何だかんだいい人だよな。そうダンデが口にする。風が吹いて、紫の髪が揺れる。ダンデが風で飛ばないように慌てて被っていた黒いキャップを押さえた。どこか遠くでアーマーガアが鳴く声がする。
「不思議だよな。一人でいたかったはずなのに、キバナが帰ろうとしたら寂しくて」
スタジアムに立つ時とは違う種類で、感情が忙しくてどうしようもない。嬉しくて、顔が熱くて、でも今日みたいな偶然じゃなくてもっといつでもそんなふうに近くに居る権利が欲しくて――もし他の誰かが今日ここに来たとして、それでダンデがそんな風に笑うのは嫌で。オレがよくて。まるで自我が芽生えたばかりの子どものわがままみたいに、そんなことを心の奥の自分が言う。
ダンデにさっきみたいな寂しそうな顔をさせたくないと思った。だけど一人にしないのは他でもないオレがよかった。それは、ライバルとして? 親友として? そのどちらもしっくりこなかった。
――本当は見当がつかないわけじゃない。だけどこの感情に、そう名前をつけてしまっては、いよいよ戻れなくなってしまう気がして。
ライバルでいたい。いや、いる。意地でもそれは居続ける。親友でいたい。ダンデと居るのは楽しいから。だけどそれだけじゃ届かない、もっと特別な位置にも居たいだなんて。
自分の中の世界が大きく変わっていく予感に、生きてきた十年と少しの経験値を総動員したってキバナはなすすべもない。ダンデと出会ってから、キバナの世界を大きく塗り替え続けるのはいつだってダンデなのだ。そういうおまじないをかけられてしまったみたいに。
「キバナ。食べないのか?」
ダンデの言葉にはっと我に返る。そうだ、まだカレーを食べきっていなかった。キバナは慌てながらも、この動揺をできるだけ悟られないようにスプーンを握り直す。
「あ、いや、食べるけど……って辛ッ!」
慌てて食べかけのカレーを口に運ぶ。と、大きく切り分けられたきのみのひとつを囓った瞬間強い辛みが舌を襲う。しかも運の悪いことにチーズの乗っていない部分だったらしい。ダンデが「大丈夫かキバナ!?」と慌てて水を手渡してくれたので、ありがたく水を一杯貰う。水を一気に飲むとだいぶ辛さは中和されて、少し冷静になる。この味には覚えがある。確か。
「これ……ヤタピのみ?」
「あぁ、あったな」
やっぱり。今よりもっと小さい頃、辛いきのみが好きなポケモン用にと親が買ってきたヤタピのみを生のままかじって今みたいに辛さに苦しんだっけ。
「ヤタピのみは辛さが強いから擦るか小さく切った方がいいってぇ……」
「すまない、全部適当に切ってしまった……」
そう申し訳なさそうに謝りながらも、ダンデは肩を震わせて笑っている。変なツボにはまってしまったらしく、おかしそうに笑うダンデを見ていたら怒る気力もなくなってしまった。なにより、ダンデが笑っているのが何だか嬉しくなってしまってだめだ。
夕暮れになって彩度を増して空を染める太陽の橙色が眩しい。ガラルの外にはまだ出たことはないけれど、ガラルの夕暮れは美しくてキバナは大好きだった。だけど愛するガラルの景色よりもきれいだと、どうしようもなく心惹かれるものがあるだなんて。
今はこの夕暮れ以上に、楽しそうに揺れる跳ねた髪の紫が、細められた黄金色の瞳が、無邪気に笑うその笑顔がどうしようもなくきらきらとして見えてずっと見ていたような気持ちになる。鼓動が、感情が、言うことをきいてくれない。ああ、これも知らなかった。ダンデに出会うまで、この胸の高鳴りを知ってしまった今日まで、知らなかった感情だった。